ウチの学校は二期制なので、12月ではあるが成績表を生徒に渡すようなことはない。
一応冬休み用の課題は、数学や英語など受験に関係するような科目では出されることもあるようだが、副教科である僕の担当科目では、そういうものを出すことはまずないと言って良い。
合唱部は地域のイベントに出演するとかで、最近はその練習が熱心に行われているが、コンクールではないため、前回のように何か指導をして欲しいというようなことはいまのところ言われていない。
そういうわけで、他の教科の教師たちよりは幾分年末は余裕がある方ではあるだろう。だからこそ、浅間と二人で、音楽室でクリスマスパーティーにもならないささやかなことをできるのだ。
「飲み物は準備室のコーヒーかココアでいいだろう。あとは、まあ、一応ケーキっぽいものを……」
授業の空き時間を利用して、学校から最寄りのコンビニへ出向き、ささやかなパーティーの準備をする。
高校生だからやはり何かと食べ甲斐がある、ボリュームのあるラインナップがいいだろうか? ココアとコーヒーだけじゃ物足りないだろうか? そんなことを考えながら、スナック菓子の他にそっとパック詰めのカットケーキを籠に入れる。
イチゴの載った生クリームのショートケーキを見ていると、それを手にした浅間の喜ぶ顔を想像してしまう。
数か月補習とレッスンをしてきて気づいたのだが、クールで歳よりも大人っぽく見える外見と違い、浅間は案外子どもっぽい好みをしているようなのだ。
例えばコーヒーよりも甘いココアが好きだし、ミントタブレットよりも甘いロリポップキャンディを選ぶこともある。
「ウチさ、洋食屋やってんだよね。父さんが作るハンバーグは世界一美味いよ」
いつだったか、そんな話をしていたのを、学校に戻る道すがら思い出す。
最近の子どもは反抗的な態度を取るよりも、親と友達のように仲がいいとよく聞くが、彼のように恥ずかしがることなく親の味を誇っているケースも珍しいんじゃないだろうか。
両親が苦労して店を切り盛りしている姿を知っているから、多少荒れた時期があっても幼い弟の世話も買って出るし、親が作る料理を何のてらいもなく美味しいと言えるのかもしれないけれど。
「そういう素直さが、彼のいい所ではあるんだろうけれどな……」
見た目がクールでチャラく見えてしまう分、素直でまっすぐな部分が際立って目立ってしまう。そのギャップが、僕の中のあの浅間と初めて出会った夜以降ふたをしている感情をつついてくる。
つついてくる刺激が何を意味しているのか、僕は知らないわけではない。経験こそないけれど、無駄に浅間より歳を取っているわけではないから、自分の中で起きようとしている変化がわからないわけではない。
わからないわけではないけれど、真正面からとらえてしまってはいけない。何故なら、僕は教師で、浅間は僕の教え子なんだから。
冷たい木枯らしが頬を撫でていき、首をすくめる。目の前には賑やかな生徒の声が聞こえる僕の職場である学校の校舎が見える。
この中に彼がいて、あまたいる教師から僕を好きになったと言ってくる日々。
「……なんで、僕なんだろうな」
この奇妙な関係のきっかけとなった、ただの物珍しさゆえのからかいだと思っていた浅間からの告白の言葉に、いつのまにか僕は囚われているのか、あの放課後の出来事を振り返ると最近胸が痛む。
キスされそうなほどの距離で見つめられ、好きになったと言われたあの放課後から、僕の中は多かれ少なかれ浅間の影がちらつかない日はなくなってしまった。
その現象に、名前を付けていいはずがないのはわかっているのに。
職員玄関を抜け、そのまま管理棟4階南の音楽室を目指す。
タイミング的に、そろそろ浅間が音楽室に来る頃だろうから、その前に帰り着いてケーキを用意しておいてやろうかと考える。
お菓子と飲み物だけでいいとは言っていたが、やはりケーキがあった方が、クリスマスらしくなって喜ぶかもしれない。その顔を、なんとなく見たくなってケーキを買ってしまった。
「……なにやってるんだろうな、僕は」
自分でも何だかガラでもないことをしているなという自覚はある。たかが生徒と少し歓談するだけのはずなのに。
廊下には授業を終えて教室に戻っていく生徒の群れがのろのろと歩き、僕はそれを追い抜いていく。
いままでであれば、生徒の制服が着崩れていないかチェックしつつ、指摘しながら通り過ぎていたのに、今日はそんなことも忘れて足早に通り過ぎていく。
「え? いまのこずえちゃん?」
「だよね? こずえちゃんが制服チェックしなかったんだけど」
「そんなことってある? いつもならすっごく細かくチェックしてくるのに」
通り過ぎた女子生徒たちの話し声を聞き流せるくらい、彼女らが気にならないのは、やはり今日の僕はどこか浮かれているのかもしれない。
自分がゲイだと気付いてどれくらい経つだろう。それから今までの間、僕は誰かとクリスマスをはじめとするイベントごとを、誰かと過ごしたことがない。元来真面目過ぎる性格が災いして、片想いしかできず、想いを告げることさえできなかった。
教師という職に就いてからそれは一層拍車がかかり、ようやくマッチングアプリで見つけた相手があの夜の男で、そしてあの時も大失敗に終わった。
でもあの一件がなかったら、僕は浅間という生徒からはっきりとした好意を向けられることはなかっただろう。いつから彼が僕を好きだと思っていたのかがわからないけれど、少なくとも僕が知ることはなかった。
浅間からは惜しげなくという言葉がぴったりなほどまっすぐに好意を向けられているのがわかるし、好かれて悪い気はしないのが正直なところだ。
――じゃあ、僕はどうしたいんだろう?
