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第30話

 海の中に入るのはもちろん初めてだった。しかし生まれて初めての感覚とは少し違うような気がしていた。
 そう、レイヴンがいつか説明してくれたように、オリュクスは生まれたての頃、濃い霧の中を『泳いで』いたのだ。
 その時自分が何を思い何を目指しどこにどのように進もうとしていたのかはわからない。憶えてはいない。
 けれど今、この粘度の強い大量の水という物質に包まれていると、自分の中の何かが『それ、前足で掻け』『後ろ足もたゆまず蹴り続けろ』と命じてくるのだ。
 地上で走るのとはまったく要領が違う。体を動かそうとするとどえらい抵抗がかかる。だがそれでももがく。前に進むんだ! そして──
 先に飛び込んだカニクイアザラシは、斜め上に向かって迷いもなく浮上していく。かと思うと不意にくるりとオリュクスの方へ振り向く。見ると彼は、泳ぎながら大きく口を開けていた。そして彼の前足──というのか、ヒレのようなもの──を、まるで早く来いと呼ぶかのように、ぐいぐい自分の方に向けて振る。
 オリュクスは見よう見真似で泳ぎながら大きく口を開けた。そのままカニクイアザラシについて浮上していく。
 氷の下にはたくさんのナンキョクオキアミたちが存在していたが、オリュクスは海水と一緒にそれらが口の中に入って来るのを感じた。
 うわっ。
 思わず口を閉じる。
 カニクイアザラシは踊るように向きを変えて、水面までそのまま上がっていく。
 オリュクスも必死で続き、やっとのことで海面から顔を出した。思い切り息を吸う。その拍子に、さっき口の中に捉えた海水とオキアミ群を、ごくんと丸呑みしてしまった。
「ぶしゅーってした?」カニクイアザラシが氷の上から顔をのぞかせてそう訊く。
「うーん」オリュクスは首を傾げながら氷の上によじ登った「よく、わからなかった」
「オキアミは、食べた?」カニクイアザラシも首を傾げて問う。
「うん」オリュクスは頷いた。「なんか、水と一緒に全部飲み込んじゃった」
「水は、吐き出すの」カニクイアザラシは氷の上を這うように移動しながら種明かしした。「歯の間から、ぶしゅーって。水だけ」
「あ、そういうことかあ」オリュクスはやっと合点がいった。「水だけ吐き出して、オキアミだけを飲み込むんだね」
「うん」カニクイアザラシは頷いた。「水は飲まない」
「ぼく、飲んじゃった」オリュクスは少し残念に思った。「オキアミの味がよくわかんなかったよ」
「すぐに慣れる」カニクイアザラシは元気づけるように言った。「もう一回行く?」
「いや、今日のところはここまでにしよう」答えたのはオリュクスではなくレイヴンだった。「いいね、オリュクス」
「はあい」オリュクスはまたしても残念に思ったが、あまりレイヴンに心配をかけてはならないな、と、ようやくそのように考え始めるに至ったのだった。
「それはそうと、カニクイアザラシさん」レイヴンは話を切り替えた。「君は、タイム・クルセイダーズのことを聞いたのかな?」
「ん」カニクイアザラシは頷いたが、オキアミの話をする時ほど積極的には見えなかった。「なんか、聞こえた」
「そうか。じゃあ、我々が探している仲間のことは?」
「──」カニクイアザラシはレイヴンを見ていたが、ちらりと視線を空に向け、それからちらりと海面を見下ろし、さらにちらりとオリュクスを見てぱちぱちと瞬きをした。
「ああ、ごめんよ」レイヴンは申し訳なさそうに言葉を挟んだ。「何も知らないならそれでいい。オキアミのことをオリュクスに教えてくれてありがとう。それじゃあこれで」
「わな?」カニクイアザラシは不意にその言葉を告げた。
「──」今度はレイヴンの方が黙った。遠ざかろうとした殻を止める。
「わなに、かかった?」カニクイアザラシはそう続けた。
「──え?」レイヴンは慎重に話を聞こうと思い直した。「罠に? 誰が、だい?」
「えとね」カニクイアザラシはもう一度空を見上げ「レイヴン」と答えた。
「──」レイヴンはまっすぐにカニクイアザラシを見ていた。「ぼくが?」
「誰が言ってたの?」オリュクスが、助け舟を出すように質問した。
「あのね」カニクイアザラシはオリュクスを見た。「ファーシリア」
「ん?」それはオリュクスの知らない名だった。「それ、誰?」
「オキアミの幼生か」レイヴンが言った。「驚いたな。オキアミたちまでが海中で情報伝達をしているのか」
「それは、美味しいの?」オリュクスが訊く。
「ううん」カニクイアザラシは首を振る。「食べたことない。食べられない」
「へえ、そうなんだ」オリュクスは目を丸くする。
「で、そのファーシリア幼生たちは、何故ぼくが罠にかかったと言ってるんだい?」レイヴンがいちばん知りたいことを訊ねる。
「えとね」カニクイアザラシはそこで初めて、まるで全力を駆使して考えているかのように、目を強く閉じ顔をしかめた。「──」しかし次の言葉はなかなか出て来ない。
「タイム・クルセイダーズが、関係しているのかな?」レイヴンは、相手に負荷をかけないようそっと慎重に問いかけた。
「んとね」カニクイアザラシはさらに言い、それからぽん、と音を立てんばかりに目を大きく見開き「双葉がぷんすか怒ってたって」と告げた。
「双葉が──」それは恐らく、コードルルーのことだ。
「うん! じゃあね!」カニクイアザラシは次の瞬間どぶんと海中に飛び込んだ。
「あっ、あの」レイヴンが呼び止める声を、
「またね!」オリュクスが元気よく遮る。
 共にオキアミを食らった同士が互いの前足と鰭で再会を祈りつつ別れを告げる間、レイヴンは肝心なことを聞きそびれた無念を噛みしめるしかなかった。
 レイヴンが罠にかかり、コードルルーがぷんすか怒る──
「一体、何がどうなっているんだ?」レイヴンは混乱した。
「レイヴン、コスとキオスの所に行こう。きっと心配してるよ」オリュクスが促す。
 レイヴンは海の中にこそ入らずにいたが、ひどく苦いものを喰らわされるような気分になった。ああ、ナンキョクオキアミなんて大方こんな味なんだろうよ──彼は心の中だけでそう決めつけてやることにした。

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