バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

非日常の入口



 ここまで来たら大丈夫か。

別荘からの逃亡劇終えた私は、誰に言うでもなくそんなことを考えた。
 もしも街中で、やたらと小綺麗な格好をした年端もいかないであろう少女が息を切らしながら走っていたとしたら、気になるかもしれないが見逃してほしい。
私のように、ただ自由を求めて踏みなれない凸凹のコンクリートを駆け抜けている令嬢も存在しているのだ。
SP達は二人がかりで後を追ってきていたが、昔からコンプレックスだった小さな体は、今素晴らしい役目をはたしてくれたようで、どうやら撒けたらしい。
路地の隙間を通り抜け、道の角を曲がっては走る、ちょこまかした幼子のような動きに大人はついてこられなかったのだろう。
眼前に川が流れるここはどうやら、どこかの河川敷。
平日の昼間とあってか人の気配はほとんどと言っていいほど無い。
私を一人都会の端っこに放り出して見逃してしまった新人SP達がとばっちりを食うのは可哀そうだが、手に入れた自由を手放して帰るなんて真似はできるまい。
草を踏みしめ斜面を下り、とりあえず一息ついた私は、メイド長やベテラン執事、そしてお父様にも、スマートフォンで一報いれる。


今日は河川敷らしい場所にいます。
きっと川西と四宮は慌てていますから、フォローをお願いします。
あとできちんと謝罪いたします。

 ――送信。
既読はまだつかないだろうが、そのうち読んで納得してくださるだろう。
新人SP達からすれば初めての経験に違いなかろうが、私が隙を見て逃走を図るのは初めてではないのだ。
 私が生まれたアーネスト家は、私が生を受けるよりずっと前から、高名で評判の良い財閥だった。
そんな家の令嬢という立場上、稽古や勉学は何かと強いられるものだった。
それが嫌でこそなくとも退屈に感じていた私は、周りの気を引きたいがため、時たま稽古を抜け出すことがあった。
約束の時間になったのに稽古場に行かず、どこかに隠れたり街に繰り出してみたり、ちょっとした息抜きがてらの冒険だ。
 そんな私の行動を看過できないのは、私がかなり大きな組織の令嬢であることが理由だろう。
私が好奇心でどこかへ足を運んだとして、GPSで居場所は筒抜けだ。
つまり、本当の自由は私にはない。
どこにいるか分からない! と心配をかけることも、はなから出来やしない。
それを分かったうえでなのか、お父様は、私の幼稚な脱走を見逃してくださっている。
それは多分、いざとなれば居場所が分かるから、という理由が一つ。
そしてもう一つ、これは憶測だが、私を令嬢という立場に縛っているという罪悪感から私に自由をくださっているのだろう。
お父様は仕事がお忙しいためか、一緒に幼少期を過ごした記憶はほとんどなかった。
ただ、誕生日や記念日などで、時折顔を見せてくださったので、寂しさはあまり感じていなかった。
自身のお仕事の様子を見せてくださるなど、時間と幼い私の機嫌を取るのが昔からお上手だった。
お母様は私が物心つく前に病死したそうだが、それでもただ一人の父を恨まず尊敬できるくらいには愛を受けて育った。
自身の職場にさえ私を連れていってくれる、比較的自由な育て方をしてくれたお父様だが、私の進路だけは固く固く縛っておいでなのだ。
幼稚園、小学校、中学校、そして今の高校も、お父様は必ずここに行くようにと言って聞かなかった。
中学にもなると行きたい学校も出てきたものだが、父の強い意志に押されて、自分で進学先を決めたことが無いまま現在に至る。
それ自体に大きく反抗しないのは、父が進路を縛るのは私の身を守るためだと理解しているからだ。
今の私が通う高校、プロミネント高等学校は、「価値ある若者の未来を保証する」という大胆なキャッチコピーを掲げている。
その言葉通り、生徒の防犯や情報の取り扱いに定評のある学校だ。
私のように、著名人の血縁者だとか、若くして芸能界やそれぞれの分野で才能を発揮している高校生など、世間から恨みも羨望も買いやすい人たちが在学している。