4階へと続く階段を昇る足取りがゆっくりになり始め、立ち止まりそうになりながら僕は考える。
僕は教師で、浅間が生徒である事実は変わらない。それを踏まえていてもなお、浅間は僕を好きだという。
浅間に好かれていることが悪くないと思うなら、僕は、教師としてではなく、ひとりの人間として彼とどうなっていきたいんだろう。
「僕は、彼と……」
あと数メートルで音楽室の入り口が見えてくる踊り場に足を踏み出して見上げた時、入り口に佇む浅間と――ひとりの女子生徒の後ろ姿が見えた。
ただそれだけしか見えていなかったはずなのに、僕は反射的に身をかがめ気配を消した。一瞬感じた二人が|醸《かも》す気配が、微かに誰も近づけさせない秘密めいたものを帯びていたのを察してしまい、反射的にそうしてしまったとも言える。
音楽室は僕の管轄なのに、まるで僕の方が忍び込んでいるかのような状況だ。
こんなところで一体何を……と、二人の様子を窺っていると、「用って何?」と、浅間が切り出したのが聞こえた。
「えっと、浅間君ってクリスマスとか冬休みとかどうするのかなって思って」
「冬休みはほぼ家で過ごすよ。色々やることあるから」
年末年始の洋食店は書き入れ時だろうから、浅間もきっと手伝いに駆り出されるのだろう。
しかし浅間ははっきりと家の手伝いをする話をせず、妙に相手に期待を持たせるような言い方をする。
案の定女子生徒は、「じゃあ、初詣とか一緒に行かない?」と、食いついてきた。
浅間はその食いつきにどういう顔をしているのかがわからない。わからないが、イヤな顔はしていないのだろう。現に、「いいけど」というまたもや期待をさせるような言葉を返しているのだから。
浅間がどういう返事をしようとも彼の自由であるはずなのに、ただそれだけの言葉を彼女に向けていることに何故か苛立ち始めていた。
「ホント?! よかったぁ、嬉しい! 浅間君、誰かと付き合ってるとか噂あったから」
「べつに付き合ってるとかはないよ」
「そうなの? 付き合ってる人いないの?」
浅間が彼女の言葉に肯く気配がし、一層僕は苛立っていく。
いまここで階段を上がっていて、二人の会話の邪魔をする事もできるはずなのに、僕の足は階段に張り付いたように動かず、壁に溶け込んだかのように気配を発していない。まるで、二人がかわす言葉のすべてを盗み聞きしようと待ち構えているかのようだ。
どうしてそんな下劣な真似を……自分で自分の行動と感情がわからず戸惑いを覚える僕の耳に、次の瞬間心のどこかでは予期していた気がする言葉が飛び込んできた。
「あたしね、浅間君が好きなの。初詣だけじゃなくて、もっといろいろ一緒に出掛けたいから、あたしと付き合って欲しいな」
放課後のひと気のない音楽室の前で男女が二人きり。傾き始めた夕陽の演出もあって、これ以上にない雰囲気の中での告白シーンに、明らかに邪魔なのは僕だ。
だからそっと、ようやく動き始めた手足を、ぎくしゃくと音を立てないように動かしながら階段を下りていく。
その際一瞬だけ背後を振り返ると、彼女と見つめ合っている浅間の姿が見えた。その顔は、僕には見せたことがない甘いもので――僕は、その瞬間自分が始まりもしない恋をなくしたことに気づかされた。
「そっか、ありがとう」
そう、浅間は言った気がする。いつも無邪気に僕を「こずえ先生」なんて呼ぶ、「こずえ先生が好きなんだよ」なんて笑いながら言う唇で、嬉しそうなやさしい声色でそう言った気がする。
浅間の言葉を聞いた瞬間、僕はそれまで忍ばせていた足音も構わず階段を駆け下りて行った。
浅間たちに気づかれたかもしれないけれど、構わなかった。きっともうそんなこと、二人の世界に入ってしまっている彼らにはどうでもいいことだろうから。