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8.おつるのかんざし

「──はぁッ、はぁッ──! ──勝てない……! あんなの勝てるわけないよぉッ──!!」

 そこかしこで火の手が上がり燃え盛る堺の都にて、桃姫は悲痛な声で叫びながら一心不乱に大通りを走り続けた。

「──逃げなきゃ……! 殺されるっ──! 雉猿狗、ごめん──ごめんなさいッッ──!!」

 桃姫は宿屋に置き去りにしてきた雉猿狗に対して泣き叫ぶように謝罪すると、あまりの情けなさに目に浮かんできた涙を着物の袖で拭った。
 その時──助けを求める女性の悲鳴が大通りを走る桃姫の背中に向かって投げかけられた。

「──誰かぁッ……! ──誰か、助けてぇっ──!」
「……ッ──!?」

 悲鳴を耳にした桃姫の足がピタリと立ち止まると、通り過ぎた道を戻って、声が発せられた路地裏を恐る恐る覗き込んだ。

「──誰かぁ……! ──お侍様っ……! ──会合衆の方っ……! ──誰か……! ああ、お助けくだされぇっ──!」

 路地裏の奥で尻もちをついて後ずさりする女性に対して、二本の後ろ脚で立ち上がったカブト型の鬼虫がジリジリと迫る光景を目撃した桃姫はハッ──と息を呑んだ。

「っ……だめだ……だめだ、だめだ……今は逃げないと……」

 桃姫は自身の震える体に言い聞かせるようにそう口にしながら、"頭"の中で鬼虫に襲われている女性を"見捨てる"ことを考えた。
 しかし、桃姫のその思考とは裏腹に、"心"はその行動を拒否し、右手に握りしめた仏刀〈桃月〉の柄にメキメキと強い力が込められていく──そして桃姫は、濃桃色の瞳をカッ──と見開いた。

「──ッ……ああァアアッッ──!!」

 咆哮するように大口を開けて叫んだ桃姫は、路地裏に向けて全力で駆け出す。そして、両手で構えた〈桃月〉を後方に引き下げ、その切っ先を翅を大きく広げた鬼虫の肉々しい赤い背中に差し向けた。

「──桃ッ──心呀ァアアッッ──!!」

 裂帛の声と共に突き出された桃姫渾身の一撃──小さな体に溜め込んだ爆発力が一斉に解き放たれ、怒涛の突風を巻き起こしながら鬼虫の背後に鋭い渦となって迫った。

「──グッ──!? ──ギュ……ピッ──!」

 ドンッ──という鈍い破裂音と共に鬼虫の背中に〈桃月〉の刃が深々と突き刺さる。
 己の体にいったい何が起きたのか理解できないまま断末魔の鳴き声を発した鬼虫は、二本の節足で体を支える力を失ってその場にしゃがみ込むように崩折れると、赤い複眼から光を失って絶命した。

「──ハァッ……! ハァッ……! ハァッ……!」

 桃姫は〈桃月〉を鬼虫の背中からズッ──と引き抜くと、左手で胸を抑え、暴れ狂う心臓の鼓動を落ち着かせるために激しい呼吸を繰り返した。

「……あ、ああ……」

 動かなくなった鬼虫を見ながら戦慄の面持ちで弱々しい声を漏らした女性は、鬼虫の脇から姿を現した少女と目を合わせた。

「──……逃げてください……早くッ……」
「……あ、嗚呼アア……あああっ──」

 苦悶の表情を浮かべた桃姫が女性に向かって告げると、女性はよろよろと立ち上がり悲鳴を発しながら一目散に桃姫の前から走り去っていった。
 桃姫はその女性の背中を黙って見送った──自分も走り出したいのは山々だったが、心臓の鼓動がそれを許さなかった。

「……くっ──お願い……静まって……」

 "桃心呀(とうしんが)"──桃姫が雉猿狗との半年間におよぶ剣術稽古の成果として生み出したこの技は、夢の中で桃太郎から教えられた"心臓の制御"によって体内に溜め込んだ爆発力を、"力の解放"によって一気に解き放つ必殺の一撃である。
 しかし、突風すら巻き起こすその強大な爆発力は、まだ成長の過程にある桃姫の小さな体に大きな負荷をかけ、体力を根こそぎ奪う諸刃の剣であった。
 鬼から逃げている今、絶対に使ってはいけない大技であることは桃姫も重々承知していた──しかし、桃姫の"頭"ではそう理解していても、桃姫の"心"が、窮地に追いやられた女性を救うために撃ち放ってしまったのであった。

