第210話 駄目人間の『逃走宣言』
誠達が出ていくと嵯峨は静かにため息をついた。
「新米社会人は『勝つ』ことしか考えねえんだな……世の中『負け』ばっかなのに……逃げることすら知らねえ実業界や官界を知らない『アホ』が偉いことを言う軍や警察は……変わらねえかな?いつまでも」
嵯峨はそう言って隊長室の机の引き出しに手を伸ばした。
そしてそこから一枚の写真を取り出した。
「『廃帝ハド』……この宇宙の知的生命体すべてから『逃げ場』を奪うことを目的に復活した化け物か……」
嵯峨はそこに写っている二十歳前後に見える長髪の美男子を見つめてそう言った。嵯峨もまたそのくらいの年齢に見えるので、その光景は極めて奇妙なものに見えた。
「人間は逃げていいんだよ。俺はできねえけどランはいつでも逃げられるよ。死なねえし、『跳べる』からな。この130億年かけて育った宇宙の外の食い物と空気がある『別の世界』に逃げられるんだ……ランはね」
そう言いながら嵯峨は頬杖を突く。その面差しには少し寂しげな表情が浮かんでいた。
「でもな、ランはもう逃げたくないって言うんだ。あいつは逃げるのはもうこりごりだって言うんだ。そのために『体育会系縦社会』のうちの伝統を作ってぶっ叩いて部下を育てて『逃げる必要のない』世の中を作りたいっていうんだよ……どう思う?すべてを支配しようとする『不死の王』さんよ……」
嵯峨はそう言うとポケットからタバコを取り出した。
「あいつも俺も死なねえんだ。死にたくても死なねえんだ。あの世に逃げ出すっていう人間本来の逃げ方すらできねえんだよ」
タバコに火をつけながら嵯峨はほほ笑んだ。
「『不完全な生き物』だな。終わりがあるから生き物は生きているって言うんだ。この宇宙が始まって130億年。でも俺達遼州人はどうやらその前に『始まりの鎧』に導かれて他の宇宙からこの宇宙に来てしまった、哀れな『死ねない』知的生物みたいなんだわ。俺もアメリカ陸軍に『実験動物』にされている間、何回死んでるかわからねえくらい死んでるが……今でも死にきれずにこうして『特殊な部隊』の隊長をやってるんだわ」
煙が隊長室に充満する。嵯峨はなんとも困った表情で写真の若い男を見つめた。
「俺はたった四十六年しか生きてねえんだ。『廃帝』さん……お前さんは200年生きてるらしいな……でもな、この宇宙のひ弱な生き物はそれ以下の寿命でも満足して死んでいけるんだ。俺やランやあんたみたいな『不完全な生き物』では無くてちゃんと死ねる生き物なんだ。うらやましいな『死ねる』ってことは。終わって責任を次の世代に繰り越せるんだ。うらやましいんじゃねえのかな、あんたも」
嵯峨はそう言ってほほ笑んだ。その微笑みに悲しみが混じっていることは彼の『不死』の宿命からしてあまりにも当然の話だった。
「死ねてはじめて『人間』なんだ。昔、ゲーテとか言う詩人が、俺やランみたいに死ねなくなった『ファウスト』博士と言う人物を描いた詩を書いたんだ。博士は『世界は美しい』と言えれば死ぬことができた。そして、博士は望み通りに心からの言葉としてそう言って死んだ」
そう言うと嵯峨は静かに写真を目の前にかざした。
「俺は言いたいね、『世界は美しい』ってな。そして、静かに終わりたい。世界が美しくない限り、生き物が逃げられる宇宙を作りたいんだ……それを阻むお前さんや『ビッグブラザー』に言いてえんだ……」
嵯峨は静かに正面を見据えた。
「俺は逃げ場を作り続ける!永遠に撤退戦を戦い抜くつもりだ!そのためにこの部隊を作った!俺は……永遠に『逃げる!』」
そんな嵯峨の宣言はむなしく隊長室の『駄目』な雰囲気に呑まれていった。