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 2022年の話であったはず。俺は、もう40歳を超えて、ネットワークエンジニアとして働いていた。しかし、だんだん疲れが溜まり、会議の内容も覚えられないなど、仕事に影響が出てくるくらい疲労困憊してきたので、上司に相談して、診療内科に通う許可を得た。結果、うつ病と診断され、しばらく、静養と診断されてしまった。

 とは言うもののの、徹夜続きで仕事していた俺が、急に静養を言い渡されても、そう簡単に身体がついていくはずもなく、何かしていないと落ち着かなくなった身体は、行き場を失い、考えあぐねた結果。妻、娘の了解を得て、テントを担いでトレッキングの旅に出ることにした。ひとしきり歩いたあと、近場の川場で釣りをして、なんとか魚料理等で、テント生活を始めることができるようになった。

 しばらく、そこで過ごしていたが、ある日の朝、テントから出てみると、近くにあった電柱が消えているのに気がついた。

 おかしいと思い、散策して見ると、近場はあまり変わってはいなかったが、大通りに出ても、そこはアスファルトではなく、砂利道のままであった。

 とりあえず、テント一式を隠し、財布だけ持ち、再度、遠くまで、調査することにした。確かに大きくは変わっていないが、周りの家はすべて木造もしくは団地が立ち並んでいて、さらに団地もどれも建てたばかりのように見えた。

 俺は、我が家が気になり、歩いて家に帰ることにした。幸い、まだ旅は始まったばかりで距離も少ない。近くまで行ったが、付近まで行っても家がない。それどころか竹林である。ここまで来ると、答えは2つである。自分は夢を見ているか、過去にスリップしたかのどちらかである。まるで映画の定番である。

 まずは子供の記憶をたどり、親戚をたどってみようと思った。

 近くに大きな駅があると思われる所に行ってみた。存在しており、改札口の駅員が、カチカチと切符もないのにハサミを鳴らしている。他の駅員は緑の鉄のちりとりで床に散らばっているタバコを掃いている。ゴミ箱においてある新聞を取ってみた。出だしには次の4年後に東京オリンピックと見出しがある。上には1960年と書いてある。

 ここで気がついた。自分の出生前の時代であること。それどころか父母はまだ結婚していない。

 そして大事なことは、私が所持しているお金は通用しないこと。親戚をたどるには、トレッキングで千葉から東京に出なければならない。

 トレッキングとして、田舎から都会に出る変わった経路である。なるべくめだたないように。利根川、江戸川沿いを歩いた。幸い、この時代は、今で言うホームレスがたくさんいて、ちょっと服を汚せば、カッコは目立たずになんとかなった。

 そして、JR、もとい国鉄付近の親戚の家に尋ねることができた。とは言うものの、私はこの人たちにとって他人であり、年上である。

 幸い、個人情報と概念はここにはなく、父の住所を聞くことができた。どうやら団地に住んでいて、土木関係の仕事をしているらしい。

 そしてありがたい事に、親戚は俺が着衣していたスキニーパンツ(当人はサブリナパンツと思っているらしい)とネルのシャツを気にいったらしく、親戚の服と取り替え、さらに多少の金をもらう事ができた。懐かしい聖徳太子である。

父の元へ行くとしても、子供と言う訳も行かず、職を持ち友人として近づくしかないだろう。某有名映画のようにはいかないもんだ。

 私の得意分野はネットワーク関係だが、この時代にあるのは単純な電話だけ。またコンピュータも大手企業が持っている大型コンピュータでしかも言語は0と1だけの言語で、紙に穴を開ける簡単なものだ。そしてこの時代に学校を卒業していない私には、まず無理な話。

 親父と同じ、土木関連を探した。逆に、特殊車両はこの時代には、単純でツルハシだけでもできる人材を探している。なんとか、住み込みで仕事を得ることができ、私は少し歳を重ねているが、今まで培ってきた論理的思考で、以前の仕事で仕込まれた、効率化を促進して、少しずつ、仕事に慣れてきた。