「──あらァ……お礼くらい、言えばいいのにねェ──?」

 そんな桃姫の"心"からの行動をあざ笑うかのように背後から妖艶な声が投げかけられた。

「──でも人助けってね……そんなものなのよ、桃姫ちゃん──」
「──……っ……──」

 桃姫は額から流した汗を地面にぽたりと落とすと、ゆっくりと声の主に対して振り返った。
 燃える大通りに立つ鬼蝶──にんまりとした残忍な笑みを浮かべながら、大通りから路地裏へとしなやかに足を運ぶ。

「……う、うう……ううッ──!」

 赤い"鬼"の文字が光る鬼蝶の黄色い目を見た桃姫は、あまりの恐怖に声を漏らしながら後ずさりすると、背後に鎮座する鬼虫の死骸にぶつかって盛大に尻もちをついた。

「ん──? あーはっはっはっ!! ──なァっさけないッ! なーに、桃姫ちゃん。そんなに私のことが怖いわけェ──?」
「……くるな……くるなぁっ──!」

 左目から炎を噴き上げながら高らかに笑う鬼蝶に対して、桃姫は〈桃月〉の柄を両手で握りしめ、切っ先を向けながら叫んだ。

「ふふふ──虫ちゃんを一撃で殺したから、いったい何をしたのかと思ったけど……ただの偶然──だったみたいねェ」

 鬼蝶は言いながらカラン、コロン──と赤い鼻緒の黒い下駄を鳴らして、一歩一歩桃姫に近づいてきた。

「──ねェ、桃姫ちゃん? 私が鬼になってからのこの10年で、いったいどれだけの人を殺してきたと思う……?」

 鬼蝶は恐怖に震える桃姫に対して笑顔で問いかけた。

「──そうねェ、今日だけで300人は殺したから……合わせて3000人は下らないんじゃないかしら──」

 鬼蝶は桃姫の前で立ち止まると、燃える左目で怯える顔を見下ろしながら赤い唇をにんまりと開いた。

「──もちろん……あなたの母上も、その中にいるのよ──♪」
「──嗚呼アアッッ──!!」

 鬼蝶の言葉を受けて、桃姫は固く目を閉じて絶叫した。体の芯から沸き起こる激しい震えが治まらず、ただ〈桃月〉の切っ先を鬼蝶に向けて耐える他なかった。

「──私は、あなたをとても殺したいんだけどね……でもどうやら巌鬼が、あなたを殺して欲しくないみたいなのよ……ああ、巌鬼っていうのは──桃太郎を殺した鬼の名前よ」
「ッ……あ、ああっ──!」

 鬼蝶は困ったように頬に指を当てながら言うと、桃姫は目を開けて大粒の涙をあふれ流した。

「──それに行者様も、桃太郎に対してなにやら思い入れがあるみたいで……娘のあなたを殺すのを躊躇しているのよ──はァ……まったく、鬼ヶ島の男たちには困ったものよねェ──」

 鬼蝶は、光が消えて暗くなった濃桃色の瞳から地面にポタポタ──と涙を落とす桃姫の顔を見下ろしながら、黄色い目を嗜虐的に細めた。

「──だから、私は考えたの。あなたを怒らせて私に斬りつけてきたところを反撃すれば、これは"正当防衛"になるから、巌鬼も行者様も納得せざるを得ない、ってね……なァのにこの有り様よ──泣き虫桃姫ちゃん──」

 涙を流す桃姫に対して、吐き捨てるように投げかけられた鬼蝶の言葉。桃姫が震える両手で握る〈桃月〉の切っ先は、すでに力なく地面に向かって垂れ下がっていた。

「──はァあ。まぁ、あの二人には後で謝ればいいわよね……あなたたちのお気に入りの"おもちゃ"、壊しちゃってごめんなさいって──あーはっはっはっ──!!」

 鬼蝶は開き直ったようにそう言って笑うと、自身の顔の前に右手を突き出し、ズズズッ──と黒く鋭い鬼の爪を指先から長く伸ばした。

「──桃姫ちゃん可愛いから、特別に死に方を選ばせてあげてもいいわよ……炎に包まれて焼き焦がされて死にたい? それとも全身を切り刻まれて死にたい? ──ねェ、どちらで死にたい……?」
「……う、ウウウ……うう……」

