失った時間から、付け加えた時間へ
部屋から出ると、美里があっけらかんと話し始める。
「ごめん。なんかお金がかかりそうな話になっちゃったね」
「別に金なんていいだろう。治療すれば治るんだし、二人の子どものためなら惜しくないって」
「ありがとう。そっ、そうだよね。先生が全部教えてくれたってことは、ちゃんと治るからよね」
「当たり前だろう」
「まぁ、もしも治らなかったら、治療を先延ばしにした自分が悪いわけだし、それなら仕方ないって思えるし」
そう言って、けらけらと愉快な声を出して笑っている。
そんな楽しそうにおどけている美里を見て、どうして自分を責めないのだろうと思う武尊は、弱々しく口を開く。
「美里は悪くないだろう。悪いのは──」
俺だ、と続けようとしたのだが、それを口にすると、悪い未来が現実になる気がして、それ以上言えなかった。
だが、その言葉を遮るように美里が会話を続けた。
「先生は早く治療した方がいいって言ってくれたのに、私のわがままで三週間先延ばしをしたんだし、絶対に治さなきゃね」
「そうだな。早く元気になってくれないと、俺が寂しくて困るし……」
「なあにぃ~。私が家にいなくなってから、やっとありがたみがわかったんでしょう。これからはもっと敬ってよね」
冗談めかす美里は、退院したら私を大事にしてよねと、彼を覗き込みながら言った。
そんな様子を見た武尊は、やれやれとため息をつく。
「ったく、美里ってどうしてそんなに能天気なわけ? 普通さぁ、がんだって知ったばかりで、阿保なことなんて言えないって」
「だってどうせ治るんだよ。それなら別に気にしなくてもいいでしょう」
「まあ確かにそうだけど」
「会社で昇進するらしい武尊が太っ腹に医療費も気にしないみたいだし、落ち込む必要なんてないじゃん」
くすくすと笑う美里が、普段と変わらず上機嫌に話すため、彼女が重病人ということも、つい忘れてしまいそうだ。
だからだろう。武尊は何の気なしに、気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、あの出版社のイラストの仕事はどうなってるの?」
「絵なんて、タブレットがあればどこでも描けるし、もう完成に近づいてるからね。他の細かな仕事の依頼もいろいろあるけど、入院中もできるから問題ないよ」
「そうか。どこでもできる仕事っていいな」
だよね〜と、妻が嬉しそうに微笑んだ。
「そーだ。実家に連絡しなくていいのか?」
「う~ん。お母さんに知らせたら、変に心配かけちゃうし……。それに治療が始まったら髪も抜けるから、落ち着いてから伝えようと思う」
「でも、それなら見舞いに来られないだろう……」
「いいの、いいの。次の年末年始に『がんの治療した』って教えてあげればいいよ」
「でも……それならしばらく会えないだろう」
「よくなってからがんだって知ったら、きっと驚くよ〜。それに病院に来られても、疲れるだけだもん」
この正月に会いに行けばよかったと思った武尊は、「そうか」と返すのが精一杯だった。
◇◇◇
本格的な治療が始まる前に受精卵の凍結処置をするため、美里は一度退院することになった。
その間に武尊も病院へ行ったが、あれほど嫌だった精液採取も、存外あっけなく終わり、どうして嫌がっていたのだろうと、過去の自分を責めてやりたい気分になっていた。
治療のために美里が入院するまでの三週間。
一分、一秒でも妻と一緒にいたい。早く家に帰りたいと思う武尊は、毎日急いで仕事をこなし、わき目も振らず帰宅していた。
武尊が有給休暇を取った平日に、近くの海へ出かけた二人は、気になっていたシーサイドカフェに行くことにした。それは浜辺に建つテラス席のあるおしゃれなお店のことで、最近できたばかりのハワイアンカフェとしてSNSで話題になっていた。
とはいえ季節はまだ冬。海辺のテラスは寒いため店内で食べることにした。
「何がいいかな~」
メニュー表を見て迷う美里は、にこにこして嬉しそうだ。
「ここに来たなら、アサイボウルを頼まないと、なんかもったいない気がするけど」
「そうだよね~」
「俺はどうしようかな~。別に甘いものじゃなくてもいいんだけど」
そう言って悩む彼は、コーヒーを注文しようかと見ているくらいだ。
だが注文する直前になり、美里はクリームソーダがいいと言い出したため、武尊だけがアサイボウルをオーダーした。
武尊の前にフルーツいっぱいのアサイボウルが届き、美里が目を輝かせた。
「うわぁ~、美味しそう。やっぱりそっちにすればよかったかな」
「ははっ、なんかそんなことを言う気がしてた。一つ食べきるには大きいし、俺と一緒に食べよう」
なんとなくだが、美里は食べきる自信がなくてやめたのかもしれない。そう思ったため、提案した。
「うん。そのパインが食べたいな」
そう言って幸せそうな笑顔を見せる美里が、すかさずスプーンを伸ばす。
嬉しそうな彼女に釣られるように微笑んだ武尊は、素直な妻とこうして過ごす時間が、日ごろのストレスも疲れも吹き飛んでいたんだよなと、改めて実感していた。
もぐもぐと美味しそうに頬張る彼女が、ふと店内を見回す──。