第186話 怪しい少年『抗体』の存在
アメリカと東和共和国には国交は無かったが、アメリカ政府は東和に連絡事務所を置いていた。
そのアメリカの東和事務所ナンバーのアメリカ製高級乗用車が停められていた。
薄汚れたここ豊川市の古い住宅街の中でその車は一際、目立っている。アメリカ事務局陸軍三等武官はあくびをしながら目の前のすすけた遼州同盟司法局下士官寮を眺めていた。
「おじさん!サボってるな」
不意に窓を叩く野球帽を被った少年を見つけて、彼のあくびも止まった。
「クリタ中尉じゃないですか、脅かさないでくださいよ」
運転席の窓を開けて、少年を見た。10歳にも満たないクリタと呼ばれた少年は手にしていたコンビニの袋からアイスクリームを取り出した。
「クリタ中尉ねえ……僕の名前なんてどうでもいいんだろ?君達にとっては。僕は所詮『抗体』に過ぎない。君達が『生体実験』で壊した本来『廃帝』の『抗体』になるべき存在のコピーとしてね。そんな過ぎたことはどうでも良いんだ。どうだい、様子は」
いたずらっ子の視線と言うものはこう言うものだ。武官はバニラアイスのふたを開けながら少年を見つめていた。そして、少年の言葉が彼もまた法術師であり、法術師についてアメリカが深く関与している事実を示していることを意味していた。
そんな言葉を誰が通るか分からない裏路地で語りだす少年に半分呆れながら三等武官は緊張した面持ちで少年をにらみつけた。
「こんな誰が聞いてるか分からない場所で『廃帝』の話はしないで下さいよ。その我々が壊した『抗体』が選んだ『廃帝』に対する対抗手段を持つ青年の様子ですが……いつもと変わりはありませんよ。昼ですから食事でもしてるんじゃないですか?」
三等武官は退屈していた。
実際、彼に与えられた任務は嵯峨惟基が選んだ青年、神前誠の監視だった。しかし、嵯峨惟基が隊長を務める『特殊な部隊』は、『近藤事件』以降、何一つ行動を起こすことが無かった。二十世紀末の不便な環境と地球人に対する敵対意識にさらされる毎日を送ることに三等武官は飽きていて、さっさと嵯峨惟基に『廃帝』を排除してもらい、自分の任務が終わって帰国する日を心待ちにしていた。
少年は玄関を見つめる。虎縞の猫が門柱の影で退屈そうに周りを見回している。
「クリタ中尉。あなたが来るほどのことは無いと思いますが。マコト・シンゼン単独では『廃帝』に対抗できないことはデータも証明しています。貴方が動くときは『廃帝』の居場所を我々が特定した時。それだけは忘れないでください」
宇宙の警察を自認するアメリカにとって『廃帝』の存在は許しがたいものだった。本来はその『抗体』として生を受けた嵯峨惟基が対抗手段として考えられたが、アメリカ陸軍の上層部は彼の戦争犯罪を理由に嵯峨惟基を生体解剖し、遼州人の法術師の持つ能力を徹底的に調査する道を選んだ。
結果、嵯峨惟基は『使い物にならない法術師』となり、新たな『抗体』としてそのクローンであるこの少年を作り上げた。
『所詮、コピーに過ぎないくせに。役目が終われば消されるよ、君は』
三等武官は自分に生意気な口を利く少年をそんなことを思いながら眺めていた。
「あの嵯峨惟基が選んだ青年なんだろ?マコト・シンゼンは。一度はマコト・シンゼンに挨拶するのが礼儀と言うものだろ?『廃帝』の排除が済んだ後はいずれ手合わせをすることになるかもしれないんだから」
クリタと呼ばれた少年は手にしていたチョコレートバーの雫を舐め取りながら少年らしいあどけない笑みを浮かべた。
「確かにあなたの言う通り、『廃帝』が排除されても脅威として司法局実働部隊が存在し続ければ……合衆国としても対抗手段を取らなければならなくなる。危険すぎる、この連中は」
三等武官もこの『特殊な部隊』に力が集まりすぎている事には危機感を感じていた。
「まあ、彼等には今のところ合衆国と敵対する理由が無い。いっそ仲良く協力するって言うのはどうだろう?嵯峨惟基も『廃帝』に対する『抗体』として産まれたんだからきっと協力してくれるよ」
能天気に少年はそう言うとアイスクリームを舐めた。
「それは考えられませんね。嵯峨惟基に合衆国がしたことを彼が恨んでいないはずはない。協力の申し出など袖にされますよ。それと、もしどうしてもマコト・シンゼンに会いたいなら明日の出勤時刻にでもここにいれば必ず見られますよ。真面目そうなごく普通の青年です」
助手席に座っている情報担当事務官がそう言いながら手にしたチョコレートバーを舐め続けていた。