 炎を噴き上げる左目と黒く鋭い鬼の爪を重ねながら、嗜虐的な笑みを浮かべて問いかける鬼蝶に対して、桃姫は嗚咽を漏らして返すことしか出来なかった。

「──ねェッ! 聞いてるのよッ! どっちで死にたいのかってッッ──!! さっさと答えなさいなッッ──!!」

 怯える桃姫に対してしびれを切らした鬼蝶が怒号を発しながらしゃがみ込むと、桃姫の眼前に顔を近づけてギン──と睨みつけた。その時、震える桃姫の視線が鬼蝶の左耳を捉えた──。

「……っ──!?」

 桃姫は瞠目しながら絶句した。鬼蝶の左耳の上に挿された赤いかんざし──それは正しく、おつるのかんざしであった。
 桃姫より二ヶ月早く10歳の誕生日を迎えた"大親友"のおつるに対して、桃姫が愛情と友情をふんだんに込めて贈った赤いかんざし──。

「……なんで、鬼が、つけてる──」
「──あン……?」

 低い声で唸るように告げた桃姫。その暗い濃桃色の瞳にグググ──と怒りの赤みが増していく様を見ながら鬼蝶が眉根を寄せた。

「──なんで鬼が、おつるちゃんのかんざしを、つけてる……ッ──!」
「……ああ……"これ"のこと──? ふふふ──」

 桃姫の言葉の意味を理解した鬼蝶が笑みを浮かべながら桃姫から顔を離して立ち上がると、左耳の上、深緑色の髪に挿した赤いかんざしに鬼の爪の先端でカツン──と触れた。

「──おつるちゃんねェ……鬼になるの、イヤだったみたい──」
「……ッ──」

 鬼蝶の言葉を耳にした桃姫は、開いた口から怒りにまみれた熱い息を吐いた。

「──せっかく、私の手下にしてあげようと思ったのに……可哀相なおつるちゃん──死んじゃった」
「……ッッ──!?」

 "大親友"の死をあっけらかんと告げる鬼蝶の言葉を聞いた桃姫は両目を大きく見開いた。もはや涙はこぼれず、震えだした体は恐怖からくるものではなかった。

「──あァあ。もしも生きてれば、鬼女になった姿で桃姫ちゃんと感動のごたーいめーん……なァんて、お涙頂戴モノの展開になったかもしれなかったのにねェ……馬鹿なおつるちゃん──」
「──わけないだろ──」

 わざとらしく首を横に振って残念がる鬼蝶の振る舞いを見上げた桃姫は、激しい怒気の込められた震える声を発した。

「──なるわけないだろ……ッッ──!!」
「……何──?」
「──おつるちゃんがッッ──!! 鬼になんかなるわけないだろッッ──!!」

 桃姫は怒号を上げて勢いよく立ち上がると同時に、右手に握りしめた〈桃月〉をブォンッ──と鬼蝶の喉元目掛けて斬り上げた。

「……ウァっ──」

 完全に油断していた鬼蝶は、予期せぬ斬り上げにあやうく顔面を縦に斬り裂かれそうになるが、咄嗟にうめきながら鬼を殺す銀桃色の刃をかわす。
 しかし、その切っ先は、鬼蝶の左耳を掠めると深緑色の髪を斬り、おつるの赤いかんざしを宙空に打ち上げた。

「──虫も殺せないようなおつるちゃんがッ──! ──鬼になんかなるわけないだろってッ、そう言ってるんだよッ──!!」

 濃桃色の瞳をカッ──と見開き、激怒に震える桃姫が咆哮するように叫ぶと、カラカラ──と音を立てながらおつるのかんざしが地面に落ちる。
 桃姫はおつるのかんざしを左手で拾い上げると、亡き"大親友"への想いを込めてグッ──と力強く握りしめてから、着物の帯の中に仕舞った。

「……なに、この娘……ちょっと……危ないじゃないのよ……」
「──……謝れよッ──! ──今すぐおつるちゃんに謝れよッッ──!!」

 小さな身体から白銀色に光り輝く"殺気"を放ちだした桃姫。鬼蝶はその尋常ならざる光景に気圧されながら、一歩二歩と後ずさりした。

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