バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

マティエとエッザール

その日はちょっと違っていた。
「手合わせ、してもいいか」早朝の街外れの林の中、ひとり黙々と剣を振っていたエッザールのところへ現れたのは……同じく愛用の槍を携えたマティエ。
「え、かかか構わないですが……マ、マティエさんお怪我の方は?」
チャチャを助けるために坑道の崩落に巻き込まれた彼女。大事こそなかったものの全身打撲で全治半月以上はかかるとは聞いていたのに……と、それはともかく、彼が目の置き場に困ったのは、その女性にあるまじき筋骨隆々な身体だった。
動きやすい下着姿……しかも大きな胸なのでシャツの丈が伴わず、その筋肉の割れた腹部が丸見え。しかしそれ以上に目を惹いたのは……

「すごい、傷跡ですね……」
思わず全身くまなく見てしまった。その男性を凌駕するほどの鍛え抜かれた身体に刻まれた、歴戦の徴たちを。
「あまり、誇れるものではないが……な」
大小数えきれないほどの刀傷。黒い毛並みの肌ゆえに遠目ではさほど目立たなかったが、木漏れ日に輝き映し出された身体は、彼には痛いほどに目に止まってしまう。

「それだけ、激しい日々を生きられてきたという証なのですね」
マティエといえど一人の女性、そのあらわな体をまじまじと見てしまった気恥ずかしさと、無数の傷跡を目の当たりにしてしまったという、禁忌たるものをみてしまった危うさとがエッザールの頭の中で渾然となっていた。
そう、彼の女性に対する免疫耐性の低さはラッシュに匹敵するほどだったから。
「だからこそ……だ。私は自身の心から女性であるということを捨ててきた。誇りである角ですら既に持ち合わせてはいないしな」
そう言って、ぶおん、と彼女は豪槍を片手でくるくると回し、自分の手の延長かのように振り回した。
エッザールが新たに手にした双剣の如く、その幅広の刃はひらひらと舞い落ちる落葉を刹那のうちに両断し、頬を撫でる涼風すらも二つに撫で切るかのような鋭さだった。

「ナウヴェルさんに鍛え直してもらわないのですか?」
彼の言葉に、くすっとマティエの頬の古傷がほころんだ。
「これはソーンダイク家の誇りでもあるからな。折れて朽ち果てでもしない限りは手を加えたくはないんだ」
なるほどな、それこそが彼女の心の強さの一片でもある……と思いを巡らせた直後だった。

「迷いは弱さにつながる」
マティエは腰を軽く落とし、脇に槍を構えた。
「慣らしですか?」
だが彼女は首を左右に振った。
「単なる慣らしなら実剣は使わん」
空いた左手を正面にかざし、ふぅ、と大きく深く息を吐く。

「私でよければ」とエッザールも細く長い盾を正面に構え、臨戦態勢をとった。
「もとよりこんな身体だ、お前にさらに傷をつけられようとも私は一向にかまわぬ」
「ならば、私も本気で行かさせてもらう!」

瞬間、二人の刃に火花が散った。

ひたすらにパワーで押すマティエ。
盾を駆使し多彩な技で翻弄するエッザール。
二人の模擬戦は、太陽が真上に来る頃まで続いた。

「ちょ、ちょっ……マティエ、さん。もう身体が……」
先に音を上げたのはエッザールだった。
大量の汗が彼の緑色の身体から滴り落ち、そして相対するマティエも、肩で大きく息をしていた。
「大したものだ、ここまで粘ったのはお前が初めてだ」
「私も……です。身体が鈍っていたのが、ようやく……」
どさり、と豪槍を手にした巨躯が芝生に寝転んだ。
「やはりラウリスタの業物は違うな。あれだけ私の攻撃を受けたのにも関わらず、傷ひとつついてない」
きらりと陽光を受けるエッザールの盾。それはまだ新品の如く白銀の輝きをもたらしていた。
「マティエさん、私の方は褒めてはくれないのですか?」
「さっき褒めただろうが、聞いてなかったのか」
それに、と一拍おいて、彼女は紡いだ。
「私のことは呼び捨てで構わないぞ、敬語で呼ばれるのは城の中だけでたくさんだ」
ぷっとその言葉にエッザールが吹き出した。
「おかしいのか……?」
「い、いえ。マティエさ……は初めて会った時から近寄りがたい雰囲気あったので。そんなこと言ってくるんだなって」
「そうだな……笑顔を見せることすら許されなかったからな。私の家は」
「素敵ですよ、その笑顔」
しまった、とエッザールは突然口をつぐんだ。気が緩んでいたとはいえなんて不埒なことを言ってしまったんだ、しかも……
彼女にはルースという婚約者がいるというのに。

「あ……か、感謝する、エッザール」彼女の太い指が、羊族特有の巻き毛を何度も照れくさそうに弄る。
そんな彼女の姿に……

エッザールの心臓が、どくんと大きく高鳴った。

「お、お前には彼女とかいるのか、こ、故郷に」
「いえ、小さい頃から剣の道一辺倒でしたし、割と早くに旅陣として各地を回っていたので……」
そしてマティエの胸も、少しずつ速度を早めていた。
おかしい、自分はこの生き方を選んで以来、人を好きになるという感情すら殺していた。そう、ルースと出会うまでは。
だが、いまここで感じている鼓動はまた違っていた。なんだろう……
もう少し、この高鳴る胸を聴いていたい。そんな自分らしからぬ衝動。
「マティエ……このあと一緒に食事でもどうですか」
剣を交錯させたときから、不思議に感じていた。
本来ならば適当な理由をつけて断っていたであろう自分が、なぜか彼女と一戦交えていたことに。
婚約者のいる身なのに、なぜ食事を誘ってなんてしまったんだ……けど。
気持ちが、抑えられない。

マティエの目尻が、木漏れ日に微笑んだ。
「もう少し、紳士的に誘ってはくれないものかな」と右手を彼の元へと差し出す。
そして……彼はその手を、まるで花束を受ける様に優しく受け入れた。
「ではマティエ、あらためて食事へ、一緒にいかがでしょう?」

「ええ、喜んで」

涼しい風がまた、二人を優しく包み込んだ。

しおり