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第118話 いかにも『駄目人間』らしい贈り物

 立ち上がってそのまま一同の背後に下がった嵯峨が持って来たのは大きな手桶だった。

「響子さん。実は遼からそば粉が送られてきましてね。昨日少し時間が空いたもので打ったのですが……どうですか?」 

 突然の嵯峨の言葉にただひとり残っていた響子は呆然と嵯峨を見つめた。響子の緊張の糸が切れそうになったタイミングを見計らっての嵯峨の言葉はこの場の誰もが予想していなかったものだった。

 一瞬、戸惑ったあとで目の前の西園寺派の武官達の姿を見て留袖の裾を静かに引いて響子は息を整える。

「ええ、ですがこの方達のお気持ちも……皆様は内府殿の今後を心配されているのです。先ほども申し上げましたが少しは臣下の意を酌んであげてもよろしいのではないでしょうか?」 

 紫色の地味目な小紋が映える姿の響子は眉をひそめながらつぶやく。あまりに突拍子のないことを言ってきた嵯峨にさすがに彼の臣下の気持ちを代弁するように言って聞かせようとした。

 だが、嵯峨には響子の言葉などまるで届いていないと言うように、下女が嵯峨が運んできた手桶を受け取るのを嵯峨は満足げに眺めていた。

「なあに、これくらいの人数なら酒の肴にざるそばを食べるくらいの量は持ってきていますよ。醍醐さんも一緒にどうですか?」 

「なにをのんきな事を!」

 怒りで顔を真っ赤に染めた顔が黙ってそう言っていた。醍醐は今にも嵯峨を殴り倒したい欲求を抑えながらゆっくりと立ち上がった。

「今は一分一秒が惜しいですから。辞退させていただきます」 

 そう思わず自分の声が上ずっていることに気づいて醍醐は彼の被官達に目をやる。しかし、嵯峨の突然の提案に彼らはただ目を開けて座っているだけだった。

「確かに大臣の公務は大変でしょうから。高倉さんとかには伝えておいてくださいよ。『あんたなりにがんばったね』って」 

 そう言いながら嵯峨は甲武陸軍の制服の両腕をまくる。彼はそのまま慣れた調子で廊下へと向かう。彼を見送りながら醍醐は我に返って通信端末を開いた。

「ああ、私だ。高倉大佐の身辺を固めろ!責任感の強い男だ。腹を切る可能性があるからな!」 

 醍醐はそのまま部下と連絡を取りながら嵯峨とは逆の方向、屋敷の正門に向けて早足で立ち去る。残されたのは貴族主義の支柱である九条響子女公爵と『民派』の幹部と言える前田達だけだった。

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