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23.5話 狩人としての生




アイマンを見送ったあと、ルネは朝食を軽く済ませて「少し休むわ」と告げ、寝室へと向かった。彼女の足取りにはどこか疲れが滲む。昨晩、どれほど街を駆け回っていたのだろうか。ベッドへ倒れ込むように消えていく姿を見届け、私は心に決める。


「出かけるの?」


出る前に寝室に立ち寄る。まだ眠りにつく前らしく、目を細めたままこちらを見ている。


「うん、森で狩りを試してみようかと」


短弓と手斧を手に取り、寒さ対策のため大きめの外套も羽織る。


「そう、次は一緒に行きたいな」


ルネが少し顎を上げ、目を閉じる。照れくさい気持ちを抑え、唇を重ねると彼女は微かに目を開けた。金色の瞳に何かを訴えかけるような光が宿っている。


「気をつけてね、特に女には」
「分かってるよ、行ってきます」


短いやりとりのあと、軽く笑い合い、私は部屋を後にした。







宿の昇降機に向かうと、制服姿のベルガール、フィアが控えていた。私に気づくと、柔らかな笑顔で挨拶してくる。


「おはようございます。一階ですか?」
「うん、おはよう」


彼女が格子ドアを開けてくれ、中に招き入れる。


「昨日はありがとうね。おかげで今日はよく眠れたよ」
「いえ、そんな……。私も楽しかったですから」


彼女と向かい合い、自然と微笑み合う。しかし、ルネの忠告が胸をよぎり、それ以上の話題は控えた。しばらくすると、昇降機が一階に到着したことを知らせる鈍い音が響く。


「降ります」
「はい」


昨日のような失態を避けるため、落ち着いた口調で述べる。彼女は変わらず優しい笑みを浮かべたが、降りたところで不意に提案が飛び出す。


「あの、よかったら街をご案内しましょうか?」


その申し出に一瞬考え込み、慎重に答える。


「ありがとう。でも……彼女に怒られるので」


困ったような笑みで断りを入れ、宿の出口に向かう。途中、廊下ですれ違う宿のスタッフたちが一様に「ウタ様、いってらっしゃいませ」と声をかけてくる。


「ここじゃ悪いことはできないなぁ……」


小さくつぶやきながら、宿の外へ出た。







外の喧騒が一気に耳に飛び込んでくる。石畳の上を行き交う馬車の車輪と馬の蹄鉄が奏でるリズムが、街に生命を吹き込んでいるようだった。ストーンヘイルの雑然とした喧騒とは異なり、この街にはどこか品のある活気が漂っている。

石畳を渡り、露天が並ぶ一角へと足を向ける。見慣れない野菜や果実が所狭しと並ぶ中、見覚えのあるクロンの実が目に入った。


「クロンの実をひとつください」


恰幅の良い猫耳の店主が、商売上手そうな笑みを浮かべる。


「銀一枚で五つ買えるぜ」
「これでもいい?」


ルネから預かった淡い青色の水晶を手に取り見せると、店主の目が輝いた。


「お、青水晶じゃないか! それなら二つで十分だな」
「ひとつは、猫にあげて」


足元にまとわりついてきた小さな猫が、こちらを見上げてひと声鳴く。それを見て店主が声を上げて笑う。


「ありがとよ!」
「ありがとう。いい一日を」


クロンの実をひとつ購入し、肩掛け鞄へそっと仕舞う。足元にまとわりついてきた猫がもう一度短く鳴き、感謝のような仕草を見せる。ふと微笑みながら、門を目指して歩き出した。

外壁沿いを歩きながら、ふとその黒々とした石材に目をやる。
高さ十メートルを超える威圧感のある外壁。その上には見張りが行き交い、鋸壁と屋根まで備えた頑強な造りがひときわ目立つ。


「明後日には、この壁を越えるのか……」


心中でつぶやきながら、これまで頭の中で練り上げていた計画を思い返す。時間がなければ、救出した仲間を壁の上に投げ上げるしかない――そんな極端な策さえも視野に入れる。しかし、投げられる相手がどう思うかまでは考えない。

