第52話
海氷の隙間を進む。
頭数が多いので、なかなか前には進めない。
順番待ちをする間、突然海中に沈む者もいる。
しばらく経つと、沈んだ者は何食わぬ顔でまた元の所に戻るが、その実その口にはアークティックコッド、つまり鱈が咥えられている。
魚を咥えておきながら『何食わぬ顔』で元の所に戻ってくることは、真面目に並んで順番待ちをしている者にとっては理屈抜きに面白くない。狡い、という気になる。色んな意味で。
なのでそういう時は、こちらも『何食わぬ顔』で、前に並ぶそいつの頭に、自分の牙を乗せてやる。
前のやつは一瞬振り向こうとするが、二メートルもの牙を乗せられているのだから、身動きは取りにくい。さらに咥えた魚を落としたり、下手をすると取られたりする怖れもある。
なのでそいつはじっとしている他なく、魚をむしゃむしゃ食べつつ頭上に後ろのやつの牙を乗せた状態で、しずしずと流氷の隙間を進んでいくのだ。
「イーッ、カーク、さーん」
十メートル程上から、群れに向かって呼びかける者があった。
全員視線を──牙を持つ者は牙も一緒に──上へ向ける。
黒い頭と白い翼を持つ鳥がそこにいた。キョクアジサシだ。
「こんちーには」キョクアジサシは上空から挨拶を寄越した。
「こんちーにはって何?」イッカクの一頭が訊き返す。
「あれ、こんーち、にーは、だっけ」キョクアジサシは言い直す。
「もしかしてこんにちはって言ってるの?」イッカクのべつの一頭が訊ねる。
「どこの方言だよ」
「南極弁かよ」
「でもこいつ北極出身じゃないっけ」
「じゃあ北極弁かよ」
「どっちにも行ったり来たりしてるじゃん」
「じゃあどこの方言だよ」イッカクたちは議論を開始した。
「ほうーげーん、じゃあ、なーいで、すー」キョクアジサシは上空で羽ばたきつつ否定した。「ひょーう、じゅーんごーう、でーすー」
「嘘つけえ」
「嘘だあい」イッカクたちは否定を否定する。
「ていうか、何どしたの」イッカクの一頭が、議論に終止符を打つ。「何か情報持って来たんだろ」
「あー、はーい」キョクアジサシは歌うように返事した。「ふたーばー、でーぃすー」
「双葉?」イッカクたちはさすがに緊張の面持ちを揃えた。「どこに?」
「みなみぃのー、ほーう、からー、きてまいーす」キョクアジサシは答えた。
「ここから見たら地球ほぼ全部南なんだけど」イッカクは意見を述べた。「今どの辺にいるのよ」
「あー、かわー、のー、あったりー」キョクアジサシは答えた。
「川」
「って、いっぱいあるじゃん」イッカクたちは目を見交わし合った。牙を持つ者はそれを触れさせ合いもした。
「あー」キョクアジサシは少し考えて訂正した。「みーずー、うみーのー、あったりー」
「湖」
「も、いっぱいあるじゃん」イッカクたちは視線を、牙を持つ者は牙も、再度キョクアジサシに向けた。
「んー」キョクアジサシは再び少し考え、訂正した。「おーん、たいー」
イッカクたちは言葉を失い黙り込んだ。
「こうー、よーう」キョクアジサシの言葉は続いた。
イッカクたちは互いに目を見交わし、牙を持つ者はかしゃかしゃと牙を触れさせ合った。
「じゅ、りいーん」キョクアジサシはさらに続けそこで言葉を切った。
「なんだ、グレートプレーンズの辺か」
「北側の大陸の真ん中辺りだね」
「じゃあもうちょっとここまで来るのは時間がかかるのかな」
「でも油断はできないぞ」イッカクたちの議論は華々しく再開した。
「じゃあ、さーないらー」キョクアジサシは挨拶して飛び去った。
「だから何弁だよそれ」
「さいなら、だろ」
「てかさようなら、だよ」
「南極弁か」
「北極弁か」
「またなー」
「ありがとねー」イッカクたちは一斉に、突っ込みと挨拶とお礼を返した。
◇◆◇
しばらく飛び続け、水面近くに魚を見つけた時は降下して捕らえ、岩の上で食事をする。
満腹になり再び飛び上がろうとした時、水中に白い輪が数個流れていることに気づいた。
とその瞬間、その白い輪っかに向かって突進し、ゆらゆら流れる輪っかを次々にぱくぱくと『食べて』行く者が現れた。
シロイルカだ。
そうだこの動物さんにも伝えておかなければ。
キョクアジサシは思い、声をかけることにした。「こんー、ちーはー、にー」
また輪っかを吐き出していたシロイルカはそれをやめ、水中からキョクアジサシの方を見上げてきた。
「シロイ、ルカー、さんー」続けて呼びかける。
シロイルカは口を開き「きゅぷる?」と返事をした。
「──」キョクアジサシは一瞬戸惑ったが、情報を伝えることが先決だと思い直し、言葉を続けた。「あのう、でぃすねー、ふったばがー、みなんみーのー、ほーうからー、ちか、づういてぃー、まぅすー」
「──」シロイルカも少しの間無言でキョクアジサシを見ていたが、その後「ぴゅぷぴぃるるる?」と返事をした。
「ええっとーう」キョクアジサシは少し考えた。「いま、はー、たいりっくーのぅ、まんなーか、あったりーで、きたぁにー、むかっ、てぃーまあす」
「こぴゅぽぽ、きゅるきゅいー」シロイルカは答えて言った。吐き出した輪っかは水中をぷかぷか漂い遠ざかって行く。それをほんの一瞬ちらりと見遣る。
「あー、でーは」キョクアジサシはひとまず伝えるべきことを伝えたと自ら頷き、ばさりと飛び上がった。「おーきを、つっけってーい、さないーらー」
「ぴゅるるるる、きゅおん、くりゅりゅー」シロイルカも声を高めて返事したかと思うと、猛烈なスピードで泳ぎ出し、逃げて行く輪っかに勢いよく食らいついた。
多分、大丈夫だ。
キョクアジサシは、さらに北に向かい飛び続けた。
シロイルカさんは頭がいいもんな。
イッカクさんたちとも情報共有するだろうし。
なんとなく、シロイルカが吐き出した空気の輪っかを、イッカクがその長い牙で引っ掻けて捕らえたりして遊ぶ光景がふと脳裡に浮かんだ。
まあ、大丈夫だろう。
キョクアジサシはまた魚を見つけるまで、ひたすら北に向かって飛んだ。