由希の運命
数日の後、吉保は親しくしている善光という僧侶と将棋を打っていた。
「いや、子が流れてしまったのは仕方ないとして、妻が元気を取り戻したのはよかった」
と吉保は、かすかに安堵の色をうかべる。
「まこと奥方様は仏の道にも理解をしめし、下々の者に対しても気配りが行きとどいておりまする。こたびのことは仕方なきこととはいえ、いずれまた、子宝に恵まれる日も訪れましょう」
と善光は、吉保に気を使いつついう。
「しかし、数日の間は悪夢にうなされて大変だったわい。その夢の内容というのが奇怪なものでのう。時は王朝時代、ある不憫な女の物語だったとか。そう……その女の名を仮に由希とでもしておこうか」
……由希は下級貴族の娘だった。父と母、祖母そして妹がいたという。貧しいながらも美しく成長し、それなりに幸福だった由希の人生は十六にして、大きく変わることとなる。
ある時、時の右大臣・藤原家里が屋敷を訪れた。右大臣直々の訪問とあって、由希の父は贅を尽くして出迎える。
そして由希が琴を弾き、九才になる由希の妹の祥子も笛を披露する。ところが笛を聞きながらも、家里はしばし憂鬱な様子を見せた。
「どこか御加減でも悪うございまするか?」
由希の父の時家が心配してたずねる。
「いや、どこも悪くはない。ただ、そなたの子等を見ているうちに、なぜ余は子宝に恵まれぬのかと思うてのう…」
家里には梅妃という妻がいるが、契りを交わしてから早十数年、いまだに子供には恵まれていなかった。
「なんなら、他に妾を試してみては?」
「いや、それが妻が嫉妬深くてのう。以前、一度妾を持ったが妻との間がうまくゆかず、暇乞いを告げて余のもとを去ったのだ。まあ是非妾にと思うておるおなごなら、おるにはおるが……」
この時、由希は家里の目が、かすかに己の方を向いたことを存ぜずにいた。
その夜遅くのことである。祥子は隣室で何者かが騒ぐ音で目を覚ます。
「何をなされます! おやめくだされ!」
明らかに姉の声だった。
「誰か! 助けて!」
間違いなく、姉の身に何事かがおこっていた。かすかに障子を開いて、祥子が目の当たりにしたものは、九歳児にはあまりに衝撃的だった。
姉は服がぼろぼろになり、肌が露出していた。その上に何者かがのしかかっている。まさしく、それは昼間見た右大臣藤原家里だったのである。
家里は完全に由希から自由を奪い、力ずくで大股開きにして、声が出せぬよう口をふさいでいた。男女が闇の中ではげしく交わる様を、幼い祥子は、不幸にも目の当たりにしてしまったのである。
俗にいう夜這いは、この時代では上流階級から農家に至るまで決して珍しいことではなく、今日ほど犯罪行為ではなかった。かといって、由希が心身に受けた傷は決して生易しいものではなかった。
由希も時家も動揺し困惑した。由希は己の操を捧げることとなり、さらに妾として、側近くに仕えるよう望まれることとなったのである。
「困ったこととなった。あのお方は、時として乱心するともっぱらの評判じゃ。ささいなことでも、側近くに仕えている者を切り捨てることもあるという。娘はまだ幼い。なんとかならんものか」
悩んだ末に時家は、由希が谷から転落して死んだと偽りをいった。そしてしばらく寺に預けることとした。
しかし三年が過ぎて、由希の生存は家里の知るところとなった。激怒した家里は使者を寺にやり、由希を強制的に拉致し自らの物とした。
由希は家里の寵愛を一心に集めることとなる。しかしこうなっては、面白くないのは家里の正妻や他の妾たちである。
ある三日月の夜のことである。由希の寝所に、桶をかかえた怪しい女が忍んできた。桶には熱湯が湯気を立てていた。そして、寝ていた由希の顔に煮え湯を浴びせたのである。
由希の顔には醜い火傷の後が残り、そのため家里にも女として扱われることがなくなった。そしてある祝い宴でのことである。酒に酔った家里は、不意に由希の手をとり、乱暴にも酒宴の最中の家人たちの中へ放り投げた。
「もうこの女は用済みだ。顔はともかく体はまだ女として使える。好きにしていいぞ!」
家人たちは喜び、よってたかって由希の服をはぎ取った。その場で裸にして、代わる代わる体を弄んだ。家里はこの阿鼻叫喚の様を酒の肴とし、他の妾たちも泣き叫ぶ由希を見て、それをあざ笑った。
数日して、由希は夜屋敷を抜け出す。
「父様と母様のもとへ帰りたい!」
必死の思いで数日歩き、屋敷までたどりつくも、そこで由希は衝撃的な光景に遭遇する。なんと屋敷は破壊され、由希の父、母、祖母、妹もことごとくが殺されていた。由希が逃げたことに気づいた家里が、激怒して手をまわしたに違いなかった。
「己、家里! そなたが七度生まれ変わる間に、この恨みは晴らす!」
由希は間もなく川に身投げして自殺したという。
「何とまあ……いつの世でも、哀れなのは女の運命でござりますなあ」
と善光は思わずため息をついた。
「まこと、かように悲しい定めに弄ばれるおなごほど哀れなものもない」
吉保はなにやら思いつめたように言った。
「拙僧の勝ちでござる」
気がつくと吉保は詰んでいた。
「うぬいつの間にやら負けておったか! それにしても人の世とは、この将棋の大局よりはるかに複雑であることよ。その女もまた、時の権力者にしてみれば、所詮は捨て駒のようなものだったということか……」
「はたして、誠にかようでござりますかな?」
かすかに善光の目の色がかわった。
「人の世とは意外と単純明快なのでは? 例えばその鏡に映った我らの姿のように……」
吉保は背後を見た。そして悲鳴をあげることとなる。なんと鏡に映っていたのは善光ではなく、由希だったのである。
「己! 化物!」
吉保は刀に手をかけた。
「そなたが成仏できぬ理由はわかった。なれどわしにどうせよと申すのだ!」
「あの定子なるおなごの申しことは大筋で真ではある。まああの者の記憶が曖昧なこともあるし、事実はあの者が申すより、はるかに複雑ではあるがのう。
わらわがわらわの魂がそなたに導かれてこの城まで来たは、わらわの意志であってわらわの意志ではない。まさに運命とでもいうべきものじゃ。まちがいなく私の仇は、かの江戸城の中にいる。そして何者かに取り憑いておる。それが城の下働きかもしれぬし、あれいは汝のよく知る者かもしれぬ。
そして、あの者の魂がそこにある限りは、その周囲の者は翻弄され、あの者の前世でおこった事件と酷似した事件がおこり、その中に巻きこまれるであろう。そなたは黙って見ておればよい。今一度申しておく、わらわの事決して他言するでないぞ」
善光は笑いながら去っていった。しばし吉保は呆然自失の体となる。
それからというもの、吉保は常に見えない由希の影におびえて生きていくこととなる。常に監視され、何者に憑いているともわからない。そして数年が過ぎ、不吉な何事かがおきようとしていた。