26話 覆う霧と赤い風
宰相セリシアが先導し、ウタ、ルネ、グリアナ、シャイラの四人は通路の先に備えられた大型の昇降機に乗り込むと、機構がゆっくりと唸りをあげ、静かに上昇を始める。揺るぎない機械音だけが、重苦しい緊張感を伴って耳に届く。
やがて、昇降機の壁面がガラス張りに変わり、塔の外に広がる風景が見える。眼下には都市が無機質な幾何学模様のように広がり、そのさらに先、北の方角には大地を飲み込むほどの濃霧が、静かに蠢いていた。
「ひゃー…高いわね。なんだってこんな高い塔にするのかしら。」
ルネの素朴な呟きが、昇降機の狭い空間にふわりと広がった。
「浪漫があるんだよ。」
ウタが即座に答え、得意げに胸を張る。その様子にルネは「はいはい、出ました」と言わんばかりに、猫のように細めた目でウタを睨む。
「た、高い所から見渡す景色は気持ちがいいし、技術力を誇示できるでしょ? それに、人々の心に象徴として焼き付く――」
言葉を並べるウタに、ルネがすかさず突っ込みを入れる。
「はいはい、それ全部まとめると『ろまん』でしょ?」
その冷めた一言に、ウタは苦笑しつつも肩をすくめた。
「浪漫は、時代も場所も超えるんだよ。」
「ええ、浪漫ね。まったく、あなたって人は…」
呆れ顔のルネを横目に、宰相セリシアが控えめながらも含みのある笑みを浮かべて言葉を挟む。
「ウタ様は本当に博識ですね。ただ…ここ、星狼の塔はテオの巣のようですが。」
その一言でグリアナがわずかに唇を歪める。
「テオが皇帝なら、玉座の椅子が冷える暇もなさそうだな。」
軽く放った皮肉めいた言葉に、セリシアが冷ややかな視線を向け、即座に応戦する。
「正教会の聖騎士様が、それを言いますか?」
グリアナは肩を揺らしながら、どこ吹く風とばかりに堂々とした口調で返した。
「聖騎士は常に民のためにある。民が望むなら、革新派の下に就いてやってもいい。」
その言い草に、セリシアは呆れたように目線を逸らし、ため息をつく。
「ご立派なことで…」
その皮肉交じりの言葉を最後に会話は途切れ、昇降機はただ静かに上昇を続けた。金属が微かに唸る音だけが、密かな緊張感と共に無言の空間を満たす。
ウタにはグリアナとセリシアのやり取りが、どうにも難解な暗号のように聞こえた。言葉の端々に何かが引き裂かれ、別々の方向に流れていくような、そんな不思議な感覚だけが残る。
◇
昇降機がゆっくりと減速し、かすかな振動と共に最上階へ到達した。金属の機構音が止むと、重厚な格子ドアが開く。外に立っていたのは、クラシックなメイド服を纏った女性だった。彼女は無言で一礼し、格子の扉を開ける。
その静寂を切り裂くように、甲高い声が響き渡る。
「おお、遅いじゃないか!待ちくたびれたぞ。」
甲高い声がその場を切り裂くように響いた。こちらに歩いてくるのは白い耳を持つ妙齢の女性。薄紫のローブが彼女の小柄な体を覆い、その顔には深い隈と異様な光を宿した瞳があった。
「フェリス議長、遅れて申し訳ありません。」
セリシアが前に進み、礼をする。フェリス議長と呼ばれた女性はすぐにグリアナへと目を向けた。彼女の声には焦燥が滲んでいる。
「魔抜けが起きたというのは本当か?」
「はい、議長代理。ストーンヘイル近郊にて一体のみですが、討伐しました。しかし……」
グリアナが答えようとするも、その言葉を遮るように、フェリスが声を荒げた。
「――それで、本は? 鎖で封印された本は見つかったのか?」
グリアナの表情がわずかに歪む。
「本……? あのような辺境にあるのは、聖書くらいですよ。」
フェリスの目が細まり、その血走った瞳がグリアナを射抜く。さらに彼女の視線がゆっくりとウタ、ルネ、シャイラへとじろりと見回していく。
「お前たち、知らないのか? 鎖で封印された、霊気を纏う本だ。」
ルネが眉をひそめ、ウタの後ろに立つように一歩引く。それを見てグリアナが冷静に口を開いた。
「議長代理、本の話は後にしましょう。今は――」
「私に触れるな!」
フェリスの肩に触れようとしたその手を、彼女が激しく振り払った。その動きは獣のように鋭く、廊下にその声が響き渡る。息を荒げたフェリスはしばらく何かを呟くように唇を震わせたが、すぐに背を向ける。
「もういい……私は忙しい。」
そう吐き捨て、フェリスは昇降機へと戻り、無言で下へと降りていった。
去った後の静寂が、彼女の不安定さをより際立たせる。グリアナが重い声で呟いた。
「……昔は聡明な方だったんだがな。」
「先代皇帝の崩御が、彼女の心を蝕んだのでしょう。」
セリシアが静かに続ける。
「さあ、陛下がお待ちです。」
一行は、まばらに玉座の間へと足を進め始める。
