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06th.13『トイレ男のもう半日』






 バックヤードに戻って木の板を外し、エプロンを脱ぐ。トイレを鞄から出して、街に繰り出す。

 昼休憩の時間は短い。早い事食べる物を見付け急いで食べなければ間に合わない。弁当を詰めてくればそんなにセカセカしなくてもいいのだが、面倒なのだから仕方が無い。

 トイレ男は少し考えて、肉を食う事にした。トイレ男とて育ち盛りは過ぎたが男である。肉は好物だ。大好物だ。

 という訳で肉を扱っている屋台を目指す。

「やぁいらっ……しゃい」

 トイレ男が近付くと元気よく挨拶をしようとした屋台の主だったが、トイレ男が抱えている物を見ると次第に覇気を無くし、萎む様な挨拶になってしまった。

 トイレ男は構わずメニュー表を凝視する。少し悩んでから、鶏肉の串を二本、豚肉を挟んだパンを一つ身振り手振りで注文した。

「……あいよ」

 直ぐに出てくるので待ち時間が少ないのが屋台の好い所だ。代金ピッタリの小銭を置き終わるのと同時に串とパンを渡される。トイレ男は器用に片手で受け取り、串をその場で食べ木の串をゴミ箱に捨ててから店に戻る。パンは歩きながら食べる。美味い。タレが生地によく合っている。美味い。

 食べる速度を調整したので、店に着く少し前に食べ終わった。

 客対応中の女店主を尻目にバックヤードに入り、手を洗ってから再び仕事着になる。売り場に出ると同時に店主の客対応が終わったので、入れ替わる。その時に少し指示を受ける。

「ちょっと暫く出てくるよ。その間に掃除お願いね」

「……………………(頷く)」

 トイレ男は客が()けた頃を見計らい、バックに戻ってモップを持ってくる。箒は使わない。埃が舞い上がり、商品に付いてしまうからである。『買ってその場で食える果物』をスローガンに掲げるこの店では、果物は汚してしまえばその場で拭くか、最悪買い取らねばならない。それは嫌なので、モップで床を拭く。大きなゴミは長いトングで広い、ゴミ箱に入れる。それを客への対応をしながらやる。正直キツいが、仕事なので仕方が無い。

 掃除が終わる頃には女店主も戻ってきて、キリツァリンなる珍しい果物が新たに店頭に並んだ。紫色の毒々しい果物である。味は知らない。彼女曰く苦いらしい。苦いが、とても瑞々しいらしい。店主が「はいはい寄ってきな寄ってきなー! 今日はとっても珍しいキリツァリンって奴を仕入れたよー!! 実はとっても瑞々しくてジューシー!! 一つでいいから買ってきなー!!!!」と叫べば、忽ち幾人かの客が御来店。キリツァリンを一つ二つ買っていった。「…………」、それめっちゃ苦いらしいですけど、大丈夫ですか? そう問いたくなったが、残念ながら喋れないので問えないのであった。

 それから客を捌き続ける事暫し。額に浮いた汗を拭えば、もう退勤の時間だった。

「そろそろ帰んなー、暗くなるよー」

 アンタに何か有ったら両親に合わせる顔が無いわー、と豪快に笑われたので、トイレ男は帰る事にする。バックで木の板を外し、エプロンを脱ぎ、トイレを鞄から出して店主に会釈をして店を出る。グゥーッと伸びをし、今日も働いたなーと実感してから帰路に付く。

 しかし帰る前に、夕食と明日の朝御飯の材料を買わねばならない。少し考えて、今夜の献立はピリツィーリにする事にした。野菜を辛めのソースで炒めた料理である。パンに挟むと美味しい。今日は昼が肉だったので、夜は野菜にする事にしたのである。

 八百屋と香辛料の店に寄って帰る事になる。少し遠回りだが、それでもピリツィーリの為、トイレ男は歩く。



 ︵︵︵︵︵︵

 歩いていると八百屋に着いた。

「やぁいらっ、しゃい」

 八百屋の主人は昼の屋台の主とは違い、覇気を弱めはしながらも失わずに挨拶を為し遂げた。偉い。

 それでも顔が引き攣るのは止められなかった様で、それを笑顔で誤魔化しながら今日はどの野菜が安いだのどれが新鮮だの説明してくる。

「……………………」

 トイレ男はそれをしっかりと聴き、キムグンカとサピーラ、ツメノモルを購入した。

 キムグンカはその侭食べるのは勿論、煮ても焼いても蒸しても燻してもやり過ぎない限りシャキシャキ食感を失わない野菜である。やり過ぎたら(ふや)けたり焦げたりし、その時に出てくるエキスはとても不味く形容し難い味なので要注意だ。そのエキスが出ない限りはそんなに味がしないので、味付けの濃い料理に食感要員として重宝される。

 サピーラは草である。草を引っこ抜いた侭の状態で、即ち葉と茎と根という植物の全身が揃った状態で売られている。根は土で汚れている上にそんなに美味しくないので、根は切り落として葉と茎の部分を食べる。生の侭だと苦味が目立つが、焼くと甘味が、煮ると辛味が出てくる。今日の晩餐であるピリツィーリは辛い焼き料理なので、辛味の中和にいいと思ったのである。

