第37話 『駄目人間』と『公安の女剃刀』
「それより近藤資金の生データがなぜうちに来ないのか、説明して貰えるかしら?私と嵯峨さんの仲じゃないの。それに私に流すだけなら情報の水漏れが無いのは保証するわ。おそらく『ビッグブラザー』にも知られることはない。それなのになぜ?」
詰問するような調子で安城は嵯峨を見据えている。その鋭い視線は数々の修羅場をくぐってきた嵯峨でさえ一瞬怯ませるものだった。
『公安の女剃刀』それが陰で安城のことを人が呼ぶ隠語だった。秘匿性の高い情報を扱わせることと、特に危険性の高い武装組織への強硬手段の指揮に関しては東和共和国でも彼女の右に出るものは居なかった。
「中佐殿。あれだけだろ?ウチで把握してる資料って……」
嵯峨はようやく執務用の椅子に戻って目の前の決済済みの書類の山をぺらぺらとめくる。彼は決して安城を見上げようとはしなかった。
「諦めろよ、隊長。安城中佐相手に隠し事なんてするだけ無駄だ」
安城が東和共和国屈指のハッカー能力を持つことを知っているランのそんな一言を聞くと、嵯峨は仕方がないと言うように手元にあった紙切れに四文字のカタカナを書き付けて机の端に置いた。
「それで正面からウチのシステムに入れますよ。そこに入ってますよ。ちゃんと見やすいように俺が整理しときました。偉いでしょ」
それを見ると安城は歩み寄ってその紙切れを拾い上げた。安城はまるで欲しかった人形を手に入れた少女のような表情を浮かべる。嵯峨の視線か秀美に釘付けになった。
「秀美さん。今日はこんな紙切れのためだけにこんな豊川くんだりまで来たんじゃないんでしょ?本当の目的、教えてよ」
ランが見ていることに気がつくと、嵯峨はそう言いながら咳払いをして椅子に深く座りなおした。
「そうね。法術特捜部隊の設立に関して同盟司法機関直属の実力部隊としての総意を取り付けようと思って……今度設立させる『法術特捜』の拡張充実の剣、それは早急かつ万全である必要があるということで」
ようやく穏やかな表情に戻った安城が嵯峨を見つめる。
「それなら次の司法局の幹部会にでも……」
嵯峨は期待を裏切られたとでもいうように残念そうな表情で視線を机に落とした。
「あら、いつもそこで居眠りばかりしている人は誰なのかしら?おかげで司法局には無駄飯食いが多いと軍や同盟幹部から突き上げを食らうのはいつだって私なのよ。分かってるのかしら?」
そこまで言うと参ったと言うように嵯峨は両手を頭の後ろに持ってきて苦笑いを浮かべる。
「きついなあ、秀美さんは。あの会議には『ビッグブラザー』の息のかかった連中も出てる。そんなところで何を話したって無駄だよ」
嵯峨のそんな態度に安城は明らかにいらだっているように大きく見せ付けるように息を吐いた。
「パイロキネシス……いわゆる人体発火能力のように以前からのテロ行為とのハイブリッドの攻撃だけならうちでも対応可能かもしれないけど……。戦術的な意図を持って法術を使用してのテロが行える組織が存在するようならうちの手には余るわ」
ここまで言うとさすがに嵯峨も関心がある話なのでそのまま安城を見上げるようにして机の上に頬杖を付いて真剣に聞き入る。
「それにウチはにはここの神前君や嵯峨さん、そして『人類最強』のクバルカ中佐みたいな法術適性上位クラスの隊員はいないのよ。あくまで私のように軍用義体持ちのサイボーグによる急襲作戦が主体……物理攻撃以外を仕掛けてくる相手は手に余るわ」
大きくため息をつく安城を見ながら嵯峨はタバコを灰皿に押し付けて立ち上がる。
「確かに同盟機構の上層部が機動部隊であるうちと対テロ部隊の秀美さんの部隊の設立には積極的だったのは法術の公表の前の話だからね。自爆テロと爆弾テロを組み合わせてるとか、同盟加盟に難色を示す一部の軍部隊の暴走やベルルカンで動いている同盟軍の側面支援とか。そんなことしか頭に無かった偉い人には法術犯罪の専門部門を司法局に新設する必要性なんて感じてないかもしれないねえ」
諦めたように静かに呟く嵯峨。吉田も黙ってその様子を見つめている。
「つまり法術絡みになればうちはお手上げなわけよ。新設される『法術特捜』のフォローは嵯峨さんの所でしてもらわないと困るのよね。たぶん手に余ることが多いでしょうけど」
そう言い切られて嵯峨は困ったような顔をして押し黙る。
「そんな顔しても無駄よ。まあこちらの領分、既存のテロ組織関連の事件ならいつでも引き受けるつもりよ。そこは今まで通り任せておいてくれないかしら」
穏やかな口振りだが、語気は強い。ソファーに腰掛けたランが伸びをすると、困ったような目で安城を見つめる嵯峨の姿があった。いつまでも困った顔を続ける嵯峨に安城は大きくため息をつく。
「先週の同盟司法会議でも柔軟に対応すると言うことでお手伝いが出来るような体制を作るように上申しておいたの見てなかったの?まあ嵯峨さんはまた寝ていたみたいだけど」
寝ていた事実を指摘されるとさすがの嵯峨も頭を掻きながら手にしたタバコの箱を転がすことしか出来なかった。そのまま嵯峨は再びどっかりと椅子に体を預ける。
「だってさあ……頭の固いお偉いさんに具体的な事例も挙げずに戦力強化のお話なんて……結果が見えてるもの。話しをするだけ体力の無駄だと思ってたからねえ」
とぼけたような嵯峨の態度に安城は苛立つばかりだった。