その途中、グリアナがウタの方を振り返り、からかうような笑みを浮かべる。
「ウタ、随分大人しいじゃないか。ああいうことには黙ってないタチだと思ってたが。」
「え、えっと…それが…」
言葉を濁すウタの袖に、グリアナの視線が向けられる。そこにはルネの手がしっかりと握られていた。慌てたようにルネはパッと手を離す。
「なんだ、もう手綱を握られたのか。」
グリアナは大袈裟に笑い声をあげ、先ほどの張り詰めた空気を一掃するように楽しげな様子を見せた。ウタは困惑したように頬をかき、ルネは頬をわずかに染めながらグリアナを睨みつける。
そうしているうちに、白地に金の縁取りが施された巨大な扉が目の前に現れた。重厚な扉は静かに鎮座し、まるでこの先に待つものの威厳を象徴しているかのようだった。
「これより玉座の間だ。失礼のないように。」
セリシアの言葉が、静かな緊張感を伴って四人の耳に届く。
扉が静かに開くと、広大な玉座の間が姿を現した。中央の玉座の後ろには壁がくり抜かれたような巨大な窓があり、透き通るような空が一面に広がっている。陽光が差し込み、まるで天国に迷い込んだかのような錯覚を抱かせる。
グリアナが先頭に赤い絨毯の上を歩く、段差のある場所で歩みを止めると、音もなく片膝をつく。その動きに習ってルネやシャイラ、そして宰相セリシアも同じように頭を垂れる。ウタは一瞬戸惑いながらも、見よう見まねで片膝をついた。
そこに、どこからともなく幼い少女が現れた。赤い外套と細やかなドレスを纏ったその姿が、ゆっくりと玉座に座る。その小さな足が玉座の縁から少し浮いているのがどこか微笑ましく見えたが、その幼い声が間を切り裂くと、場の空気は一気に引き締まる。
「聖騎士グリアナ、報告を」
玉座に座る皇帝の声は幼くも凛としており、響き渡るそれには確かな威厳があった。グリアナは恭しく頭を下げ、報告を始める。
「ストーンヘイル近郊にて魔抜けを撃退いたしました。しかし被害は避けられず、いくつかの村も影響を受けております。そこで事後策として…」
事細かな報告が続く中、幼女皇帝は真剣な面持ちで聞き入る。あまりの真剣さに、つい身を乗り出してしまうほどだ。なんだか、ものすごく真面目な小学生の学級会を見ているようだが、ウタにそのツッコミを入れる勇気はない。
「大義であった、聖騎士グリアナ。」
「勿体ないお言葉にございます。しかし、今回の件は私一人では荷が重かったでしょう。」
「ほう?」
グリアナはその姿勢を崩さず、後ろに立つウタとルネを紹介した。
「ウタとルネ、この二人の助けなくしては成し遂げられなかったでしょう。」
皇帝は二人に視線を向けると、小さな口元を綻ばせた。
「よくやった。褒美は追って申請するがよい。」
褒美の事など微塵も考えていなかったウタは明らかに動揺してしまっている。
「よし、これにて閉幕とする。」
どこか芝居じみた謁見が終わりを告げる。
皇帝がそう言って玉座を降り立つと、玉座の間に安堵の空気が流れる。しかし、幼い皇帝は脇へ退かず、グリアナに小走りで近づいてくる。
「どうじゃ、グリアナ。儂も上手くなったじゃろ?」
その言葉に、グリアナは口元をほころばせ、真摯に頷く。
「はい、もう立派な皇帝ですね。身が引き締まる思いでした。」
皇帝は満足げに笑うが、脇から狐耳の従者が音もなく現れ、見事な手つきで幼女の外套を脱がせる。その光景は、まるで日常のひとコマのように自然だった。
しかしその時、皇帝はウタに目を向け、ふと思い出したように言った。
「ウタよ、グリアナとの決闘で勝ったそうじゃな? こんな熊のような騎士を、どうやって倒したのじゃ?」
「た、たまたまですよ…」
ウタが曖昧に答えると、グリアナがすかさず突っ込みを入れる。
「謙遜するなウタ。あの時、混血を葬るつもりだった私の剣を──」
――その瞬間。
ウタの頭の中に、電子音が響き渡った。
『警告。飛翔体高速接近中。熱源なし。方角330、距離1800。25秒後に接触。』
ウタの瞳が一瞬、鋭く赤く光り、すぐに元の紫色に戻る。グリアナがその様子に気づき、訝しげに尋ねた。
「どうした、ウタ?」
「…なにか来ます。」
その言葉と同時に、轟音が響き渡り、突如として大窓から現れたのは、赤い髪と竜の翼を持つ女性。彼女の魔法によって、風ひとつ巻き起こさない完璧な制御が施され、小さな足音ひとつだけで赤い絨毯の上に着地する。
「テオ!」
皇帝が嬉しそうに駆け寄ると、その女性――テオは穏やかな笑みを浮かべ、幼い皇帝を抱きしめた。二人の親密な空気に、一同が呆然としてしまう。
やがてテオはふとこちらを見渡し、興味深そうに口を開く。
「あれ、随分と賑やかね。お客さんかな?」