やがて、昨日通った門が見えてきた。ウエストポーチから身分証を取り出しておく。


「おはよう」
「お、おはよう。狩りか?」


狐耳の門番が眠たげに目をこすりながら問いかけてくる。身分証を差し出すと、彼はそれを軽く確認し、雑な仕草で「もういいよ」と手を振った。


「はい。そんなところです」
「ちゃんと血抜きしてこいよ。石畳を汚すと罰金だからな」


門番は大げさなジェスチャーを交えて、戯けた笑みを浮かべる。


「それじゃ縛り首ですね」
「似たようなもんさ」


軽口を交わし、互いに笑う。そのまま軽やかな足取りで門を抜けた。







門を出るとすぐに街道から外れ、森の方向へと進む。森の入り口では冷たい風が吹き抜け、木々のざわめきがどこか落ち着きを与えてくれる。


「さて、行こうか。」


目を凝らしながら適度な硬さの枝を探し、まっすぐなものを選んで折り取る。加えて、絡みつくように伸びた蔦もいくつか引き剥がし、腰に巻いた布袋に入れておく。

しばらく進むと、切り株を見つける。高さもちょうど良い。そこを即席の作業台として使うことにした。

まずはクロンの実を取り出し、手斧で固い殻を割る。内側の皮も丁寧に剥き、殻のひとつをお皿代わりにして、皮を敷いた上に実を乗せる。小ぶりのナイフを取り出し、一口サイズに切り分ける。


「博士に見られたら、説教モノだね……」


苦笑しながら、一切れをナイフで刺して口に運ぶ。お米のような風味と甘みが広がる。







次は枝の加工だ。拾い集めた枝を手斧で削り、表面の皮を剥ぎながら形を整える。すでに乾燥しているため、削りやすい。それぞれの枝の癖や硬さを確かめながら、一本、また一本と仕上げていく。

静寂に包まれた森の中で、手斧が枝を削る音がリズムを刻む。その音は、幼い頃に博士と積み木を積み上げていた記憶を呼び覚ます。丁寧に、確実に――その作業が、どこか懐かしく心地よかった。

やがて十五本の矢本体が完成した。




次は矢尻だ。クロンの実の殻をひし形になるように小さく割り、矢尻の大きさに揃えていく。適した十五個を選び、余りは皮袋にしまい込む。手斧を使い、形をさらに整えて簡易的な矢尻を完成させた。

蔦を取り出し、即席の紐を作る。皮を剥き、中の繊維を撚り合わせればすぐに丈夫な紐ができる。それを使って、枝の先に切れ込みを入れた箇所に矢尻を差し込み、しっかりと固定する。

最後に、完成した矢を地面に並べ、それぞれ番号を振りながら特徴を記憶する。枝の微妙な歪みや矢尻の不揃いな形状を記録しておくことで、発射時の動きを予測できるようにするためだ。

羽根すらつけてない全ての矢を矢筒に収め、私は立ち上がった。


「人間では獲物を仕留めれる代物じゃないなぁ」


苦笑いを浮かべながら森の奥へと目を向け、川の上流を目指す。





◇□




一方その頃──



白熊亭の最上階、寝室。

しばらく眠っていたルネだったが、空腹感に襲われ、とうとう目を覚ました。


「お腹空いた……せっかくだから、ルームサービスでも頼もうかしら」


寝ぼけ眼のままベッドを抜け出し、リビングへと歩く。メニュー表を探すつもりだったが、ふと目についた黒いハンドベルに手を伸ばした。何も考えずにそれを軽く振ってみると、澄んだ音が室内に響く。


「便利ね、これで来てくれるのかしら」


程なくして、廊下から呼び鈴の音が聞こえた。ルネは「早いわね」と思いながらドアへ向かい、そっと扉を開ける。


「ご指名ありがとう、子猫ちゃん。寂しくなった?」

「え……?」


目の前に現れたのは、長身で猫耳の女性だった。黒髪に褐色の肌、バキバキに割れた腹筋が露わになった白いシャツに、丈の極端に短いパンツスーツという刺激的な格好。彼女の挑発的な笑みが、ルネの目を釘付けにする。


