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イーグの危機

「あの子、だいぶ積極的になってきたみたいね」隣にいるボア族の女性がにこやかに話した。
布を硬く丸めた球を蹴り合って、広い草むらで遊ぶ五人の子供たち。
四人は彼女同様ボア族で、そしてもう一人は人間。
「チビのことか?」彼女の後ろから筋骨たくましい男の姿が。イーグだ。
「ええ、ラッシュが初めて連れてきた時はもう尻尾の後ろ側にずっと隠れてるくらい人見知りがひどかったのに」
「あいつも人前に出さなすぎなんだよな。まあ子育てのこと全然知らなかったからしょうがねえけど」
枯れ草まみれの髪の毛を振り乱し、果敢に球を追うチビのその姿。恐らくは父親であるラッシュすらそんな姿を見たことはなかった。
遊んでいる子供たちを眺めながら、ふとイーグは「でな、悪いけど……」と深刻な目を妻である彼女=イローナに向けた。
「分かってる、またいつものお付き合いでしょ?」
「ああ。ラッシュがとある鍛冶屋のおっさんを探したいんだと」
ごろんと草むらに寝転ぶ。見上げた空に鉛色の雲が見えてきた……こりゃもうすぐ降るかな、とイーグは直感した。
「大丈夫よ、まだまだ配給される小麦だけじゃ今までと同じパンは作れないしね」
すまねえ、とイーグはイローナのお腹をやさしくさすった。
やや大きくなり始めたそのお腹には、新たな生命が芽生えつつあった。
「産まれるまでには必ず帰るから、約束する」
イーグの情けない声に「お土産忘れないでね」と、彼女が返した時だった。
ぴくりと、二人の丸い耳が同時に同じ方向……子供たちの方に傾いた。
「見えたか?」
「ええ、なんか木の影に」
存在に気づかれないよう目を凝らすと、チビたちを見つめる黒い影がひとつ。じっとこちらを見つめていた。
流れる風にひくひくと、ボア族特有の上向きの鼻が細かく動く。
「人間だな……しかしなんで子供たちを」
人さらいか? いやしかしこのマルゼリの街は治安においてはかなりいい方だ。酒場で小競り合いがときおりあるくらいで、物取りや誘拐などは出会った試しがない。
口元までマントで隠した黒い長身の人間。面識なんてない。それに商売トラブルにも巻き込まれたことはない。だとしたら……
イーグは背中に忍ばせておいた短剣に手を置き、気づかれぬようすり足でゆっくりと距離をつめていった
「(合図したらすぐに子供たちを連れて逃げろ)」
腰の後ろでそう、サインを送る。

息を押し殺すイーグの鼻先に、ぽつりと冷たい雨粒がかかった。
すぐさま、それは桶をひっくり返したような豪雨へと……雷と共に。
「行け! 」
瞬間、カッとまばゆい光が視界を覆った。
同時に耳をつんざく轟音が、通りの街路樹を真っ二つに切り裂く。

「え……あ?」
あっという間の出来事だった。ほんの一秒にも満たない刹那に、男の視界からみんな姿を消していた。
あるのはただ、さっきまで子供たちが蹴っていた球だけ。

「おい、なに呆けてるんだ?」
耳元で誰かがそっとささやいた。
男は慌てて振り向こうとしたが、その首元には、雨に濡れて輝きを増す短剣の切っ先が突きつけられていた。
「い、や……俺はただ」
男の言葉をさえぎるかのように、イーグはその太い指で相手の細く縮れた髪をすいた。
「だいぶ陽に灼けてるな……それに砂も絡んでる。ここの人間じゃないな」
「そ、それは……!」
「素直に答えろ、誰に頼まれた?」
冷たい風が草むらを撫でつけると、程なく大雨も通り過ぎていった。

だいたい分かる。こんな奴らになにを質問しても絶対口を割らないってことは。
無理を承知で「目的は?」と言葉少なに聞いたが、やっぱり無言のまま。
だが……今ここにいる人間の男の妙な感覚にイーグは戸惑った。
ー呼吸を、していない。
背後から首を絞めているにもかかわらず、だ。
だが黒いコートに身を包んだ男のギラギラした目は、相変わらずこちらを睨みつけたまま。

数えきれない戦場を生き抜いてきたであろう、彼の感じる違和感はそれだけではなかった。
たとえばその嗅覚。多かれ少なかれ、人は極度の緊張や焦りに直面すると、身体から発せられる匂いがわずかに変わる。
こいつにはそれが全くなかった。
緊張もせず、汗もかかず……とどめに、呼吸もだ。

「ガキたち、無事に逃げられているかぁ?」
ふと、男の固く閉じていた口から漏れ出た、あまりにも拍子抜けなその一言。
「な……!?」
瞬間、ゴキっと骨の外れるこもった音が。
あろうことか、こいつは……イーグの極めていた肩を、そして首の骨すら外し、まるで水のようにするりと流れ抜けていた。
「シネ! リオネングの獣人!」
関節が外れ、だらりと垂れ下がっていた手に握られた短剣が、ぶん! とイーグの耳元をかすめる。頭の中で判断が追いつかないが、少なくとも獣人特有の反射神経は無意識に働いていた。
ヤバい
もうなにを聞いても無駄
こいつは人間じゃねえ、死体に近い何かだ
子どもたちが危ない
イローナが危ない
それにチビが……

チビ!?

次々に飛んでくる不安意識を一蹴し、イーグは飛び膝蹴りで男の肘を砕く。そしてすぐさま顔面を掴み、地面に思いきり叩きつけた。
普通なら衝撃で意識はすぐに吹っ飛ぶ……が、この死体然とした奴にはなんの効果もない。
心臓? 首の血管? 額? おそらく全て通用しないだろう。
ならば、と。ありもしない角度に曲がっていた男の首に全体重を乗せ、男の首を刈り獲った。
切り口からはなにも出ない。血の一滴も。
手にした首は……やはり、にやけた顔でこちらを平然と見つめていた。
ぞわっと、イーグの背筋に普段は感じたことすらない冷たさが走り抜けた。
考えるのは後だ、こうしちゃいられない。
池のような水たまりだらけになった道をイーグはダッシュで駆け抜けた。道筋はわかる。子どもたちといつも遊びに行くお決まりの通り、だから……
心の中で軽く祈った。
「いや、どっちかといえば子どもたちの方……かな」
息を切らす暇すらないまま、路地へと入ったその先には……

「あらあなた、そっちは大丈夫だったの?」
薄暗がりの中、妻イローナは地面に広がる黒装束たちの遺骸の中、笑みを浮かべて一人立っていた。
イーグがさっき殺したであろう男と同じ服と装備。そして同様に一滴の血も流れてはいなかった。

もちろん、イローナも怪我ひとつなく。
「こ、子どもたちは……大丈夫なのか?」
「あら、私の方は心配してくれないの?」
妻の言葉にイーグは緊張が解け、ぷっと鼻で吹き出した。
「その姿みて心配もクソもねーだろうが」
微笑みをふふっと浮かべると、彼女は脱ぎ捨てていた上着を肩にかけた。

その身体からうかがえる彼女の二の腕……イーグのそれを遥かに上回る太さだった。

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