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第157話 逃げることの意味

 運用艦『ふさ』が出港してから一週間。予想通り誠はひたすら『吐き気』との格闘して医務室に寝たきりだった。

「誠さん。もう出かけても大丈夫ですよ。ドクターもそう言っていました」

 かわいらしいカーリーヘアーをなびかせながら艦所属の見慣れない看護師達と誠の介抱に当たっていた神前ひよこは、狭苦しい病室に閉じ込められて退屈していた誠にそんな優しい声をかけてきた。

「そうだね。胃もだいぶ軽くなったし……ちょっと出かけてくるよ」

 誠は心から優しいひよこの言葉に感動すら覚えながらベットから起き上がった。

 ベッドに縛り付けられて慣れない低重力の中吐き続ける毎日。そんな一週間を過ごした誠は何とかその誠にとっては天敵の低重力状態に慣れてきて、医務室から出た。そして気分を変えて得意の絵でも描こうと『展望ルーム』にたどり着いた。

 巨大な窓の外には果てしなく続く『宇宙』があった。

 そこに置かれた長いベンチに、この『特殊な部隊』の隊長の『やけに若く見える駄目中年、四十六歳、バツイチ』、嵯峨惟基特務大佐の姿を誠は見つけた。

「おう!神前!大丈夫か……って大丈夫じゃなさそうだな」

 嵯峨は手を振って広い展望ルームの端から誠に声をかけた。誠は食事ができないので受けていた右腕の点滴の跡を気にしながら、タバコをふかしている嵯峨のところに歩いて行った。

「何とか慣れてきました。でも、隊長。ここはタバコを吸っていい場所なんですか?」

 そんなひねくれた誠の問いを嵯峨は完全に無視した。

「いいじゃん。俺の『特殊な部隊』なんだから。それより、神前。結局逃げずに乗ったんだ……この(ふね)に」

 嵯峨の呆れたような口調の言葉の意味を理解して、誠は嵯峨以上に呆れた。

「自分の部下に『乗ったんだ』って……逃げればよかったんですか?」

 完全に自分が『逃げる』ことが前提で話している嵯峨にそう言って抗議した。

「逃げるってのは勇気がいるんだよ、実際。意気地なしは逃げられないの。すべての人生をリセットする覚悟の無い『子供』は逃げることができないわけだが……神前は自分の行動に責任が持てる『大人』だから逃げればいいじゃん。宇宙酔いに弱い上に元々パイロット向きじゃないことは分かってるんだから俺達の戦いに付き従う義理はお前さんにはねえよ」

 嵯峨はタバコをくわえてそう言って誠を見つめた。その目は完全に誠を馬鹿にしていた。

「僕の逃げ道は全力で潰す……って言ってませんでしたっけ?そんな話クバルカ中佐がしてましたよ」

 自棄になった誠はそう言って嵯峨をにらみつける。

「神様じゃねえからな、俺は。できることとできないことがある。お前さんが本気で逃げたらどうにもならねえよ。今からでも『逃げたい』なら、東和共和国のアステロイドベルトにある基地にでも送ろうか?」

 そんなふざけたことを誠に言う、嵯峨の目は完全に死んでいた。

「逃げません!僕は社会人です!ちゃんと与えられた仕事はします!」

 『脳ピンク』の『駄目な喫煙者』である嵯峨から目を逸らした誠は、その視線を外に向けた。

 誠は大きな窓の隣の表示板に目をやった。

 そこは、この外の景色が遼州第二惑星『甲武』付近だと表示されていた。

「社会人でも逃げるときは逃げていいんだよ。お前さんが逃げた結果、俺達『特殊な部隊』の面々が死のうがどうしようが関係ねえじゃん」

 嵯峨はそんな独り言を言って静かにタバコをくゆらせていた。

「まるで僕に逃げてほしいみたいなこと言うんですね」

 誠は嵯峨とは目を合わせずに外の小惑星を眺めていた。

「人間はね、生きていればなんとかなるの。命がある限り何回でも『生きなおせる』の。ただ、すべてを捨てて逃げ出すときにはこれまでの貯金をすべて『チャラ』にしなきゃならねえんだ。それはかなり勇気のいる話だよ。そんなことをできる人間を俺は尊敬するね。『お釈迦様』や『西行法師』じゃなきゃできねえ大した偉業なんだよ、本気で逃げるってことは」

 『お釈迦様』は誠も家の宗旨が『真言宗智山派』なので知っていたが、『西行法師』と言う人物の名前は誠の記憶には無かった。

「逃げることが『偉業』なんですか?」

 戸惑いながら誠は喫煙中の嵯峨の顔を覗き込んだ。

「そうだよ、逃げることは『偉業』だよ。無茶な戦いから逃げずに戦えば『あの世』に逃げることができるんだ。でも、決戦を避けて逃げてもいずれは本当の『戦い』がそこに訪れる。結局、人間逃げきれねえもんなんだな。だからお前さんも俺達が危ないようなら迷わず逃げな。俺達はお前さんを責めないよ」

 誠の視界の中で、嵯峨はそう言ってほほ笑んだ。

「隊長達を見殺しにしても怒らないってことですか?」

 自分を卑怯者に仕立てようとする『特殊』な部隊長に向かって誠は自分の疑問をぶつける。

「そうすれば、お前さんは俺達みたいな『特殊な馬鹿』のことを覚えていてくれる。死んだあとにそう言う人間がいてくれるなら、俺達みたいな馬鹿は安心して死ねる……まあ、今回の俺達は死ぬのは無しみたいだな。それより人を殺しそうだ」

 誠の顔を真正面に見てそう言った嵯峨の目は少しうるんでいた。

「すまんな、ちょっと昔のことを思い出してな……逃げて意味のある奴は逃げるべきだ。お前さんも逃げることに意味がある」

 珍しく慌てた様子の嵯峨を見て、誠はどこか親近感を感じていた。

「隊長。僕は逃げません!」

 誠はそう言ってこぶしを嵯峨に突き付けた。

「そうかい、臆病なんだな」

 意表を突いた嵯峨の言葉に誠は再び言葉を失った。

「逃げる方が臆病者です!」

 当たり前の自分の言葉を聞きながら、嵯峨は目を逸らしてタバコを床に押し付けて火を消す。

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