 そして、俺は父のそばの団地に引っ越すことにした。そして、父と仕事を通して知り合うことができた。

 父は、人の使い方がうまく、大手企業で年齢や学歴にそぐわない出世をしていた。さすが、豊臣秀吉を尊敬するだけのことはある。

 俺も、時々、父の家に遊びに行き、次第に仲良くなっていった。

そして父の会社に引き抜いてもらい、年下の父の元で働く事ができるようになった。

 念願の神谷バーにも連れていって貰ったり当時の東京見物や、ちんちん電車等。興味がある物ばかりだった。

 もちろん目標は、実はあまり信じてないが、よくある映画の設定で父母の結婚である。本当に、それが叶わなかった場合、私は存在するのだろうか?単なるパラレルワールドのような気もする。

 まぁ結婚することに、こしたこともないので、後押しできるのなら、できるだけ、協力するにこしたことはないと思った。しばらくすると急に父と合う機会が少なくなってきた。こっそり後をつけると、フルーツパーラーや、銀座のデパートで母とデートしていた。まぁ順調である。ただ父が、団地暮らしなのが問題なのか、家に呼ぶことはなかったようである。

 父は、私に母を紹介してくれて。東京タワーや、浅草寺等、3人で遊ぶことも多くなってきた。私は、母が少し眩しくて、瞳をなかなか見れなかったが、有名映画のように好かれることはなかった。一安心である。母に聞くと、いろいろ戦時中に苦労してきて、今は、一人上京してきて、なんとか普通の生活ができているらしい。

 私は、ある日、母に真実の一部を語った。

 私は、霊力が強いと思っています、よかったら聞いてください、あなたは子供を2人生みます。しかし弟のほうが、27歳の時、白血病でなくなるので、早期診断をさせてください。母は、半分疑いながら、半分真剣に聞いていた。

 そんなこんなでときは過ぎ、困ったことが起きた。私はうつ病。抗うつ剤が切れてきたのである。

 私は少しずつ、波を持ちながら、落ち込んでいった。そして、この時代に来たことを何故か憎むようになってきた。

 また、父がケチになり付き合いも少なくなり、嫌われたと思うようになってきた。希死念慮がmaxになった時、父は、母と、落ち込んでいる私を強引に、銀座和光に連れて行った。父は3ヶ月分の給料で、母に指輪を買ってあげた。このため、これまで、付き合いや、出費を控えていたのである。なんと律儀であろうか。昭和、中期とはこんな物なのか?

 私もその事で、希死念慮はなくなり、鬱も少し晴れてきた。

 しかし、父母の結婚式に出席するつもりはなかった。理由は単純で、写真でも残されたら、現代に戻った時、大変なことになるかもしれないからだ。

 私は、ある程度金も溜まったことだし、この辺が潮時と思い、元過ごしていた、河原に戻ることにした。

 今まであまり気づかなかっが、電車に乗ろうとした時、改札のカチャカチャは良しとして、ホームにはタバコの自動販売機まであるし、ホームどころか、どんなに混んでいても、電車の中の至るところで、皆さんタバコを吸っている。

 もちろん対面式のシートには灰皿までついている。私も久しぶりにタバコを吸ってみた。この時代はタバコを悪とみなす風潮はなく、私もゆっくりふかしてみた。

 タバコの良し悪し、公害は、ひとまずおいて、この時代は、コンビニもなく車も普及しているとは思えず、不便 この上ない。

しかし、皆、とても一生懸命、そして、生き生きと人生を謳歌しているように見えた。

 私はといえば、薬なしでも、鬱もすっかり治っていたようで、テント生活をこのまま続けてもいいとさえ思った。しばらく釣った魚で生活していた。ある日、残念ながら、電柱が出現し、いつもの風景に戻った。鬱が消え療養する理由もなくなったことから家に帰ることにした。誰も迎えはないと思っていたが、なんと弟が、迎えにきた。「兄貴、今まで何やってたんだ。これから会社行くよ。」

俺は拒んだ。もう働くつもりはない

しかし、私の思いとは別で、その会社とは、NPO団体で、人々が豊かな生活を遅れるように、経済大国にこだわらず、会社のあり方を提案する内容らしい。俺も、スーツに着替えて

意気揚々と弟と一緒にでかけていった。この後の人生が楽しみである。





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