ネネルとルース
「どうじゃ、奴は大人しくなったか?」
雲の差し掛かる月明かりの下、シィレ城のベランダでネネル姫は虚空にぽつりと話しかけた。
「いいんですかあ姫さま? 主賓ともあろうお方が食事会から抜け出しちゃって」
ネネルの半分にも満たない透き通った水色の身体が、後から彼女の元へと駆け寄る。
「かまわんさ。ダジュレイの起こした飢饉のおかげで我がリオネングも各国から支援を受けてもらえたはいいが、こんな辺境の国にまでお礼参りせねばいけないとなると、やはり私が率先しなければと思った次第なのだし」
それにどうじゃ、王のあの笑顔。と、窓越しにネネルはシィレの王に微笑みを向けた。
「王も人の子よ。若い妾が来たことでほら、」
「下心丸見えですよね……いずれ姫さまも政略結婚とかに使われるかもしれないかってのに」
「妾にもいつかそんな日が来るのか……なあ? エセリア」
ほう、と白い息が宙に舞う。
「しかしまさか、ラッシュたちがここに立ち寄っていただなんて、ほんと奇跡としか言いようがなかったですね、ネネル姫」
もう一人白い小さな影が。ルースだ。
「ラッシュはズパさんが眠らせてくれました。助かりましたよ」
「そうそう、ラッシュ結構強情だからねー。強引に活性状態を低くさせないと、あのまま起こしてたら逆に危険だもん」
ラッシュを回復させる手段……それはネネルの生命力を彼に分け与えることだった。
だがそれは双刃の剣でもある。いくら不死に近いマシャンヴァルの姫君とはいえ、下手をすれば逆に彼女自体が昏睡状態に陥ってしまうかも知れなかったのだ。
さらに……
「それは魂の繋がりをも意味する。つまりはラッシュとの結婚に近いようなことをせねばならぬしな」
「まさかラッシュがそれ聞いて血相変えるだなんて思いもよらなかったよ……」疲れた顔で、ルースはぺたりと冷たい床に座り込んだ。
「まあ、怒るのも無理はない。リオネングには四百年戦争の発端となったディナレとの結婚騒動があったしな。父君も兄上も、もはや二の舞は起こしたくあるまいに」
「とはいえ、このままボクの力で眠らせておくにも限界がある……早々にここを発ってリオネングで治療を行うか、ここでケリをつけるか」
「だけど、それ以外に奴を回復させる方法はあるのかい? ズパさん」
うん……と、水色の澄んだ口が押し黙った。
「いや……あるといえばある。ないといえばない」
「ネネル姫、その言葉の意図は?」
姫も冷たい床にしゃがみ込み、ルースと目線を合わせた。
キッと。彼に言い聞かせるかのような真剣な眼差しで。
「ラッシュはこの世界に生を受けた奇跡の産物じゃ。その意味するものは分かるか?」
「マシャンヴァルの血に、聖女ディナレの聖なる刻印を授かった……ってこと?」
そうじゃ。とネネルは軽く笑顔で答える。
「つまりは、だ。妾のマシャンヴァルの力と、ディナレの力とを合わせればなんとかなるかもしれんのじゃ」
「聖ディナレ教会のシスター・ロレンタに力を借りるってこと?」
「うむ、彼女もそれなりの力をおそらく兼ね備えているはず。だから……」
だが、ルースの答えは辛辣そのものだった。
「ネネル姫。シスターは君と違って人間なんだよ。生命力は無尽蔵じゃない。危険すぎるよ!」
え、ダメなのか? とネネルの目がまん丸になった。
「君と同じ尺度で考えないで。おそらく彼女は快諾するかもしれない……けどそれによって彼女を失うということは、ディナレ教のひとつの希望を失うことと同じなんだ、わかる?」
ネネルの口から、すまなかったと声にならない言葉が小さく紡がれた。
「言葉が過ぎてすまなかった、けどネネル姫。僕らの命は限りあるものだということをいますぐにでも分かってもらいたいんだ……人のために死ねる命なんてない。ただそれだけさ」
「ふう……これで振り出しに戻っちゃったかァ」
