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見てみると、彼女は一人掛けソファを少し後ろに押す勢いで立ち上がっていた。
「リリーローズ様、落ち着いてくださいませ」
「で、ででででもっ」
「はい、正式に求婚させていただきたいと思っていますので、しばらく待っていてくださいね」
アルツィオがティーカッブを持ち上げつつ、にこにこして告げた。
とうとう首まで朱に染め、リリーローズが沈黙する。
それを見てエステルは、とうとうた溜息を静かにこぼした。
「……アルツィオ様」
「はい、なんでしょう?」
「あなた様はもう少し遠慮を覚えた方がよろしいかと」
「おや、くどきにくどいて可愛がりたい女性がいるのに、一分一秒でもそうできるようにするのは当然でしょう?」
どうやら今は、ちゃんと控えてはいるらしい。
(……どこが?)
なんて思ってしまうのだが、確かに手に触れたりもしていない。
けれどこのままだと、その『手に触れる』までも許してしまうことになる。
「リリーローズ様、まずは座りましょうか」
彼にさせるとさらにリリーローズの方がどきどきで大変なことになる気がして、エステルは立ち上がり、彼女を席へと促す。
その間、ティーカップを持ったアルツィオから視線を感じた。
あきらかに、自分がしたかったなぁ――という言葉が顔に書かれている気がする。
エステルは気づかない素振りを貫いた。
座ったリリーローズが顔も上げられない様子で「すみません」なんて細く声をこぼす。
その声に、会場の奥から響いてくる演奏音が続いた。
(――あ、ダンス)
ダンスが始まったのだと気づき、顔を上げた。
これまでなら関係者だったのに、参加枠でもない心境でこの音を聞くのは、とても変な感じがした。
「さて。あなたも立っていますし、ちょうどいいですね」
そんなアルツィオの声が聞こえた次の瞬間、エステルは手を軽く握られていた。
「えっ、何?」
いつの間に立ち上がったのか、すぐそこからアルツィオがエステルの手首を包み込んでいる。
「よき友人関係を祝って、一曲躍っていただけませんか?」
「え、でも……」
舞踏会の、ファーストダンス。
それは婚約者だと決められている。
エステルが真っ先に思い浮かんだのは、アンドレアのことだった。
ここにはいない相手。彼は今頃ユーニと踊りだしているかもしれないのに、ばかね、なんて自分を嗤う。
ようやく次に浮かんだ理由が、リリーローズのことだった。
「あなたにはリリーローズがいるのですから、私と踊るのはまずいですわよ。勘違いされます」
リリーローズではなく、彼の気持ちを知らない大勢の貴族達に、だ。
するとアルツィオは、平然とにこやかに言う。
「勘違いは大いに結構です」
「え?」
「どうせ今だけですし、――その方が信憑性もあります」
何やら、彼が独り言みたいにひっそりとそう告げた。
一瞬、ひんやりとした声に聞こえた。いや、確実にそうだ。彼は笑顔のままだが、その目はとても計算高い悪い男のものだった。
「……はぁ、いったい今度は何を企んでおいでなのです?」
リリーローズのことは、うまくいったのに。
「あなたも、結構鈍いお方ですよね」
「は?」
「いえ、あなたと交流させていただいているのですから、陛下も私達のダンスを待っているのでは?」
それは考えてもいなかったことだった。
「……そう、なのかしら?」
思えばアルツィオは、ヴィング王国の第三王子だ。
彼を渡欧して国交を深めているのだとしたら、友人認定している公爵令嬢のエステルが踊るのは礼儀……なのではないだろうか。
とすると、アンドレアに後ろめたさを覚えずに済む。
(いいえ、どうせ私達の関係は――もうすぐで終わる)
今度こそ、数ヵ月、一年、と待たないでいい。
ユーニがいて、エステルは魔力をほとんど失って……。
これだけのいい条件が揃っているのだから、アンドレアはエステルとの婚約を解消するだろう。
新しい婚約者にユーニを迎え、結婚するために。
