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37話 恥ずかしがり屋の月




北区の迷宮のような土道を、ルネとウタは風のように駆け抜けていった。

舞い上がる砂埃が後方に尾を引き、近くを流れる小川のせせらぎは次第に遠ざかっていく。二人の足音が狭い路地や軒先の市場をリズム良く叩くたび、行商人たちの並べたスパイスや果物が視界の隅で揺れる。その疾走は、平和な市場にほんのひとときの嵐を呼び起こした。


「道を開けて!」


紫髪の踊り子、ウタの声が市場に響く。振り返る間もなく彼女は市場の通路を突っ切り、背後からはマリクの怒声が追ってくる。その後方には黒いローブを纏った二人の男たちが加わり、追跡劇がさらに加速した。


「囲い込め!逃がすな!」


マリクが指示を飛ばすが、踊り子のウタは狭い路地の壁を巧みに使って宙を跳び、まるで羽根のような身軽さを見せる。陽の光を浴びて輝く紫の髪は、一瞬の幻影のように見る者の目を惑わせた。


「アイツら、なかなか速いね!」


ウタが息を弾ませながらも楽しげに笑う。


「振り切れないのよ!」

焦るルネが叫ぶ。


「ねえ、アレは何?」

ふいにウタが、中央区の外壁にそびえる高い鐘楼を指差した。


「あれは今使われてないわよ!」

ルネが答えるが、ウタの瞳は不敵に輝く。


「上からあの中に逃げよう。」


見ると鐘楼の上部には窓が口を開けていた。ウタは言うや否や、走りながら銀貨の詰まった皮袋を近くの店主に放り投げた。


「おじさん!これ貰うよ!」
「ま……まいど……」


呆然とする店主を横目に、ウタは大きな小麦粉の袋を抱え、さらに速度を上げる。その背後では黒いローブの三人が店主の前を横切った。


「ルネ!捕まって、目を閉じて!」


突然立ち止まるウタの言葉に、慌てて彼女に抱きつくルネ。次の瞬間、ウタは大きな袋を天に掲げ──


「やめろおおぉぉ!!」


マリクが叫んだと同時に、地面に袋が叩きつけられた。

地面に叩きつけられた袋が破裂し、舞い上がる小麦粉が辺りを濃霧のように覆い尽くす。その真っ白な世界の中、マリクは叫ぶ。


「食い物を粗末にするんじゃねえ!」
「ごめーん!」


ウタが律儀にも謝る。目に小麦粉が入り苦悶の声を上げ、フラフラと歩くマリクを見て、遅れてやってきたナジームが駆け寄る。


「マリク!何をやっている!?……煙幕か!」
「目が、目がぁぁ……」


彼は地面を叩き、白い光で小麦粉を空高く押し上げるが、そこにはもう白装束と踊り子の姿はなかった。


「クソ、見失ったか!?」
「まだ近くにいるはずだ、探せ!」


黒いローブの男たちは四方に散っていく。鐘楼の中に隠れていたルネは、壁の隙間からその様子をじっと見つめていた。


「行ったかな?」
「うん、四人の距離はだんだん離れていくよ。」


目も向けず状況を把握するウタの口振りに、最近のルネはもう疑うこともなくなっていた。


「少ししたら、隠れ家に戻りましょ。」
「そうだね。」


肩を寄せるウタの仕草に、ルネは彼女の意図を察する。


「ちょっと……流石に今ココでする訳にはいかないでしょ。アレが無いし。」

「あるよ?」


照れながらもたしなめるルネの態度に、ウタは微笑んで背中から『ストブレ』を取り出した。


「なんで持ち歩いてるのよ……」
「だって、前にルネがムr──」

「分かったから!ありがとう!でも…帰ってからね。」


ルネが慌てて話を遮ると、ふと鐘楼の天井にある隙間から、太陽が何度かチラつくのに気付いた。


「なんだろう、鳥かな?」
「うーん、ここからじゃよく見えないね。」


夕陽が沈んでいく中、望遠で覗くウタは、一瞬だけ赤い髪を見た気がした──









追っ手を振り切ったウタとルネは、心の中にまだ僅かに燻る焦燥感を抱えながら帰路を急いでいた。

だが、遠くから聞こえてきた一音のラッパが、その焦燥を増幅させる。瞬間、ルネの目が煙を捉えた。視線の先には隠れ家のある方角。


「まさかウチじゃないよね…?」


ルネの呟きは風に溶け込むように小さかったが、恐ろしい現実を予感させた。

隠れ家に近づくごとに、心臓の鼓動が嫌でも早くなる。二人がその場に到着したとき、目の前に広がったのは悪夢そのものだった。燃え盛る隠れ家、黒煙が空に立ち上り、周囲には砂や水をかけて懸命に消火を試みる人々の姿があった。


「ウタ!」


背後から声がした。振り返ると、血の滲む包帯を頭に巻いた傷だらけのアイマンが、アイシャとともに駆け寄ってくる。


「アイマン、何があったの?そのケガ…」


ウタは動揺を隠せないまま、アイマンに詰め寄る。


「ウタ、すまない。アビスブックを奪われた…」
「だれに?もしかして黒いローブのヤツら?」


ルネも慌てて近づき、矢継ぎ早に質問を浴びせる。二人は、さっきまでアフマルの護衛として現れた黒服の男たちに追われていたことを伝えた。


「そうか、紅玉の奴らを洗い出さないとな…」


それを聞いたルネは焦燥と怒りが滲んでいた。そしてそのまま行動に移ろうとする彼女を、アイマンが静かに制する。


「ちょっと待ってくれ。アイシャ、渡してやってくれ。」

「ルネ、これ…ちょっと焼けちゃったけど、何かの役に立つはず。」


アイシャが差し出したのは夜天の衣。夜空の一部を切り取ったかのような深い紺色の布は、傷ついてもなお神秘的な輝きを放っていた。


「ありがとう。」


ルネがそう言うと、アイシャは小声で付け加えた。


「気を付けて。奴らの中に霊気を扱う者がいたから…」


その言葉にルネは一瞬言葉を失った。魔族が絡んでいる、という事実の重みに押し潰されそうだったのだ。そんな彼女の肩にそっと手を置いたのはウタだった。


「ルネ、いこう。大丈夫、君は私が守るから。」
「そんな事言われたら、何処までもついて行くわよ?」


ルネが冗談めかして微笑むと、ウタは何も言わずに彼女を見つめた。その瞳には言葉以上の力が宿っていた。


「いってきます。」


ルネはアイマンとアイシャに向かってそう言うと、ウタと共に歩き出した。


既に陽は落ち、夜空には滅多に顔を出さない三つ目の月、通称『恥ずかしがり屋のお月様』が、雲間からそっと顔を覗かせていた──




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