 最後のツメノモルは葉野菜だ。葉っぱが幾重にも積み重なりボールみたいになっている。この葉を一枚ずつ剥いて使う。生食は基本的に行われず、煮て食べるのがスタンダードである。これは明日の朝のスープ用だ。今晩は食べない。一晩程度なら暑い日にその辺に放置しておいても腐らないのが最大の取り柄の、保存の効く野菜である。

 尚、本日の主人のお勧めはキムグンカでもサピーラでもツメノモルでもなくヒリフーラだった。激辛野菜である。どう調理しても辛い野菜である。辛味を取り除けない野菜である。辛味と運命共同体の野菜である。辛味成分で構成された野菜である。今夜のピリツィーリは既に辛いので、更に辛味を足す必要は無いと考え買わなかった。

 売れ残っているのか、何度も何度もヒリフーラを勧めてくる主人を何とか追い払い、トイレ男は次は香辛料の店へ向かう。

「……………………」

「……………………」

 香辛料の店は暗い。客が来店したというのに、出迎えの言葉も無い。主人の趣味なのか、ミステリアスな内装である。というか、外観は怪しい店その物である。友人に紹介されなければ一生縁の無かった店だ。

 トイレ男はソーユヌムというピリッとするアッサリした辛味の香辛料を一瓶買い、そそくさと退店した。香辛料を取り扱っているだけあって、店内には様々な香辛料の匂いが立ち込めているのだが、それが臭いのである。一つ一つはそうでもないが、混ざり合って臭くなっているのである。あんな所に毎日平気そうに立っている主人は鼻が可怪しいと思う。というか嗅覚がないのでは?

 店を出るともう夕方で、空が赤み始めていた。早く帰らないとマズい。夕方は短いのだ。もう直ぐに暗くなる。暗い夜道を彷徨くのは御免なので、小走りで帰る。この時間はトイレ男と同じ様に走っている人が多い。全力疾走している人も居る。

 何とか日が沈む前に帰宅できた。野菜の入った袋を卓に置き、香辛料の瓶を隣に置く。灯りが消えていたので油を足して点けておく。そしてバケツを持って井戸へ向かう。朝に汲んだ分は朝に使い切ってしまったので、また新しく汲んでこなければならないのだ。

 夜は飲料としては勿論、食器洗い、体洗いと朝よりも水を使う。たっぷりバケツ三杯分の水を大きなバケツ、それこそ持ち運ぶのにも苦労しそうなバケツに入れる。この時間になると御近所さんは井戸に居ないのでスムーズに汲めた。

 それが終わると、夕食の調理を開始する。先ずは買ってきた野菜を軽く洗い、切る。切り終えたら火を熾し、水とソーユヌム、そしてストックしてある幾つかの更新料を加えながら炒めた。程無くして完成する。それを食卓に運び、熱い熱い辛い辛いと思いながら完食する。食べ終えた後はソファに全体重を預けて休憩タイムだ。一日分の疲れがどっと来る。

「……………………」

 いつの間にか寝落ちしそうになっていたので慌てて起き上がり、食器を朝の分も纏めて洗う。それを干すと、乾くまでの間に体を洗いに行く。服を脱いで全裸になり、水で濡らした布で全身を隅無く拭くのだ。汗やら皮脂やらで結構布が汚れるので頻繁に洗い直す。

 一緒にトイレも拭き、それが終わると乾いた布で水分を拭き取る。それが終わると寝間着を着る。そして服と、さっき使った布を洗う。洗濯の時間だ。また水を汲みに行くのは面倒なので押し洗いで汚れを落としてゆく。最後に濯ぎをすれば、洗濯は完了だ。干して、また明日使う。万が一乾いてなくても予備の分が有るから大丈夫だ。

 最後に歯を磨く。ザラザラした粗い布で歯をゴシゴシと擦る。この布は使い捨てだ。近くの店で一束幾らで安売りされている。最後に(うがい)をして、布を捨てたら完了である。

 これでタスクは終了だ。残りは自由時間である。あれやこれや家事をしている間に眠気は吹っ飛んでいたので、就寝前に読書をする事にする。読んでる途中の本を本棚から出し、昨日は第三章まで読んだなと思い出しつつ第四章を開く。トイレを膝の上に載せ、撫でながら読み進んでゆく。ついつい没頭し、第一〇章まで読んでしまった。この本は上下巻全一三章から成っているので、いつの間にか上巻から下巻に移っていた事になる。全く意識していなかった。無意識の内に本棚に行き、上巻を戻して下巻を取っていた様だ。続きが気になるが、明日も寝坊してはいけないので、もう寝る事にする。

 灯りを消し、今から寝室に移る。トイレと共に布団に入り、それを抱き締めながら、目を閉じる。今日も色々な事が有った。毎日有る様な事だが、それでも色々な事は色々な事だ。このトイレと出会った時の様な、非日常的で劇的な事なんて起こらなくていいのだ。起こらないのが平穏で、安全なのだなら。トイレ男は死にたい訳ではない。なので、もう二度とあんな事件には関わりたくない。

 そんな事を考えながら、トイレ男は意識を失った。

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