どんなに脱走しても私の居場所が常に筒抜けである理由の一つは、この学校の防犯技術にもあった。
保護者さえ望めば、学校でもGPSなどを駆使し、居場所を掴んでくれるらしいのだ。
数多の犯罪者や危険人物も、プロミネントの学章がついた制服を来ている者は襲わないと言われる程、正確で厄介らしい。
その情報を知るからこそ、お父様の気持ちも分かったうえで、進路には納得している。
しかし、私が納得していようと、お父様は私の進路の束縛をすることに罪悪感を抱いている様子だ。
私の進む道を縛って動かさないこと。
そして、今は会う時間もまともに取れないこと。
極めつけは、学生の守護に特化した高校に進学させ、自由やプライバシーのほとんどを奪ったこと。
私の選択権を奪う代わり、身の安全と束の間の自由を許す。
それが、私が簡易的な脱走に成功している所以だ。
どこで私が何をしているかは、おはようからおやすみの間まで完璧に掌握されている。
もし誘拐や傷害なんてことがあれば、大切な大切な私を守るため、実家から学校から国家組織が飛んでくるだろう。
場所を寸分違えず正確に。
私はそれを嫌だと思ったことないが、あまりにも保護されていることに、やるせなさを覚えることはあった。
お前は無力だ、と暗に言われているようで、自分の力の無さを痛感してしまうのだ。
あと困ったことと言えば、非日常や常識の範囲外の出来事を味わってみたいと思うようになってしまったことだろうか。
まあ、思ったところで何も起きないのだけれど。
 さて、この河川敷は人の気配が無いが、危険そうには見えない。
下流域は流れが激しそうなので、うっかり落ちるようなことがないよう、そこだけ気をつけておけばいいだろう。
事前に自分の居場所を伝えておくことで、これは息抜きだから見逃してほしいとお父様達に意思表示していることにもなっている。
もう少しだけ、静かにせせらぐ川の風景に、目を奪われていても大丈夫だろう。
 私は、少々日の光が強い陽向から逃げて、ちょうど影になるところ、川にかかった橋の下に駆け込んだ。
かなり大きなコンクリート製の橋の下は、上着がないと体を冷やしそうなほど涼しく、走って体温が上がっていた私には丁度よかった。
夏前で別に寒くもない気候の中、わざわざ高校のカーディガンを羽織っていてよかったと思う。
歩いて渡れそうもないほど大きい川をかかる橋の下は、向こう岸とも隔絶されていて、まるでここだけで世界が成立しているかのようだ。
これは、息抜きにはとても良さそうな場所だ。
いい場所なのに人は居らず静かで、穴場を見つけた気分だ。
思わぬ幸運に気分が良くなった私は、まずは座って休むことにした。
冒険にはいささか似つかわしくない、高級感溢れるスカートをたくし上げて、チクチクしそうな芝生の上にいざ座ろうとした時だ。
 視界の端に、人の存在を捉えた。
いいや、厳密に言えば目というより、恐らく第六感が先に気配を察知した。
私と同じように、まるで隠れるようにして、この河川敷の世界に居る。
気配のした方を見ると、年上の青年と思しき人を発見した。
てっきり人などいない静かな川岸だとばかり思っていたから驚いて、他にも人がいるのかと辺りを見渡した。
しかしやはり、青年以外に人は居ない。
過去に人が居たような痕跡もない、 恐らくはずっと無人の川岸。
再び視線をその人に戻した私は、およそ二十代前半と思しき初対面の青年を見てぼんやりと思った。

__変わった人。

だって、彼はここで眠っているのだ。
どこの漫画の登場人物なんだろうか、ご丁寧に顔に雑誌をかぶせて視界を覆っている。
別にいけないとは言わないが、ここは眠るにはあまりにも適さない場所だ。
チクチクと足元を刺激する草は、寝ていると痛くて邪魔だろうし、なんにしても滞在するには肌寒い。
にも関わらずこんな場所で寝ているなんて、よほどの物好きか、何かの訳アリ、ということなんだろうか。
身にまとう衣服や、雑誌の隙間からちらりと覗く真っ黒な髪は、一般的な清潔さを保っているように見えた。
