◇マハルと言う男◇
――そうあれは、初夏の日差しが厳しい日だった。
そこは風の大陸。その大陸にある大きな城で、一人の少年が幼馴染みと共にかくれんぼをして遊んでいた。
いつも父が座る玉座の背から、壁に貼り付いた大きな楕円の鏡へ真っ直ぐ五歩進んだ時、王家の者にしか分からない鏡の変化に気付いた。深い藍色にゆらゆらと揺れた気がしたのだ。
殆どの者が気のせいだと思うだろうが、何せ好奇心旺盛な年頃だ。少年はその鏡に手を伸ばし、吸い込まれるように消えていった――
「ここはどこだ?」
気付けば少年は森の中にいた。
見覚えのない木々が空高く聳え立ち、見覚えのない野花が咲き、少し遠くから見覚えのない小動物がこちらを伺っている。
風の大陸では、常に爽やかな風が吹く。木々が少ないうえに、水源が多く岩肌の地形が風を通しやすいからだ。
こんなにも緑豊かで風がないのはここが知らぬ土地という証。
少年は再度「どこ?」と呟き立ち上がる。
「父上、母上?」
そして幼馴染みの名を呼んで歩き出す。
日差しの強い日だった。暫く歩くと喉が渇き、まずは水を探そうと風に意識を集中する。
「あっちかな」
少し遠いが行かざるを得ない。少年はまた歩き出した。
――ようやく辿り着いた川に眼を輝かせて駆け寄った。川の流れが比較的穏やかな場所を選び、ちょうど少年と同じくらいの背丈の岩を支えに片手で水を掬って飲む。
川の底がよく見える綺麗な真水だ。小魚も泳いでいる。
夢中で飲む少年の横で、支えにされた岩が密かに動き出す。それはどんどん大きくなり、あっという間に少年より数十倍もの大きさになった。
影がかかった事に気付き、少年は顔を上げる。すると目の前の大岩がぱかりと大きな口をあけた。
「……っ!」
悲鳴も出せず、恐怖から眼を瞑る。
「おやおや、こんな所に人がいるとは珍しい」
ばしゃんと波立つ音。少年が眼を開くと、日差しに照らされて、その人はまるで光そのもののように見えた。髪も肌も服までもが眩しいほどに白く、そっと自分を抱き上げ、大岩にしゃがんでいる――まるで女神のように。
「フフフ、迷子ですか」
瞳を閉じ不敵に笑うその姿、だが穏やかな物腰は決して悪い者のように思えない。
「誰?」
「私は、シュケルといいます」
そして、泣かずともきちんと帰して差し上げますよ。と言って、少年の目元を拭った。
「貴方は?」
「え?」
「名ですよ」
「ワタシは……マハル」
◇◇◇
そのあと彼はマハルを連れて近くの村へ行き親を探した。だが、そこはマハルの知らない土地だった。
途中で足を止め、茶屋でシュケルに団子を買って貰う。食べたことがないと喜ぶとシュケルはそれは良かったと微笑んだ。
「どこから来ました?」
「……風の大陸」
「そうですか。ここはアケドラルと言う世界にある北の国です。覚えはありますか?」
マハルは首を横に振った。
「なるほど……もしや、気付いた時には森にいましたか?」
「うん」
シュケルは何か思い当たったらしく、フフフと笑って立ち上がる。
「戻りましょう、森へ」
代金を長椅子へ置くと、シュケルはマハルを抱き上げた。
するとパッと景色が変わる。瞬いた瞬間に、まさにパッと、緑豊かな森の中へと景色が変わった。
「では、ここからは少し歩きますよ」
マハルは地面へと降ろされれ、シュケルは前を歩く、時たま落ちた木々の枝をミシミシと踏みしめ、ぬかるんだ土を踏みしめて。
途中でマハルが躓き転ぶと、シュケルはマハルの服についた汚れをはらい、手を繋いで歩き出した。
まったく知らない土地で、まったく知らない相手。だがシュケルが現れてからマハルは不思議と怖くなかった。
本当はもっとこの人物を警戒した方がいいのだろうが、どうしてもそうは思えない。
暫くするとシュケルは木陰で足を止めた。
切り株に座って、その切り株をぽんぽんと軽く叩き、マハルにも座るよう促す。
「休憩しましょう」
隣に座ったマハルはシュケルを見上げた。木漏れ日がシュケルの頬を照らし、流れていた一筋の汗が光る。
助けられた時も思ったが、白すぎるその顔は何処か青白く、体調が悪そうに見える。
「大丈夫か?」とマハルは尋ねた。
するとシュケルはフフっと笑って、マハルの頭をぽんぽん撫でる。
「思ったより日差しが強いですね」
「うん、ここは暑い。ワタシの故郷は風が吹いてもっと涼しいよ」
「フフフ、そうですか。それは過ごしやすそうですね」
マハルは瞳をキラキラさせて「うん!」と大きく頷く。
そして両手を広げ身振り手振りで風の大陸についてシュケルに一生懸命語った。
大きな川があってそこで魚が獲れること。紅い実が成る木があって、それを皆で大切に扱っていることなどいっぱい。
シュケルはその話に耳を傾けながら、やはり穏やかに瞳を閉じ、不敵に微笑んでいた。だが不思議とその笑みが嫌ではないのだ。
「そうですか。それはとても素敵な所でしょうね。私も行ってみたいものです」
「だったら来ればいい!」
