「放してください! 僕はそういうつもりはないんですから!」
終電間近の深夜のラブホ街の入り口で、僕は辺り構わず大声をあげる。いままさにすぐそこのラブホに、僕よりも体格のいい男から引きずり込まれそうになっているからだ。
「じゃあどういうつもりいままで俺といたんだよ? 今更ぐちゃぐちゃ言うなよな」
体格のいい彼を大声で拒む小柄な僕は、誰か通りかからないかと辺りを見渡す。しかし道を行きかう人影はまばらなようで、大声を上げてもさして効果はない。そもそもこういう所を出入りする人間に、まっとうな正義感を期待する方が間違っているのかもしれない。
「おら、いいから中入るぞ!」
「手を放して! ヒトを呼びますよ」
「呼べるもんなら呼んでみろよ。こういう場所にさ。そもそも俺的には付き合ってるんだから、べつにいいだろ、ラブホでヤるくらい」
確かに、僕・|春日井梢《かすがいこずえ》と、いま僕の腕を強引に引っ張っている彼とは、恋人同士だと思っていた。でもそれはつい30分前までの話だ。
僕は私立高校で教師をしているため、男が好きであることを公にしていない。自分の家族にさえ伝えていないし、もちろん友達にも伝えていないし、仲間も身近にいない。いわゆるクローズドゲイだ。
そのせいか僕は、性行為はおろかキスさえ26歳になるいまになっても経験が全くない。一方的な片想いくらいだ。
欲求が全くないわけではなく、機会がなかっただけなので、数か月前思い切ってゲイ専門のマッチングアプリで相手を捜し、出会ったのが彼だった。
「お前、マジで26? めっちゃかわいいよな。俺ショタもイケんだよねぇ」
そう言いながら、知り合ってすぐに頻繁にボディタッチしてきたり、それでなくとも、強引にキスを迫って来たりすること、なにより、大人として子どもを性的な対象に見ている点も許せなかったし、それに、僕を「お前」呼ばわりすることがものすごくイヤだった。
いかにもそういう、“ヤリモク”と思われる態度を受け入れられない僕と、そんな僕の態度に腹を立てた彼との間で|齟齬《そご》が生じ、散々もめた末に無理にここに連れてこられたのがいまなのだ
「いい歳して、もったいぶるようなもんでもんでもないだろ。さっさと気持ち良くなりに行こうぜ」
「だから! 僕はあなたとセフレになりたいわけじゃない!」
お世辞にも筋肉があるとは言えない|痩身《そうしん》を懸命に捩って抵抗しても、相手には何のダメージも影響もないようで、構わずずるずるとラブホの中へと引っ張られていく。
このまま連れられるがまま中へ入ってしまったら、彼に何をどうされるかわからない。下手に抵抗したら、職場に暴露するとまで言うんじゃないだろうか。そんな不安で頭がいっぱいになる。
あと一歩でラブホの敷地に入ってしまう――そう、思っていたその時、マッチングアプリの彼に腕を牽かれていた僕を、彼から引き剥がす何かが僕らの間に割って入ったのだ。
「やめろよ、おっさん。相手が男でも無理矢理こういうとこ連れ込むの、どうかと思うぞ」
僕を彼から引き剥がしたそれは、身長160センチ僕よりも背の高いすらりとした涼し気な目許の、ストリート系のファッションをしたショートヘアの若い男だった。
若い男は、僕をマッチングアプリの彼から引き剥がして自分のそばに寄せ、軽くにらみ付ける。
おっさん、と言われた彼は、その言葉にも邪魔に入られたことにもムッとしてにらみ返しているが、若い男は怯まない。
「なんだよ、俺らは付き合ってんだよ。邪魔するんじゃねーよ」
「恋人同士ならなおさら相手の同意を取らなきゃだろ。そもそもこの彼はあんたとは付き合ってる気はないみたいだけど?」
