36話 もつれていく糸
エスカリオン共和国、星狼の塔の最上階。かつてテオが佇んでいた大窓には、今はただ街を見下ろすだけの寂しい空間が広がっている。そこにあるのは、春の訪れを遠くに感じさせる冷たい風だけだった。
その場を訪れたのはルナ陛下。足音さえも響き渡る静寂の中、彼女はふと立ち止まり、小さく息をつく。その傍らには白い侍従服に身を包んだシャイラが控えていた。
「やはり帰っておらんな。」
ルナの震える声は、塔の静けさの中で吸い込まれるように消えた。
シャイラはそれを聞き、そっと彼女に寄り添う。
「もう七日になりますね」
その瞬間、堰を切ったようにルナの頬を涙が伝っていった。
「…テオが居なくなったらどうしよう…もう会えなかったら…」
その言葉は、静かな部屋の中で痛いほどの切実さを帯びて響く。シャイラは迷うことなく膝をつき、泣き崩れるルナをそっと抱きしめた。優しく、けれど力強く。
「大丈夫ですよ、ひょっこり帰ってきますよ。」
シャイラの言葉は穏やかで、そこにある確信のようなものが、ルナの動揺する心に少しだけ温もりを灯した。彼女の手が、涙に濡れたルナの髪を優しく撫でる。
塔に吹き抜ける風が二人の間をすり抜けていく中、その場だけが、微かな希望の灯火に包まれているようだった。
◇
アルハザード北区には、アイマンが手配してくれた隠れ家がひっそりと佇んでいる。
建物の構造は少々奇妙で、一階には出入口がなく、二階からしか入れないという不便さがあったが、それがかえって隠れ家としては理想的だった。周囲の建物と密接に接しており、まるで隠れるために設計されたかのようだ。
ウタとルネはここに寝泊まりしており、アイマンとアイシャも同様だ。それぞれが二階で過ごし、一階は共用スペースとして利用しているため、顔を合わせる機会が増えた。
朝、アイマンが食事を摂っている最中に、ウタが声をかける。
「アイマン、おはよう。」
「おはよう、ウタ。」
ウタは椅子に腰を下ろし、すぐに本題に入った。ルネが朝食を持ってきてくれる間に、話を切り出さなければならなかったからだ。
「亜人の収容所の場所を割り出したよ。」
「!? なんと、それは素晴らしい!」
アイマンは驚いたような表情を浮かべる。まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔だ。彼の話によると、亜人奴隷は反帝国勢力によって一時的に保護され、その後、他国を経由して共和国に帰還させるルートが確立されているという。さらに、他の大陸では奴隷制度の廃止を目指す動きが活発化しているとのことだ。
「何人が収容されているか、分かりますか?」
「すみません。ルネならわかるかも。」
ウタは少し肩を竦めて言う。
「大丈夫ですよ、大規模でもなければ問題ありません。それと…これは別件ですが──」
アイマンは突然話題を切り替え、ウタは思わず首をかしげる。
「お二人にぜひ会いたいという方がいまして、主に宝石や貴金属を取り扱っている『紅玉の家』という商会の副代表で、名はアフマルです。」
「アフマルさん…。」
ルネが朝食を持ってきたタイミングで、ウタは思わずその名前に反応する。
「はい、お待たせ!」
ルネは手にしたお皿をテーブルに置き、シャクシュカ──野菜と卵のソースと平たいパンをウタの前に差し出す。続けて、ココナッツミルクの入ったカップも置く。
「あんたにはミルクね。」
ウタは目を輝かせ、ココナッツミルクに夢中だ。ルネも椅子に座り、食事を始める。
「なんの話してたの?」
ルネの質問に、ウタは少し頭を傾げる。
「何の話だっけ?」
ココナッツミルクに心を奪われてしまったようだ。代わりに、アイマンが話を続ける。
「紅玉のアフマルがお二人に会いたいと言ってる話ですね。」
「紅玉って、あの宝石商会の?」
ウタは食事に集中しながらも、話の流れを追う。
「おそらく商売の話かと。しかしアフマルはあまり評判が良くないですね…」
「何かあるの?」
アイマンは腕を組み、肘をテーブルに置いて少し考えるようにしてから答える。
「優秀な商人ではありますが、少し強引なところがありまして…。実は、今も指定の場所でずっと待っているはずです。」
「え。急ぎなのかしら?」
ウタはココナッツミルクを一気に飲み干すと、目を閉じてその余韻を楽しんでいるようだ。
「私には何とも…。」
「まあいいわ。食べたら会いに行ってみる。場所を教えて?」
ルネはウタの鼻の下についたミルクを拭きながら、了承した。
◇
北区の一角に広がるスークは、布製の屋根がぎっしりと連なり、さながら生きた迷路のようだった。
野菜や魚、塩が飛び交う声が絶え間なく響き、人々が行き交う様子は混沌そのもの。しかし、その喧騒の中にどこか秩序があり、市場はまるで一つの生き物のように脈動していた。木製のテーブルや椅子が並ぶ店からは香ばしい料理の匂いが漂い、通りを満たす。
その雑踏の中、白装束を身にまとったルネとウタは目的の人物を見つけた。
