【030:主の右腕】
蓮乃木舞夜宛の手紙が届いた。
『河原にいる。デートをしよう』
紙一枚に内容はこれだけ。切手も付けられて郵送されており、文字数の短さから後半は空白。
透かしてみたりどこが縦読みかともチャレンジしたが、暗号的な要素はないと判断するべきだろう。
舞夜は先日画廊からお土産にもらった八ツ橋を戻すと、切子に電話をかける。
「悪いメイド長。今日体調不良っす」
私服に着替え直すと屋敷を出た。
久慈の家に顔を出せばすぐに連絡はつく。そうなれば画廊や切子に知られたくない話。
もし困窮して金をせがまれれば、色々煽りながらも恩着せがましく渡すだろう。
その緊急時のSOSが出せるように、坊っちゃんの部屋を片付けしてポケットに入れたと示唆をしたのだ。泥棒相手に金を返せとは言いやすいはずだ。
まさか本当にデート?
切子と舞夜の名前を間違えたとか……ない。
仮にメイド長を指名の場合はもっと愛を綴った文章になるんじゃないか?
この手紙は蓮乃木舞夜宛。
そうなると、絵の事になるが――。
「……ッ」
本来、諸手(もろて)を挙げて喜ぶべき話だが、我々は燦歌彩月第六作の現状を知っている。
あれからわずか数日で120点に至ると思うほど楽観的ではない。
そうなると描けないか、或いは元のニート生活に戻りたいか。
舞夜の家で働きもしないニートを一生飼うのも構わない。その程度の覚悟はある。堕落ならいい。
だけど一度描くと決めた色助が、絵を描かないと言った時どういう行動を示すのか、長年の付き合いがある舞夜でも予想できなかった。
道中、ガラスに映る自分の顔を確認する。
見るからに不安そうな憂いが顔に出ている。
「チッ」
もっとバカっぽく笑え。
無理やり指で口角を上に釣り上げる。いつもの人を舐めたヘラヘラ笑いができるまで何度も何度も引き上げる。
(――良し)
絵を描かないと言えば、蓮乃木舞夜はどう言うべきだろうか?
それでいて、その時の坊っちゃんはどういう表情やトーンなんだろう。
絶対に回答を間違えたらいけない難問。
それに封筒で手紙が届いたのだ。郵送する期間は一日か二日か、市内とは言え数日は経っている事になる。
日を跨いで待っていた今、手紙を出した当時と心境は変わっているか、どこからどう変わるのか。
組み立てる。
とりあえず、メイド長の愚痴を吐いて適当に相槌をさせて、それが五分ぐらいか。次に最近見つけた美味しいラーメン屋の話にしよう。
こっちが変わりないと様子を伝えながら、聞いている様子の温度感を察知して組み立てる。
沈んでいる様ならラーメン屋に行きたいと行って無理やり手をひっぱる。あくまで舞夜のわがままに色助を突き合わせた形にする。
元気そうならそのまま馬鹿話しを引っ張って終えるが……それは楽観的だろう。
「よし」
もういいだろう。
角を曲がると、長い河のすぐ前に橋がある。
そこに住むホームレスは、ビールを片手に河を眺めていた。
やつれている。物質的に栄養が足りていないのだろうが、その表情は穏やかで余裕を持っているいつもの色助。
(遠目からは案外いつも通りか……)
思考を切り替える。
「おいっすー! ホームレスちゃん元気ー?」
いつも通りの蓮乃木舞夜がここに現れた。
色助は嬉しそうに目を瞑ると、噛みしめるように微笑んだ。
(あ――これ、やべえヤツだ)
知らない。
この反応をする久慈色助を舞夜は知らない。いつもと違う。見たことがない反応だ。
自責の念を持っているとしたらどうする?
とりあえず煽る。相手をバカにして、自分に向いているマイナスの感情を全てこちらに向ける。
「昼から酒飲めるとかホームレスすっげー身分じゃん。オレなんか仕事しながら酒も飲めるし――」
「舞夜さん」
短く名前を呼ばれる。強制的に主導権は色助へと移る。
「実はずっとキミと話したかったんだ」
優しい風が二人を包んだ。
「キミはいじわるだから嫌いだ」
「でもボクはいつもキミに気を遣ってもらって助けてもらっている」
「……」
舞夜は頭が回らない。予想外の色助の言葉をただ受け止めた。
これは"色助が言う言葉ではない"のだ。
「見えないところで色々と動いてくれたんだろう。ボクは未熟だったからよくわからなかった。ありがとう舞夜さん」
「……」
(死ぬのか、こいつ――)
普段、適当な人間が最終回に急に改心するような、そんな台詞回しに身の毛がよだつ。
「ボクは今まで多くの人に甘えてきた。キミも含めて」
「舞夜さん。キミにもう少し甘えてもいいだろうか?」
「はい」
敬語で頷く。鬼が出るか蛇が出るかさておき、これは、そういう真面目な話しだ。
「燦歌彩月第六作」
「燦歌を乗せて」
「――ッ!?」
名乗った。
雅号・燦歌彩月がタイトルを付ける。絵に命を宿すその言葉を唱える意味を舞夜が知らないわけがない。
「この絵はある女性に贈ろうとしたんだけど、お捻りを拒絶されてしまってね。ボクの師である幸人君に贈りたい」
「はい」
久保田幸人。色助と釣りを楽しむ小学生。舞夜はもちろん調べてある。
「まあ彼にはお礼がしたいだけなんだ。他のお礼でもいいし、それなら所有者は誰でもいい。キミが貰ってもいいし画廊兄さんでも構わない」
とんでもない事を口にしたと思う反面、色助は自分の絵の保有者には興味がない。
彼曰く、子殺しだと。
サインを入れた絵であっても、手元にあれば破いてしまいたい衝動に駆られる時があるらしい。
それを抑止するために燦歌彩月の絵を渇望する物に分散して譲渡したいと言うのだ。
「絵の所有者は誰でもいい」
「ただし――第六作は一人でも多くの人に見てもらいたい」
「かしこまりました」
主の命令に命に代えても完遂する。
そして――。
(わりいなあ、凡人に次男坊パイセン――!)