一見チャラそうに見える若い男から、そうなんだろう? と、至極まっとうな問いかけをされたので、僕はそのギャップに驚きながら、その通りだと言うように強くうなずく。
「僕はもう彼とは別れ話をしたし、何の関係もない。だからこういうところに行く気もさらさらない」
「んだと……!」
僕のきっぱりとした言い分に、マッチングの彼は顔を赤らめて掴みかかろうとしてきたが、それをさらに若い男が制するように押し返してかばってくれた。
マッチングの彼はカッとさらに顔を赤らめ拳を振り上げてくるも、若い彼はなおも怯まずこう返した。
「ケンカなら買うけど、俺、強いよ? ボコボコにされても良いならどうぞ」
涼し気な目許と大きな口の端を片方あげ、笑いながら大きな骨っぽい拳を差し出してくる姿がまとう余裕ある雰囲気に、もはや勝敗はついていた。
突き飛ばされた彼は、体格はいいけれど若い彼よりも上背が低いせいか迫力に欠け、見下ろされている内に振り上げかけた拳をゆるゆると下ろし、背を向けてしまった。
「くっそ! お前みたいなブス、こっちから願い下げだ!」
悔し紛れとしか思えない悪態をついて、マッチングの彼は僕を若い見知らぬ彼と置き去りにして去っていった。
歓楽街の灯りにその背中が消えてしまうと、僕はようやく安堵の息を吐けた。
同じく僕を助けてくれた彼もひと安心した様子で、小さく息を吐いている。
すらりと背が高く、細身ではあるものの、決して骨と皮だけではない彼の目許はクールと形容できるほど涼しげで、先ほど片頬をあげて笑っていた大きな唇が印象的だ。
(結構、カッコいい人だな……)
僕は基本的に一目惚れをしやすいタイプではない自覚はあるのだけれど、それでも彼は僕に魅力的に見える姿をしていると思えた。
だからなのか、街明かりに縁どられている横顔に見惚れるようにぼうっとしていたら、不意に彼はこちらを振り返り、先ほどマッチングの彼に向けていたようなきついにらみを利かせてきてこう言ったのだ。
「ガキみたいな顔してるくせに、こんなとこでこんな時間にうろうろしちゃダメだろ。それとも、もしかしてウリとかやってたりするのか?」
「……は?」
ほんのつい一瞬前まで見惚れていた彼が、途端に僕に説教を始めようと言う構えを見せる。それも、僕を未成年と勝手に断定して。
確かに僕は教師ではあるのに生徒に間違われる程小柄で、輪郭も丸いし目許も涼し気と言うよりくるりと丸いせいで童顔の自覚はある。だからこそ、26にもなってこうやって頭ごなしに子ども扱いされるのがとても腹立たしい。
「た、助けてくれてどうもありがとう。生憎だけど、僕はこう見えてれっきとした大人で、26歳にな……」
「だったらなおのこと気を付けたらどう? いい歳してガキみたいに無防備にしてるからあんなヘンな奴に目を付けられるんだよ」
「……ご忠告どうも」
一理ある彼からの言い分に僕が内心イライラしながらも平静を装って返すと、彼はくるりと背を向け、さっきマッチングの彼が去っていった方向とは逆の道を歩き始める。
「じゃーな、気を付けて帰れよ」
「君もね」
ギリギリ感情を抑えつつ言い返すと、彼はちらりと僕の方を一瞥し、片頬を挙げるようにまた微笑んだ。その含みのある笑顔に僕は一瞬たじろぎ、更に何かを言い返すこともできないまま彼の背を見送る。
街明かりに照らされ紛れるように見えなくなった背中と、あの含みのある笑顔にどこか見覚えがあるような気がしつつも、僕は子ども扱いされた苛立ちの方が勝ってすぐに忘れてしまったのだ。
ピンク色のネオン街で、それこそ内心は子どものように、地団太を踏みたくなるほど腹を立てたこの夜の彼との出会いが、のちのち僕に大きく関わることになるなんて……その時は思ってもいなかった。