エステルは心を決め、国と国の関係のためにと言い聞かせて振り返る。
「リリーローズ様、彼と踊ってきてもよろしいでしょうか?」
「えっ、あ、はいっ、もちろんです!」
なぜか、リリーローズがどきどきしきっている様子で言った。
「ぜひ!」
しかも、追って『ぜひ』と言われてしまう。
先程までアルツィオに求婚と言われたばかりなのに、どうしてこの反応なのだろう。
「……アルツィオ、何かリリーローズに話しました?」
そもそもこのダンスは、国王とか礼儀とか作法とか関係がないものだったりするのか。
するとアルツィオは、完璧なエスコートでエステルの向きをくるりと変えた。ダンスフロアへと進む。
「あっははは、リリーローズはほんと可愛い女性ですね」
「ちょっと、私の話聞いてます?」
「聞いてますよ。さて、躍りましょうか、姫」
するすると慣れたように人込みを抜け、気づいた時には躍っている貴族達の中に入っていた。
出会った時の台詞を思い起こされた。
「お口が、うまいですこと」
「そういう相手は信用できない?」
彼が含み笑いをしてエステルの片手を取り、腰に腕を回す。
「私の知っている男性とは、違い過ぎるだけです」
悲しいが、確かにエステルは彼のような男とは恋愛ができそうにない。
願わくば――愛せる人と結婚できますように。
エステルとアルツィオがダンスの姿勢を取ったことに気づいて、貴族達がざわめく。
それは非難ではなかった。どこか期待するような声を、エステルは耳にする。
「まぁ、なんてお似合いなのかしら」
「やはり第三王子は、エステル公爵令嬢を……?」
「さあ分からないぞ、陛下はそのことに関して口を閉ざしておられる」
「でも別荘にも通って、今回はエステル嬢が同伴出席された。これはもう――」
もう、確実だと言いたかったのだろうか。
エステルは、アルツィオのダンスで会場内を移動していてすべては聞き取れなかった。
シンブルよりのドレスのスカートが、ふわりふわりと舞っていく。
「お上手ですね」
「そうならなければなりませんでしたから」
つい、皮肉を返してしまう。
(殿下とのダンスも――こんなふうに、緊張なくしたかった)
そんな思いが込み上げて泣きそうになる。
それをアルツィオは、やはり察して優しい顔で微笑んでいた。
「ほら。あなたもまだ、殿下を忘れられないでしょう」
それはとても正しい言葉だった。
でも『も』というのは、彼にしては珍しい言い間違いだとエステルは思った。
(想っているのは、私だけなのよ)
一度、強く目を閉じたら涙がこぼれていった。ああ、しまったと思ったら、アルツィオがターンの際に手を引き寄せて、抱きしめるみたいに密着し周りから隠してくれる。
勘違いしたのか、貴族達が注目するような声を上げていた。
エステルはアルツィオに心の中で感謝した。
泣かないと決めていたのに、どうしても涙がこぼれた。
「いいですよ。そのまま、私の服に拭ってください」
構わないとアルツィオは言う。
それだときちんと踊れない。でも、涙を見られてしまってはいけない。
エステルは人々に顔を見せられなくて、アルツィオの胸に額を押しつけて隠した。
(好きだったの――今も、好き)
アンドレアは、幼い頃からエステルが嫌いだ。
みんなエステルが恵まれているなんて言っていたけれど、彼女は自分の怪我さえも防げない。
唯一、努力しても得られない魔法の才能だけはなかった。
それがあったのなら、希望はあったのかしらと、そんなことを考える自分にもエステルは胸が痛くてたまらなくなった。
※※※
「――そう、そのままで」
アルツィオが優雅に微笑む。
ダンスの技術の見せ場である演奏部分が流れる中、抱き合い、左右にステップを踏んでいるだけの二人の姿はとても目立った。
とてもロマンチックだ、と。
しかし、踊りもせずたった一人だけ睨んでいる男がいた。
アルツィオは、アンドレアの姿を認めてますます美しい笑みを深めるのだった。
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