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薄墨

 薄墨で人の名前を書くアルバイトをしている。

「お前は字が綺麗だから」と、昔の友人に誘われた。そんなことをして何になると思いもしたが、手の空いた時だけでもという話だったので、こうして暇なときにせっせとノートに書きつけている。

 このノートは奴から手渡されたものだ。一緒に薄墨用の筆ペンと、名前のリストも渡された。そこに書かれている名前を、ひたすら筆ペンで書き写していく。ずいぶん縁起でもないことをするなと思う。リストにある名前は別段変わったところもない、どこにでもいるようなありふれた名前ばかりだ。それを、書いてゆく。リストに黒々と印刷されている名前をこうして薄めた墨で写していくと、それだけでその名前のもっている力が弱まるような気がするから不思議なものだ。

 ノートはもう三分の一ほど埋まっている。すき間無く書くと威圧感があるのか、指定されている通りに、適度に間隔を空けて書いている。



「このノートが埋まったら、それを俺に渡してくれ。金を払う」

「いくらだ?」

「五万だ」

 受け渡しも兼ねて久々に会った会社近くの喫茶店で、奴はこう言った。こんなノートに五万も払うとは、随分酔狂なやつだと思ったものだ。ノートは何の変哲もない、そこらに売っていそうな代物だ。書くだけで金がもらえ、しかもそれがそこそこの金額になるので、一も二もなく私は引き受けた。

「しっかり、全員の名を書くんだぞ」

 そう念を押して、友人は帰っていった。



 名前を書くときは、丁寧に清書をしていく。久しく習字はやっていなかったが、こうして筆で字を書くという経験はやはりいいものだ。心が落ち着く感じがする。薄墨なのが気になるが、日常生活の息抜きとして、このアルバイトを続けていた。

「ああ、もうそろそろ一冊書き終わるな」

 そんなことを、残り数ページになったノートを見ながら思う。いろいろな名前を書いた。パラパラと、今まで自分の書いた名前を眺めてみる。面白い名前が紛れ込んでいないかを探す。自分が丁寧に書いた字で埋まったノートを眺める喜びも手伝って、不謹慎かもしれないが、それは楽しい時間だった。

 さて、そろそろ続きを書こうかという気になり、黙々と描き進めていく。リストの最後のページにさしかかり、きりがいいからこのまま書き終わってしまおうとペースを上げる。

 ふと、そのリストの最後の名前が目に入った。



 それは自分の名前だった。



 その瞬間、私の思考は止まった。

 いやな気がした。あいつは分かっててこのリストを私に書けと言ってきたんだろうか。なんて奴だ。

 しかしここまで書いてやめてしまうのもしゃくな気がしたので、最後まできっちりとノートを書き上げた。自分の名前で最後を飾り、ノートは綺麗に埋められた。

 なにか、最後の名前を書いたとき、やはり自分の中からいくばくかの力が抜けていくような気がした。



 後日、私はノートを手渡された喫茶店で、再び友人と落ち合った。書いたノートと引き換えに、報酬の受け取りをするためだ。

「うん、いいね」

 友人は顔色一つ変えずに、パラパラとノートをめくって中身を確認した。

 私は友人からなにがしかの説明があるものと当て込んでいた。しかし、友人はそのままノートを閉じると、満足そうな表情で横に置いていた鞄から封筒を出した。

「約束の五万円だ。書いてくれてありがとう、助かったよ」

 そう言ってにこやかにノートを鞄の中にしまっている友人を前にして、私はこのノートの意味をなぜか聞けずじまいだった。



 帰り道、私は貰った封筒をしげしげと眺めた。なんとも言えない気分になる。私は何を対価にこの報酬を得たんだろうか。

 ふと、橋にさしかかり、目の前に川が現れた。

 暫く水面を眺めたのち、私は川に封筒を投げ入れた。糊付けされているその封筒は、水中の中で浮き沈みをしながら流れに任せて遠くへ去っていく。

 私はそこでようやく、この二、三ヶ月に自分がしてきたことの区切りがついた思いがした。

 もう封筒は見えなくなった。私もなにか、ここを去らなければならないような気分になり、川を背にして帰路に着く。

 川のせせらぎが何かを洗い流しているように、いつまでも聞こえていた。

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