だからこそただの青年だと分かったが、パッと見たときの印象ではホームレスを思い浮かべたくらいだ。
家やネットカフェといった場所を選ばず、わざわざここへ来たのは理由があるはず。
人と関わりたくない、もしくは、ただここが気に入っている、とか。
何にしたって変わり者に違いはない、妄想はここらでやめにしよう。
 さて、広い広い河川敷の世界で、眠る青年と私くらいしか人はいないが、どうしようか。
またウロウロしようというほど興味を惹かれる街ではないし、意外にも川のせせらぎしか聞こえないのが心地よくて、ここに居座ることを選択するのも悪くはないと思ってしまった。
川を見ながら、誰にも会わず何の情報も入れず、ゆっくり過ごす時間もリフレッシュになるだろう。
問題はこの青年だ。
正直、あまりに見慣れない光景に多少の好奇心が芽生え、起こさぬように過ごそうという礼儀が負けてしまっている。
連絡用の端末には暇つぶしに使えるアプリは入っていないし、今愛読している小説も持ってきていない。
ここを離れようと思うまでぼうっと過ごしたい気持ちはあるが、そうなるとどうしても青年が気になり、視線が離せない。
 悩んだ末に私は、少し場所を変えて腰を下ろすことにした。
眠る青年の近くにわざわざ歩み寄って、隣というほど近くはないものの、話すときに不自由がない程度の距離に座った。
知らない人に近付いてはいけない、なんて幼稚園の頃からの教えは今だけ無視した。
どのみち、少しだけ外の空気を吸いたかっただけなのだから、やりたいことが思いついたらすぐに離れればいいだろう。
そう考えた私は、青年から顔を逸らし、青年が顔に乗せている雑誌はなんだろう、なんて横目でチラチラと観察し始めた。
 そうして寛ぎ始めて時間もそう経たないうちから、この河川敷の世界は早くも動き出した。
「ん……」
吐息にも似た短い声を漏らしたのは、もちろん私ではない。
近くで眠っていた青年だ。
どうやら物音で目を覚ましたらしかった。
眠っているとはいえ気配に敏感なのは、やはり眠りづらいこの環境のせいだろうか。
私は、二度寝するのか起きるのかと、隣から青年の様子をうかがっていた。
それはチラ見というより、凝視といった方が近かったと思う。
もしも素性が荒い人ならすぐに離れないといけないのだから、動向の観察だ。
もちろん興味が八割だけれど。
 青年はやがて、緩慢な仕草でその身を動かして、腕や肩をほぐすように伸ばしてから上体を起こした。
ぱさ、と軽い音を立てて、先程まで観察していた雑誌が落ちていく。
そうして青年の顔が顕になると、私の目線はそちらへ向かっていった。
大してアクションを起こしたわけでもないのに不機嫌さが伺える青年の顔は、まるで悪夢でも見たかのように歪んでいる。
眉間にしわが寄り、口元はへの字に小さく結ばれて、寝起きの悪そうなことだ。
そんな印象を抱くと同時に、綺麗な顔立ちをしているとも思った。
この一瞬でそう思わせるくらい、青年の顔は端麗に整っているのだ。
釣り目がちの目は、鼻や口といった他のパーツと喧嘩せず美しいバランスを保っていて、十五年と少しを生きてきた私の人生史上最も綺麗だ。
たった一瞬とはいえ、思わず見惚れてしまった。
年相応の女子らしく、異性を格好いいと思える自分を初めて知って、それに少し感動した。
そんな私をよそに、青年はあくびを噛み殺してすぐこちらに顔を向けた。
うるさすぎる私の視線に気づいたのだろう。
「……あ?」
先ほどから一遍の変わりもなく不機嫌を極めている表情で、身も竦む程恐ろしい威圧的な一言を吐いて、じっと私を見てきた。
勘違いでも何でもない、私に敵対意志がある反応だろう。
こんな態度を出されたら、空気を読んで、怖がって場を去るのがいいのだと思う。
実際少し驚いたのだから、怖いと思うままに目を逸らして、とっとと家に帰ったって構わない。
しかし、それでは如何せんつまらない。
寝起きが悪いから機嫌を損ねているわけでないとしたら、多分寝姿をじろじろ見ている私に苛立っているのだろう。
ならば、悪いのは近くで不躾な視線を浴びせ続けた私だ。
そして、不快な思いをさせたなら謝るのが筋だ。