その男は、この辺りの住人とは一線を画す赤黒い高級な服を纏い、手にした煙管からゆったりと煙を吐き出していた。男の傍には黒いローブを纏った二人の護衛が控えており、威圧感を漂わせている。
「あの人かな?」
ウタはちらりと呟き、ルネに視線を送ると一歩下がった。ルネは彼女をその場に留めると、自らその男へと近づいた。フードを取る動作は静かでありながら毅然としていた。
「あなたがアフマル?」
ルネの言葉に、アフマルはわずかに口元を歪めて応える。
「いかにも。お前がルネか?」
その一言に、ルネは一瞬目を細めたが、すぐにいつもの落ち着いた声色で話を続けた。
「ええ、何か依頼?」
「まあ、座ってくれ。」
アフマルが指し示した椅子には目もくれず、ルネはきっぱりと断る。
「このままで結構よ。要件を言って。」
「すまないな。あんたらのような者たちと話すのは慣れてなくて、と…」
アフマルは言葉を伸ばしながら、腰に手を伸ばした。取り出したのは皮袋だ。
袋の口を緩め、中から宝石がこぼれ落ちそうなほど光を放つのが見えた。赤、黄色、青みがかった石が煌めき、周囲の喧騒を一瞬吸い込むかのようだった。
「お近付きの印だ、ひとつ差し上げよう。」
「要らないわ。宝石は間に合ってるのよ。」
ルネの即答に、アフマルは少し眉をひそめたが、特に気を悪くする様子もなく皮袋を仕舞った。次に彼の口から発せられた言葉は、思いもよらぬものだった。
「アビスブック、知っているな?」
ルネの瞳が一瞬だけ鋭く光る。
「何処でそれを?」
アフマルは煙管を再び唇に当て、紫煙をゆっくりと吐き出す。
「我々にも共和国には内通者がいる。」
彼の動きに合わせるように、ルネの耳に仕込まれた通信機からウタの低い声が届いた。
『彼は嘘をついている。』
ルネはその言葉を胸にしまい、冷静な表情を崩さず腕を組んでアフマルを促した。
「…本を見つけたらすぐに私に教えて欲しい。あれは危険なモノで『我々』しか扱い方を知らない。」
「分かったわ。見つけたらすぐに知らせる。」
そう言い残し、ルネはフードを目深く被り、その場を離れた。アフマルの視線が背中に突き刺さるようだったが、彼女は意に介さず歩を進める。アフマルは護衛に目配せし、ぼそりと呟いた。
「追え。そして本を奪え。」
黒いローブの男たちはすぐさま群衆の中に紛れ込む。
市場を出たルネとウタは足早に街の奥へと進む。ウタが軽い口調で言った。
「たぶん追っ手がかかったわね。」
「二人の位置は把握してる。」
その言葉にルネはわずかに目を見開き、感心したように呟いた。
「頼もしいわね。でも、すぐには隠れ家に戻れないわ。」
だが、ウタは不意に笑い声を漏らす。
「なによ?」
「一度追われてみたかったんだ。」
ウタの無邪気な言葉に、ルネは思わず溜息をついた。だが、そんな彼女の表情も少しだけ緩んでいた。
市場の喧騒から遠ざかり、アルハザードの中心部へと向かう二人。その背後には、追っ手の影が忍び寄っていた。
◇
「首尾はどうだ?」
ナジームが傍に来たマリクに低い声で尋ねた。
彼は黒いローブを羽織り、広場に佇んでいる。北区入口の広場は独特な光景を見せていた。片側には土の道が続き、小川が静かに流れている。その小川は中央区へ向かう途中で石畳に吸い込まれ、光明の神殿へと至る地下の流れに合流する。
ナジームはその中央区と北区を隔てる壁の柱にもたれ、薄暗い広場を見渡していた。彼の口元にはわずかな笑みが浮かぶ。
「亜人は全員、保管場所から移動させたぜ。」
そう応えると、ナジームの目が少し光った。
「早ければ今日にも…いや、今夜にも白装束が来るかもしれん。」
彼の声には警戒心と同時に一抹の興奮が混じっていた。
「もぬけの殻だとも知らずにな。」
マリクは口元を歪めて笑い、腹を抱えるほど楽しげだ。それを見たナジームも、つられるように小さく笑みを浮かべた。
だが、その和やかさを引き裂くものがあった。ナジームの目に映ったのは、北区側から歩いてくる二人組だった。
片方は白装束に身を包み、もう片方は紫色の髪に踊り子のような軽やかな装い。すぐに大臣殺害の容疑者だと判別し、様子を伺うように息を殺し始めた。
「おい、ナジーム。あれ」
マリクが気づき、指を差そうとする。それを見たナジームは咄嗟に手を伸ばし、小声で叱りつける。
「バカ野郎、指を差すな。」
しかし、その時すでに遅かった。白装束の女と目が合った瞬間、二人組は一斉に左側へと駆け出した。
「あ、逃げたぞ。」
マリクが叫び、ナジームは舌打ちを一つして追いかけようとした。だがその瞬間、黒いローブを纏った二人組が正面から現れ、行く手を遮るように立ちはだかる。ぶつかりそうになったマリクが叫ぶ。
「おっと!あぶねえ、お前らもついてこい。追うぞ!」
二人の黒いローブ姿の男たちが一瞬の逡巡の後、マリクに付き、白装束を追い始めた。だが、ナジームの足は止まったままだった。追走する彼らを見送る目には、どこか疑念が浮かんでいる。
「ウチの組織にあんな二人居たか…?」
いぶかしげな表情を浮かべながらも、彼は躊躇を捨て、足を踏み出した