「ええ、いつか」
「そしたらワタシが嫁に貰ってやる! シュケルはワタシの恩人だから絶対感謝されるぞ! 誰も文句も言うまい、ワタシが言わせない」
シュケルが男と知ってか知らずかマハルは自信満々に胸を張ってそう言った。
「それはそれは、有り難い申し出ですが遠慮しておきます」
「む、思慮深いんだな」
「フフフ、どうでしょうね」
「でも遠慮はいらない。むしろ気に入った!」
シュケルは礼を言うと「そろそろ行きましょう。おそらくもう直ぐです」と立ち上がり、手を差し出した。
マハルは元気に頷いて、二人は更に森の奥へと入って行く。
やがて開けた場所へ出た。
木々も草もなく砂のような土だけが広がる痩せた土地、上空から見ればおそらく、森の中に突然ぽっかり穴が空いたように見えるだろう。
その森との境目に大きな砦があった。遠目でも分かる岩を切り抜いたような砦。
「やはりまた、ありましたね。貴方はあそこから来たのでしょう」
「また?」
シュケルはそれには応えず、砦の中に壁掛けの大きな鏡があること、そこがおそらく風の大陸へ繋がっていることを話し始めた。
「何かを切っ掛けに異界の門が開いたのでしょう」
その門が鏡であるということだ。
「わかった。行ってみよう」
当然シュケルも着いてくるものだと思い、マハルは繋いだその手を引っ張ったが、シュケルはそこから動こうとしない。
「シュケル?」
「私はここまでです。貴方が鏡の中へと消えると同時にあの砦も消える筈ですので」
「シュケルも一緒に来ればいい、シュケルはワタシの嫁になるんだ」
するとシュケルはやはり不敵に笑って言った。
「――――たら、」
それを聞いてマハルは大きく頷くと、一人、砦へ向かって駆け出した。
◇◇◇
「――そうだ、あの時ソナタは確かに言った」
岩で出来た強固な砦、そのバルコニーに二人の姿があった。
カボチャ達からシュケルを連れ去ったマハルは真っ先に城へと向かった。
長く急な岩作りの階段の上空を飛行し、無骨な謁見の間へと向かう。
果たして玉座の後ろにある壁にそれはあった。
岩で出来たこの砦に、似つかわしくないほど煌びやかな大きな大きな鏡。
その鏡がゆらりと夜空の色に染まった時、両腕に抱えていたシュケルの重みが消えた。
気配のある方へ振り返ると数歩離れた場所で、不敵に微笑むシュケルが佇んでいた。
「フフフ、私はそちらへは行けませんよ」
「またそれか、遠慮はいらぬぞ」
マハルが片手を伸ばし、シュケルへ歩み寄ると、シュケルはそのぶん後ろへと下がっていく。
普通なら嫌がっていると直ぐ分かる行動の筈だがマハルはシュケルのことを奥ゆかしく恥ずかしがりやだと、とんだ勘違いをしているので全く考えもしない。
「マハル、貴方のお気持ちは嬉しいのですが私には魔王様の元での暮らしがあります」
「その魔王とやらが邪魔をしているのか。先程のやからといいワタシとシュケルの仲を引き裂こうとするとは許せん!」
「私が望んでのことですよ。……困りましたね。やはり貴方に言葉で伝えるのは難しいようです」
油断ならない相手と距離をとるように、シュケルは徐々に徐々に後退し、気付けば二人はバルコニーまで出ていた。
二人の間を吹き荒ぶ風が砂を巻き上げて通り抜ける。
シュケルの後ろには岩で出来た腰壁があった。この壁を越えた先には、遥か遠く、砂の海のように霞んだ地面が静かに待っている。死という名の終着点のように。
「シュケル、それ以上下がるのは危険だ」
「フフフ、そうでしょうか」
「……いったい何がしたいんだ? まさかあの〝約束〟を忘れてしまったのか?」
「約束ですか……」
「――そうだあの時ソナタは確かに言った。ワタシはそれを今日まで胸に……」
「はて、どんな約束でしょう?」
マハルの水浅葱色の瞳が僅に揺れる。
「ワタシが大人になってもソナタを覚えていれば、迎えに来て良いと言ったじゃないか」
少し悲しげな声色でマハルは言う。だがハッと思い直す。
「そうか、怒っているんだな。迎えに来るのに十三年もかけてしまった。いやもしかしたら此方ではもっと時がたっているのか? ソナタがあの頃と全く変わらぬ美しさで気付けなかった。すまないシュケル!」
もしこの場にカボチャがいたら背筋が凍り、顔面蒼白で顔を歪め「シュケルが美しい!?」とマハルの視力を疑い、いっそ心配しただろう。
そしてカインは「シュケルは綺麗だよ。優しいし」と平然と言ってのけるのでカボチャはこの世の地獄を見たような反応をするのだ。
だがこの場にカボチャはいない。つっこみ役が不在。なんならカインもいない。
「私も貴方があの幼子だったのかと思うと感慨深いです」
魔王がいたら十は数えた子を魔族基準で幼子と言うのはどうなのかと言っていただろうが、もちろん魔王もこの場にいない。
シュケルはマハルへ身体を向けたまま、背後の腰壁に飛び乗る。
「ですが、そろそろこの追い駆けっこも終わりにしましょう」
そのまま後ろへと倒れていった。