第六作の譲渡許可までもらって、値千金の情報得るゲームメーカーに選ばれたってわけだ。
テーブルをひっくり返すのも有りだ。いや、むしろそうしないわけがない。
もちろん可能な限り全力で絵を取りに行くが――それはあくまでおまけである事は絶対に忘れない。
本題はズレない。
主の要望であるひとりでも多くに見てもらうという事に命を捧げる。
「坊っちゃんは今の生活はどうでしょうか? 改善したいならいくつかの提案が可能です」
ニヤリと笑って、
「怖い」
怖い。それは舞夜の予想外の言葉だった。
主はふむ、と首を傾げると空を眺めた。舞夜もつられてなんの変哲もない空へ向く。
「絵描きはね。いや……音楽家や文豪もそうかもしれない。ボク達芸術家は、人生に数回愉悦を感じる時があるんだよ」
愉悦。それはなんなのか。
まさにその最中だと言わんばかりに、ビールを煽る色助を急かさず、ただ次の言葉を待った。
「面白い漫画があってね。最終巻の前の感覚というのかな。ああ、あと一冊で終わってしまう。このまま永遠に続けばいいのに、っていう」
その例えはよくわかった。本当に心の底から楽しめるコンテンツこそ、終わりを迎えた虚無感は面白さに比例して増幅する。
「今のボクはシエルや筆丸兄さんをも超越した無敵のヒーロー燦歌彩月なんだ」
「けれど、これを描き終えるとボクは無気力ニートの久慈色助になってしまう」
もったいない、描くのがもったいない。
けれど描かないのはあり得ない。
幸せな葛藤する様子はまさに愉悦というわけだ。
「では絵は今から描くんですね?」
「うん」
「……」
舞夜は考える。
第六作が完成した後、無気力ニートの久慈色助になったらどうなるか?
この天才は興味がない。
自分の命にすら興味がない。
飢えて死ぬか凍えて死ぬか。貧困の状況に陥れど、自分は最高の絵を残したと胸を張って死ぬだろう。
久慈色助は壊れている。
人として絶対に守るべき自己の命。
それ以上を優先するとなれば相場は決まっていて愛する我が子か大切な恋人だろう。
久慈色助は壊れている。
この男は自分の命よりも作品を優先する。
「海外移住は興味ありますか?」
「特にないかな」
舞夜は組み立てる。
以前、成金マン。凡人の久慈光一はこう言った。
『――殺人か』
『なんでだよッ!?』
ツッコミ待ちのボケだと思ったが、久慈の家系は命を軽く見ている。
Aパターンの燦歌彩月が描く。Bパターンの燦歌彩月が描かない。
第三の道。Cパターンである久慈色助が描く。
これが最適解だと思っていたが、久慈の血を引く久慈画廊ならば、Dパターンを用意する。
Dパターン。久慈色助を殺す。
それでいて海外逃亡もできないとなると――。
「――うっしゃ」
全てのピースを出揃った。となれば、後は最適解を解くだけだ。
1.第六作が多くの人に見られる。
2.久慈色助が幸せに暮らす。
3.オレの利益。
以上。
2をクリアするためには敵である凡人と次男坊パイセンを縛る構造を作る必要があると。
「舞夜さん」
「おっ。いいねえ」
キリリンビールを手渡しされるとそれを受け取る。
「それと、よければキミへのお捻りも受け取ってほしい」
「乾いた雑巾絞るなとか言ってたのに、気前いいっすねー! 焼き肉ですか? 焼き肉ですよね?」
「ううん。リンゴだよ」
「はっ。坊っちゃん。流石に年頃の美少女口説くのにリンゴって」
「赤いリンゴ」
心臓を鷲掴みにされた感覚だった。
「ありがとう。キミ心遣いには感謝してもしきれない」
「……」
そう言ってキャンバスに向かうと、画用紙の奥にある絵。
色が塗られた赤いリンゴの絵を渡した。
「自分を隠さずに見栄を張らない。相手を想う。ありのままの役割に徹する」
「良い絵だ。未熟なボクは甘えてしまった」
「……」
不意に、涙がボロボロと溢れた。
渡された絵は中央にリンゴが描かれているだけ。リンゴにも特徴はない市販のものだろう。
それなのに、そのリンゴは全然違う。
そこに在るのが幸せだと言わんばかりの、ハッピーエンドを望む球体。
「なんだよ……ひでえ当てつけ。全然格上じゃん」
「同等だよ。だからこその等価交換になる」
――報われた。
この絵を抱きしめたいとも思ったが、まだかろうじに残った理性がそれを押し留めた。
(そうだよな――優しいんだよ、坊っちゃんは)
こういう人だからこそ、付いてきた。
こういう人だからこそ、惹きつけるのだ。
文章にも音楽にも。そして絵画にもその人の人格全てが入っている。
優しい、相手を想うこの作者はいつだって希望を望む。
頭の中に過った次男坊パイセンと凡人を貶める妄想を打ち消す。
要望は、あくまでハッピーエンドだ。
(そうだな。第六作が完成したってなれば――)
「いいねえ。じゃあパーーーーーっと披露宴(ひろうえん)でもやろうぜ!」
「ふむ」
どういう事かと色助は興味を示した。
「みんな仲良しだからな。手を繋いでハッピーエンドと行こうぜ」