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アイシュタルトの夢

「ほら、宿に着いたから。今夜はもう寝ろ。アイシュタルトは無理をしすぎるんだ」

 部屋の寝台に横になった私を見下ろしながら、ルーイがきつい口調で声をかけてくる。

「アイシュタルト、何か飲みますか? 食べますか? 温かいものを頼んできますよ」

「ステフ、スープみたいなやつもらってきてくれ。それなら、少しは食べやすいだろ」

「うん。少し待ってて」

 ステフが部屋を出ていくと、ルーイは私の枕元に椅子を寄せてきて座った。

「どうした? 疲れただけじゃねぇだろ」

「疲れ……ではないな」

「何があった? シャーノのことか?」

「シャーノ……いや、コーゼか……」

 ルーイの問いかけに、少しずつ答えていく。姫のことをどう伝えるか、まだ心が決まっていない。この様に答えていって、勘の鋭いルーイに気づかれでもしたら。表情の隠せない私は、すぐに気づかれてしまうのではないか。

「どっちもか。俺はシャーノについてもコーゼについてもよく知らない。アイシュタルトが抱えてるものも、わからない。騎士様と話すのだって、アイシュタルトが初めてなんだ」

 そう言うと、ルーイは少し考えこみながら、言葉を続ける。

「だから、俺じゃあ代わってやることなんてできない。だけど、聞いてやることはできるから。いつだって、何だって、話したくなったら話せば良い。今は無理せず休め。飲めるならスープを飲んで、ゆっくり寝れば良い。明日は一日寝てたって良い。どうせひと月かかるんだ。一日ぐらい休んだって、何も変わりゃしない」

「だが……」

「ステフとの訓練のことか? あいつだって疲れてるよ。明日は休みにしてやってよ。疲れた身体でやったって、まともな訓練にならないだろ?」

「それもそうか」

「な。明日は休みだ」

 ルーイの言葉に、自分が何故か焦っていた様に思う。追われていた様な、急いでいた様な、何を慌てていたのだろうか。

「兄さん。スープ、もらってきたよ」

「悪りぃな……でも、たぶん、もう……」

 横になりながら、二人の会話が遠ざかっていくのがわかる。いや、二人が遠ざかっていくのではない。私の意識が遠ざかっていったのだ。

 その夜は珍しく夢を見た。最後にクリュスエント様を湖に連れて行った時の夢だ。私の目の前には、あの金色の髪が、鼻の奥にはあの香水の香りが、現実なのではないかと錯覚するほどに鮮明に現れる。
 夢の中の私も、姫の結婚するというお言葉に、苦々しい顔をして耐えていた。夢の中でまで我慢する必要はないのに。
 姫をさらって逃げれば良いではないか。ここまで、カミュートまで逃げてしまえば、コーゼへなんて送り出さずとも良いのではないか。
 姫を連れ去ってしまおうと、手を伸ばす。重い体で必死に立ち上がり、やっと手が届くかと思った。途端に夢の中の姫がふわふわと宙を舞っていく。

 あぁ。もう、私の手は届かない。姫に手が届くことはない。その事実を再び突きつけられた。

「はぁっ! はぁ……はぁ」

 夢の中の辛さから逃れようと、急いで目を開ければ、全身から汗が吹き出していた。息苦しさに、肩で息をする。
 やはり、姫を忘れることなんてできない。一度思い出してしまえば、またその想いに囚われるのだ。
 この辛ささえ、姫への想いの証なのだとしたら、私はいくらでも耐えてみせる。

 もう、無理して忘れようなどとは思わない。このように遠い場所で、私のような者が姫に想いを寄せていたって、誰に迷惑がかかるのだろうか。
 しがない元騎士が、他国の王妃を慕っていたとして、誰に文句を言われようか。

 私はもう、私の心に嘘をつくのはやめにしよう。

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