「ズパさんそれは違う。人の命の生き死にに他者を入れるという最悪のパターンだけはなんとしてでも避けたいからね、検討し直しだよ」
だが、最良の答えが見つかるわけでもなく、無言のまま時間だけが過ぎていった。
ちらりとシィレの城主に目配せし、先に口を開いたのはネネル。
「ルース……お主、彼女とはなぜ会わぬのじゃ?」
へ? と、隣にいた小さな肩が震える。妙に裏返った声と共に。
「普通なら婚約者をここに連れてくるのが筋であろう。久々の再会なのに」
「いや、その、それは……」しどろもどろに口を開いた彼の答えもまた、答えになっていなかった。
「彼女……マティエのやつ、リオネングを発つ前に、ケンカを……」
「へえ、それもしかして夫婦喧嘩ってやつかな?」
「いや違う、もうちょっと深刻な……」
そしてルースは手短にことの次第を話した。
ずっと床に臥せっているリオネング王の治療を、現在は助手であるタージアが受け持っていることを。
そして彼女に好意を持つものが一人。それが……
「シェルニ……いや、兄上だというのか!?」
ルースは無言でうなずき、続けた。
「知っての通りタージアはかなりの人見知りだ。しかも極度の人間嫌い……そんな彼女に王子が接近してきたって。しかもよりによって……」
「い、いや……それ以上言わずともわかる。まあ兄上にもそろそろ人を知って欲しい年頃でもあるし……じゃなくて内政のことばかりに気を割いてしまって、他国のアプローチにも全く耳を貸さなかったからな」
「ふぅん、王子って結構クソマジメな方なんですね、姫様」
「そう、ズパさんの言うとおり。色恋沙汰に縁もゆかりも無かった真面目一筋な王子だからね……タージアからそれを聞かされたときには僕も腰を抜かしたよ。けど、だからこそ二人の仲をどうにか取り持とうと考えたんだ」
「ふっふふー、ルースったら頼られているのですね」
と、ネネルがエセリア譲りの声色で小さな毛玉を皮肉った。
「悩んださ僕も。このことは秘密にしてくれって彼女は念を押したけど、しかし面と向かって王子に話すことすらできないジレンマも抱えてたから、だから僕は、彼女の対人恐怖症をどうにかして治そうって決めたんだ」
「しかし……それが結果的にマティエの勘違いを生んだ、というワケかぁ」
「そう、マティエも王子以上に真面目だからね。僕とタージアがまた付き合い始めたんだと思ったみたいで」
人気のない裏庭でタージアと向かい合いカウンセリングをしていたルース。ふとマティエの目に止まったそれが、さらなる彼女の怒りを誘発したのだと語った。
「まだ誤解は解けていない……ってことかぁ。完全に泥沼だね」
「ああ。おまけにマティエの方はエッザールと仲がいいみたいで……って、ネネル姫?」
彼女の薄い唇が、そうか。と夜空に小さく言葉をつぶやいた。
その言葉に呼応するかのように、吐息の代わりに、ふわり、と結晶が舞い落ちた。雪だ。
「マティエ……あいつの存在をすっかり忘れておった」
「よしてよ姫! シスターの代わりに彼女の命を侵そうとか思っているんじゃ!?」
みるみる間に、彼女の口元から失われていた、いつもの悪戯な笑みがよみがえる。
「一か八か、試してみる価値はある……よし!」
「おい姫さま、なんかいいアイデア浮かんだんですかい?」
おもむろに立ち上がった姫は、そのまま両手にルースとズパを抱え激しく頬ずりをし始めた。
「ちょっ、ネネルいったいどうしたの!?」
「ザレじゃ! しかもここからそう遠くない。あそこならばラッシュの力を取り戻すこともおそらく可能じゃ!」
瞬く間にたくさんの雪が降り積もる中、年相応の女の子のごとく、ネネルはきゃっきゃと飛び跳ねていた。
部屋の中の人たちには、彼女が雪に歓喜しているようにしか見えていなかっただろう。
「ザレ……ってまさか、慰霊碑のあるところ……?」