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304 ジンの契約

 「聞こえる……なにが?」

 アブドが、男に問う。

 「……この国で、生の楽しみを享受している者達がいる中、それに埋もれようとしている、苦しみに喘ぐ人々の声」
 「……」
 「あなたには、ずっとその声が、聞こえているはずだ」
 「!」

 ――スッ。

 男はゆっくりと、目を開けた。

 「もともと、あなたも、そちら側にいた人間でしょう。苦しみの中に生き、それを克服するすべも知らず、呪い、世界の現状をすべて否定していたのでしょう?」
 「……フッ。なにを、知ったようなことを」

 アブドは、男の黒い瞳を見据えた。

 「ジンよ。人間を舐めるな。崇高な努力を貫いている人間の精神を、君らのような分際に理解することなど、絶対にできない」
 「ほう……それは、我が野心のために、ですか?」
 「……」

 アブドは男の問いに、答えなかった。

 ――ボ……。

 書斎を照らしていた、マナ石に灯る炎が、消えた。

 暗闇となった書斎に、開け放たれている窓から、満点の星空の光が微かに差し込まれる。

 その逆光で黒くなった、男の姿。

 「フフフ……」

 男が笑った。シルエットとなった男の肩が小刻みに震えている。

 純粋な、喜びに満ちている。影となって見えていないにも関わらず、口角が上がっているのが分かる。

 「やはり、あなたの中には、大いなる巨人的な生命が脈打っているようですね。……契約を、しましょう」
 「……契約?」

 黒いシルエットとなった男が、うなずく。

 「ただ、見守っていただければ、よいのです」
 「……それが、契約なのか?」
 「はい」
 「なにを、見守るのだ?」
 「私が、これからこの国で行うことを、です。私は、不幸に喘ぐ人々がたまらなく、いとおしい……」

 ――サァ~。

 「あ……!!」

 星空に照らされ、黒いシルエットとなった男の、右肩の先あたりから、塵となって消え始めた。

 「相対的な幸福は、必ず、相対的に不幸を産み出す……」

 ――サァ~。

 その塵は、窓の外へと、飛んでゆく。

 「救済ですよ。公爵、これから、あなたがやろうとしていることと、ちょっと似たようなことって、思いませんか?」

 ――サァ~。

 「この国で、苦しみにあえいでいる人々に、笑顔を、少しでも届けたいのです」
 「……も、もし、私が、契約を破棄したときは!?」

 腕が消えてなくなり、胴体の右側、腰あたり、また、顔は、右の耳が消えつつある中、アブドは男に問いかけた。

 「……そうですねぇ」

 ――サァ~。

 「あなたはどうやら、大切にしているものが、他の人とは、少し違う気がするのです。自分の命、また、大切な人の命とかと、違う気が……」
 「……」
 「……分かりました。あなたの一番大切にされている、野心……奪わせていただきましょうかね……」
 「な……!」

 ――サァァ……。

 男のすべてが、塵となって、消えた。

 ――ドサッ。

 「はぁ……はぁ……」

 アブドは力が抜け、床に崩れ落ちた。

 ――コン、コン。

 「公爵~!食事です~!」

 召し使いの声が、扉の外から聞こえてきた。

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