そう理性的に考える頭で、私はとっさに謝罪の言葉を紡いだ。
「失礼いたしました、不躾に眺めてしまって。あまりにもお綺麗なお顔でしたのでつい」
口からついて出た言葉がなんだか胡散臭くなってしまったことには、謝罪の言葉を口にした後に気付いた。
 家庭教師に進められるがままに見た洋画でも、こんなに臭いセリフは言っていなかった。
 寝起きざまに、何故か近くに居た初対面の女性からいきなり顔を褒められるなど、怪しいなどといった話ではないだろう。
 私は、あまりに自分らしからぬ言葉が出たことに困惑して、冷や汗の一つや二つ出そうな気持ちになった。
青年は、案の定というべきか、更に口調を重くして私に言った。
「何言ってんだよ嘘くせえ、じろじろ見てんなよ」
青年の吐き捨てるような言い方に、私はプライドを削られるような心地でいっぱいになっていく。
 謝っているのに、何故。
 嘘だなんて、何故。
 視線をぶつけていたことや、あの謝罪内容が、そんなに怒るようなことなのかは分からない。
別にそんなに怒ることじゃないのに、と思ってしまう私の感覚がずれているのかもしれない以上、反論もできない。
仮にもアーネスト財閥の令嬢であるこの私が、見ず知らずの男性にこんな暴言を吐かれようとは、まさに一生の不覚だ。
自分でも笑みが消えていくのが分かって、仕方なく青年の綺麗な顔から眼を逸らした。
 すると、私が言われた通りに見るのを止めたからなのか、青年の方から続けて声をかけてきた。
「迷子かクソガキ」
先程より威圧感は消えているものの、決して興味や善意から発言したわけではないであろう冷たい口調だ。
クソガキなんて言い方には怒りを刺激されるし、迷子、という言われは不満でしかない。
しかし、違うと否定したところで説得力がないことは重々承知している。
青年の言葉選びへの不満は殺して、正直に答えることにした。
「少し息抜きをしに外へ出て休憩していただけです、良い場所でしたので。 迷子ではありませんわ」
言い終える頃に、青年の方へまた視線を戻してみると、まるで呆れたような顔をして私を見ていた。
青年の表情の理由は全く分からなかったのだが、とにもかくにも異物を見るような目を向けられている。
私がそれを理解して困惑している中、青年は続ける。
「さっきからなんなんだよテメエのその口調はよ。 お前この辺に住んでるわけじゃねえんだな」
 青年の言葉もまた初めて投げられたもので、私の困惑は深くなった。
視線もダメなら口調もダメときた。
よく分からないがとにかく、青年の怒りの壺は浅いらしい。
 困惑と同時に、青年の態度に苛立つ気持ちもあったが、とにかく相手の怒りを刺激してはいけないと判断する。
 言われたことに嘘をつかず頷いておくことにした。
「ええ、そうですね」
確かに今は、お父様の仕事の都合で実家から移動して別荘にいるだけだ。
此処に住んでいる訳ではないし、それくらいなら話しても構わないだろう。
どのような口調ならば青年に許されるか分からないので、最低限の肯定語を返した。
 しかしこの青年、変わり者だと推察したそれは間違いなく当たりだったようだ。
 そして、この性格が素で、初対面の人に対してずっとこの態度なら、単純に居場所がないのだろう。
だから家でもネットカフェでもなく、わざわざこんなところに、なんて失礼なことばかりが頭を駆け巡った。
相手に直接不満が言えないから頭の中でだけ悪態をつくなんて、我ながら子供じみている。
青年だって大人気ないのだから仕方ないだろう、と自分を棚に上げた思考で自己防衛した。
 そんな私の思考など読めもしないだろうし興味もないのであろう青年は、さも面倒くさそうな様子で頭をかいて続けた。
「んじゃ優しい俺様が忠告してやるよ。 ここはそういう息抜きに使える場所じゃねえよ、とっとと消えな」
排他的でぶっきらぼうな口調で、確かにそう言った。
 普通の言い方に変換すると、ここは休憩に適したスポットではないから別の場所に行け、ということで合っているのだろうか。
自分でわざわざ優しいなんてつける口の悪い青年の言葉だが、信じてみるべきか?