「ご、ごめんなさい! お腹が空いて軽食を頼もうと思ってて、それで……間違えちゃったみたい!」


ルネは顔を真っ赤にしながら、慌てて謝る。


「ああ、そういうことか。残念だな……君みたいなカワイイ子をいじめられると思ってワクワクしてたんだけど」


耳元で囁くような声に、ルネはますます混乱し、慌ててドアを閉めた。


「本当にごめんなさい!」
「いいよ~♪ 気が向いたら遊ぼうね!」


ドア越しに聞こえる明るい声が、どこか悪戯っぽく響く。ルネはその場にへたり込んでしまった。


「びっくりした……すごい宿ね、ここ……」


ふと視線を落とすと、ルネが先ほど鳴らしたハンドベルには、小さく 「子猫ちゃん用」 と書かれていた。


「……気をつけよう」


そう呟きながら、ルネは深いため息をつくのだった。





□◇






真冬が近づく澄んだ空気の中、背の高い木々が鬱蒼と茂る深緑の森。その中を流れる小さな川のせせらぎが、あたりに静けさをもたらしていた。


「ここは良い水場だね……」


外套に葉をびっしりと貼り付けた狩人が、川の近くでひざをつき、ぽつりと呟く。一本の葉をそっと摘み取り、風を読むように立ち上がると、それを静かに手放した。


「さぁ、風下にいこう……」


そう言い残すと、岩陰へと身を潜めた。自然の風景に溶け込むようなその動きは、まるで狩りそのものが宿命であるかのようだ。

矢を番え、呼吸もしない。わずかな動作すらせず、身体を岩と一体化させた狩人は、待つことのみに徹する。時間の感覚が曖昧になるほどの静寂。森全体が息をひそめる中、ふいに小枝が折れる音が遠くで響いた。



わずかに緊張した声が、囁きのように漏れる。



水場に現れたのは、一頭の巨大なヘラジカだった。優雅な足取りで進むその姿は堂々としており、両端に広がる大きな角が風に揺れる。体高は二メートルを超え、その巨体が森の中でひときわ目を引く。


「……なんて立派な個体なんだ」


狩人は小声で呟いた。その声量は蚊の鳴くほどのわずかさだが、ヘラジカは一瞬こちらを見て耳をばたつかせた。

狩人は息を殺し、身じろぎひとつしない。緊張の糸が張り詰め、機械仕掛けの鼓動が速くなる。ヘラジカが水辺で喉を潤し始めるまで、わずか数秒のはずだったが、その一瞬は永遠のように感じられた。



狩人は、ヘラジカの動きを観察しながら矢を弓に引き絞る。狙いを心臓付近に定め、風の流れを読みながら静かに息を吐く。そして――弓の弦が指から離れ、矢が森の静寂を裂いた。

矢はヘラジカの胸部に命中した。深く刺さったものの、巨体はその場で崩れることなく、驚いたように跳ね上がる。


「やっぱり強い……!」


ヘラジカは力強く地面を蹴り、森の奥へと逃げ出した。狩人は素早く二本目の矢を番え、追跡を開始する。



地面に残された血の跡が、ヘラジカの逃げた方向を示している。足音を殺しながら、狩人は慎重に距離を詰める。逃げた先の茂みで、大きな体が荒い息をついているのを見つけた。

二本目の矢を引き絞り、再び狙いを定める。今度は、動きの鈍ったヘラジカの首元――頸動脈のあたりだ。


弦が放たれる音と共に、矢が的確に命中した。ヘラジカは一声低い鳴き声を上げ、その場に崩れ落ちる。

狩人は息を吐き、ゆっくりと歩み寄った。目の前には、ついに仕留めたヘラジカの巨体が横たわっている。その堂々たる姿は死してなお畏怖を抱かせた。



狩人はそっと手を合わせ、静かに祈りを捧げた。



「ありがとう……あなたの命を無駄にはしない」



手斧を取り出し、血抜きと解体の準備に取り掛かる。森には再び静けさが戻った。


狩人は獲物を前に黙々と作業を進めながら、胸の内に芽生えた確かな自信が、次第に自分を満たしていくのを感じていた。




しおり