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【027:漸近線の到達】

「むーーーん」
指で輪っかを作るが、星の中に月は見えない。
満月と満月の周期は29.5日。そんな雑学こそ知っているものの、今が何月何日かという当たり前の日付感覚を持ち合わせていない。
とにかく、月が見えないと言うことはあれから14日ほどが経過したらしい。
絵を描き始めると時間の経過がわからなくなる。初めこそ不慣れなホームレス生活で戸惑っていたものの、今となればダラダラしたり絵を描いたりと時間の感覚がないニートの頃と同じ感覚に戻ってきた。
あれから、というのは前回むーんと鳴いた日から二週間近くが経ったというわけだ。
となればもう三月の中旬で、もうしばらく待てば桜のシーズンだろう。
ギターにも触れた。イヤリングもしてみた。己の未熟さにも向き合った。
そんな今なら――と想いを馳せキャンパスに向き合うものの、結果は変わらず画用紙は鳴き声を残してこの世界から消えて行った。
「未熟」
次の用紙をセットすると、また描き始める。
至らない。
それがわかっていながら筆を進めるこの心境はどう表現するべきだろうか。
漸近線(ぜんきんせん)
近づきはしたものの、決して触れる事のできない
漸近線とは曲線の中心部から限りなく0には近づくが、その曲線と0は決して交わる事がない。
「ふむ」
しかし、0.9999999....と続くこの数字は1という事を知っているだろうか?
これを初めて知った時とても感動した。
では小数点第何位からと言えばそうではなく明確に定義はない。ただ0.9999....と9が無限に続く場合に限りそれは1へと変化する。
答えのない芸術に反して答えを保有する数学を時折羨ましく感じるのは未熟だからだ。
未熟。
それはきっと、答えに到達した時にその汚名を返上できるのだろう。
(やっぱり師匠なんてガラじゃないね)
そこに到達できない未熟さに嫌気が指すが――ああ、死んでも諦めないから安心してくれ。
夢の中で何度も応えた誓いにウソはない。
ビリリ、生まれ損ねた作品の悲鳴が夜に響く。
葛藤。苦悩。もどかしさ。
それなのにこの問答に幸福を感じる自分も居るのもまた自覚した。
以前。全てが満たされながら描くモノが見つからず彷徨い続けた空虚の時間は幸せだったのか。
今。物質的な要素では何もかもを失いながら、目標の絵に届かせるための毎日は幸せか。
「ふむ」
芸術とは何か。そんな大きすぎる主語を語るにはまだまだ未熟ではあるが、向かっているだけ今は幸せなのかもしれない。
向き合っているだけだ。いつもの話で、結果的に到達出来なかったとしても――
「……ん?」
筆が止まった。
街灯の下。静寂の夜の中、色助はおもむろに立ち上がった。
「……」
なんで今、ボクは向き合えるんだ?
それは久慈家を勘当され、傷の入った筆だけを持ち出し一人の空間に放り出された。
筆の中に偶然入っていた三万円を握りしめ延命をした後、琴線に触れる被写体に出会い創作欲求が生まれた。
「……」
しみんに足を運んだのは偶然。ゆかりさんと出会ったのも偶然。
では偶然入っていた三万円?
――なんで?
太筆を光に翳す。
小さなキズが目立つ。筆先こそキレイに整っているものの、何度か落としたのだろうか小さなキズが目立つ。
もちろん画には支障はなく、別に構わないのだが――。
ボクは筆巻きの中にお金を入れる事はしていない。
現金はポケットに入れっぱなしやスマホケースに入れる事はあっても、竹製の筆巻き。仕事道具と現金は用途が相反する。
誰かが入れたのだ。
動機は?
普通に考えれば、ボクの筆を傷つけた犯人が贖罪として考えるのが妥当で、
傷。
「……キズ」
キズと言えば――
――赤いリンゴ。
「はぁ~~~~~」
キミか。
本当にもう、ボクはどこまでも未熟で、
色んな人に支えられ作品に向き合う事が出来ているのだと、どうやら本当に自覚が足りない。
未熟。というより、ボクは本当に頭が悪いらしい。
思い返せばそうだ。小学生に手球に取られるほどだ。おかしいなあ。知識量や考察は長けていると自負があったのに、なんという頭の悪さだ。
筆を眺める。
このキズは偶然出来たものではない。引っかき傷のような、作為的な要素を持つ。
だからこそ「オレはお金入れたから許してね」と算段が成り立つという筋書きだ。
自分が悪者になって、そこに向かうストレスを受けて初めて善意が成立するからバレても問題はないと。
それでいて使えなくほどの致命傷は負わず、こちらが怒りを向けないギリギリを上手く調整する気遣い。
よく考えているなあ。頭がいい。
流石はボクの付き人と言ったところか。見事と言っておこう。
ここまで主に気を遣わせた彼女にもお捻りをあげなければならない。
「……」
お捻り。
そうだ。それを受け取らなかった彼女に惹かれたのだ。
「…………」
ビリリ、とまた画用紙が悲鳴をあげた。
(そうだ、ボクは何もわかっていない――)
そんなので描けるわけがない。

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