 ――否、納得のいく理由がないならばそうはしたくない。
第一、そんな理由で私が去らねばならないなら、ここでのんきに寝ていた青年はどうなのだという話だ。
あとは単純に、素直に言うことを聞きたくはない。
「一体何を根拠にそんなことを?」
聞いてすぐに私は問い返した。波風は立てたくないが、どうしても納得できない。
すると、それが気に障ったか、青年はうざったそうに顔をしかめた。
「根拠ォ? それがそんなに大事かよ、別にこの場所がそんな気に入ったわけでもないだろ」
その言い方たるや、まるで私が納得出来ないことなどどうでも良いと言いたげな、私を心底軽んじていなければならないであろう話し方だった。
勿論、初対面なのだから青年が私の心を案じる義務はない。
ただ、そうにしたって、最低限の礼儀すらわきまえていない青年の態度は如何なものかと思うのだ。
だからこそ、私は負けじと言い返してしまった。
「私が気になるから聞いているだけですわ。 そのために気に入ったと言う必要があるならば、私はその通りだと言いましょう」
 青年は、はあ、と聞こえやすいため息をついた。
「お前、たかだか興味本位で屁理屈こねてんじゃねえよ」
 興味本位で何が悪いというのか。
青年がそこまで私を追い出したがる理由が分からず、私も引けなくなっていく。
屁理屈なんて言われるならば、むしろ、青年の方にも、私が出ていくべき理屈を解いてほしいものだ。
「根拠などは無く、ただ私を追い出したいだけで怒られているなら納得できないだけです」
怒らせてはいけない、と思っていたが、こればかりはただの八つ当たりに過ぎないような気がしておめおめ帰りたくはなかった。
 もしや怒鳴られでもするかもしれない、と思っていたのだが、青年は意外にも冷静な口調を保って言った。
「逆だよ。 俺が先に此処にいたんだから、お前が此処に居座ることに納得できねーの、邪魔」
 冷静なのは口調だけだったと、思わず呆れてしまった。
本気で言っているなら、変わった人どころでは無く、考え方に大きな問題がある人だ。
しかし、ただ私を追い出したいだけなら、圧倒的な力の差があるのだからさっさとつまみ出してしまえばいいと思うのだが、そうはしないようだ。
 もちろん私に何かあれば、加害者である青年は一たまりもないのは明白だが、青年は私が〝そういう存在〟だとは知らないはずなのだから手を出されてもおかしくない。
なのに力を行使しないということは、青年は対話を選ぶ理性はあるらしい。
なら、多少の押し問答は可能だ。
幸い理屈のぶつけ合いは嫌いではない。
むしろディベートなんかは好きな方なわけだが、流石にここまで理解できない理屈を通されそうになっているのは、好き嫌い以前に面白くない。
 それに、ここまで無遠慮で失礼な言い方をされる機会はそうそう無く、かなり非日常感を味わえている。
 久々に純粋な負の感情を向けられて、それでも手は出されずにまともに言葉を交し合えるなら、ちょっと楽しいかもしれない。
「では、納得できそうなことを言えばよろしいですか?」
 私は青年に立ち向かうことを選んだ。
 それが伝わったらしい青年は、やはり面倒そうに目を細めるが、少し気持ちが逸った私は止まろうとは思えなかった。
「ここはそもそも、寝るよりも息抜きや休憩に使う方が適した場所だと思うんですよ。 芝はチクチクしますし、水場が近くにある場所で寝るのは危ないです」
 私の言葉に、青年の片眉が下がる。
苛立っている様子には変わらなかったが、なんとなく、言われたく無いことを言ってしまったのかもしれない気はした。
「お前、この辺のこと何も知らねーくせにいけしゃあしゃあと……」
 言葉から察するに、青年は、余所者を寄せ付けたく無いのかもしれない。
だとすればやはり、出て行けと言われるのは不当だろう、此処が私有地だとでも言いたいのだろうか。
大した理屈が出てこない青年を見るに、理屈を捏ねるだけなら私に勝算がありそうである。
性格が良くない真似、とは思いながらも、面白くなってきたという感覚に抗えない。
私は、更に言葉を重ねる。
「そう仰いますがね。私に出ていけと言いながら、先ほどまでここで寝ていた貴方は、何故わざわざこの場所を選んでいるのでしょうという話です。もっと安全に、快適に眠れる場所はたくさん……」
だが、そんな私の気持ちなど会ったばかりの青年には関係あるはずもない。
 長めの問いかけに、青年は次第に苛立ちを増したように顔を歪めていった。
そして、私の言葉を遮るように叫ぶ。
「あああ、煩い……! メンドくせえな、さっさと消えろってのが聞こえてねえのかお前は?」
 口調は一気に荒々しくなった。
ぐぐっと寄った眉は厳しく、いかにもな苛立ちを真っ直ぐに私へと向けてくる。
青年はあまりにも短気だ。
そして私も、あまりにも意地っ張りだ。
「そう仰る理由が不明瞭な以上、素直に退こうと思えません‼︎」
とても久しぶりに、自分でも自覚があるくらい温厚な私が、利口で冷静な私が、感情に任せて叫び返した。
口調だけが令嬢としての余韻を残し、声や語気などはまるで考えなしの子供のよう。
一度言い出したら止まらない感覚を生まれて初めて味わった私は、途切れさせるまいと言葉を紡いでいく。
「そもそも、ここは立ち入り禁止でもなければ、貴方の領地でもありませんよね! 何故そうまでして追い出したいのか分かりませんが、ただの八つ当たりならこちらも簡単に引き下がりたくはありませんよ!」
一歩分近づいて言いきった刹那、青年は驚いたように目を丸くしたが、すぐに怒りに満ちた表情に戻った。
そして、嘲笑するように鼻を鳴らして笑った。
ハッ、と馬鹿にするような青年の声がかすかに空気を揺らして、青年もまた私に一歩分寄ってきた。
距離が近づいただけで少し怖気づいた私が、思わず退け腰になってしまった。
そんな私に、青年は地底を這うような低い声で呟く。
「退かねえっつったなら逃げるな、クソガキ」
その声を聞いて、私の体は固まった。
純粋に、弱い者が強い者に逆らえないように、青年が逃げるなと言ったから逃げられなくなった。
気持ちだけは負けるまいと逸らさずにいた顔だけが、青年と真正面から戦っている。
身体はきっと逃げようとした。
けれど、それさえ押さえつけるほど、青年は強者の雰囲気を漂わせている……ように、思う。
 まずいことになった気がする、少し意地を張り過ぎた。
 逃げるなと言って、一体何をする気なのか?
青年の次の動きを待っている私の心中は、今更ながらいかに場を丸く収めるかでいっぱいだ。
しかし、青年はそもそもことを大きくする気はないらしい。
それは、続く青年の言葉でよく分かった。
「ここ、殺人未遂事件があった場所なんだよ。 今、俺とお前が立ってる、此処がな」
青年の口調は先ほどに比べると殆ど落ち着いていて、表情や目の奥に嘘を孕んでいる様子もなく、ただ妙な信憑性に溢れていた。
ああ、本当の事言ってるんだ、なんてすぐに確信が持てたほどに。
そのあまりのギャップと、だからこそ恐ろしくもある発言の内容に、私の喉からは掠れた声が出てくるのが精一杯だ。
「……え?」
もしも青年がこの後剽軽な顔で『嘘にきまってんだろ』とでも笑うならば、それはそれで腹が立つが、そんな展開になりそうもないならそれも困る。
 
 ――殺人未遂。
 人が殺されかけた場所。
 誰かが死にかけた所。
 
死というものを明確に感じたのは初めてではないが、人が人の命を奪う、という事実を身近に感じるなんてそうないことなわけで。
突飛なワードに、返す言葉も浮かばなかった。

しおり