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「どこ?」

 シェリーが身を乗り出す。
 それはシェリーが子供の頃から大好きだった冒険譚だった。

『勇者の帰還』

 シェリーはハッと目を上げた。
 ブルーノが小さく頷く。

「ブルーノ……」

「懐かしいだろ? 姉さん大好きだったもんなぁ。まあかっこいいよね勇者って」

 ブルーノが指先で示した箇所を読み、シェリーは目に涙をためた。

「本当にね。大好きだったわ。いいえ、今も大好きよ。懐かしい……懐かしいわ」

 ブルーノが示した箇所は、魔物を討伐するために旅に出て行方不明になっていた勇者が、故郷に戻るシーンだった。

「なんだよ姉さん。何か思い出したの?」

「うん、あなたと二人で遊びまわってた頃を思い出したら、少し感傷的になっちゃった」

「ははは! 泣き虫の姉さんらしいや」

「まあ! 最近はほとんど泣かないのよ?」

 二人は笑い合った。
 ブルーノがたくさん四角を書いた紙を折りたたんでポケットに入れ、手をくるくると回してみせた。
 シェリーは小さく頷く。

「母上の体調が芳しくないんだ。無理しなくても急がなくても良いけど……」

「えっ! お母様が?」

「本人は気鬱だと言い張るのだけれど、医者はあまりいい話はしないんだよ」

「わかったわ。殿下と宰相に相談して連絡するわね」

 ブルーノが手首の動きを止めてニコッと笑った。

「うん、今日は話せて嬉しかったよ」

「私もよ。日程が決まったらすぐに知らせるからね」

 ブルーノは本を元の位置に戻してから、ニコッと笑って出て行った。
 先ほどのブルーノの仕草を思い出し、シェリーは少し微笑んだ。
 あの仕草は子供の頃に二人でやっていた遊びの時に使ったものだ。
 手首を動かしながら話しているときは『逆の意味』を示す。
 ということは、母の体調は快調だが、とにかく急いで一度帰ってこいという意味だ。

「お母様……」

 シェリーは影の存在を意識しつつ、態と声に出して嘆いてみせた。
 窓から外を見る。
 遠くに連なる山々を越え、さらに数日進んだ戦場でイーサンは行方を断った。
 状況から戦死したと言う者がほとんどで、シェリーも心のどこかでそう思っていた。
 そう思っていたからこそ、愛してもいない皇太子に抱かれ、皇太子妃としての仕事を続けてきたのだ。
 イーサンのことは後でゆっくり考えよう。
 シェリーは窓辺に立ち、景色を眺める振りをしながら、思考の沼に身を沈めた。
 
『なぜ傷つくの? 別に愛してなんて無いでしょう?』

 自分の心に問いかける。
 なぜ先ほどのブルーノの言葉に動揺したのだろう。
 相手がローズだから?
 いや、違う。
 ローズは出会ったときから皇太子の婚約者だったし、自分には愛しいイーサンがいたのだ。
 学園の廊下ですれ違えば、お互いに会釈をする程度の顔見知りだったローズ。
 正直に言えばあまり好きな性格ではなかったし、とにかく気の強い人だった。
 シェリーが直接何かをされたことは一度も無いが、皇太子に対し秋波を送る女生徒に対しては容赦がなかった。
 なのに、自分から進んでグリーナ国へと嫁いだのだ。
 しかも長年の婚約者を捨ててまで。

『情が移った?』

 恋愛感情はなくとも、抱かれ続けていると情が湧くというのは本当らしい。
 最愛を失ったもの同士というのもあったのだろう。
 夫婦というよりは戦友に近かったのかもしれない。
 しかし、互いに子を成すまでは唯一の相手と誓ったのだし、法的な縛りは無くとも、結婚から三年は側妃を迎えないという慣習は遵守すべきだ。

『あと一年待てなかったのかしら』

 数代前まで、側妃を迎える権限は国王にあった。
 しかし、どんどん側妃を増やして国庫金を減らしていくような王が何人か存在したため、法的に側妃に関する全権は妃の手に移った。
 側妃を迎えようとする者の妃が、その裁量をもつ唯一の者だ。
 この法が施行されてからは、王家における痴情の縺れは無くなっている。
 万が一それを破れば廃籍もあり得るほどの大罪と定められているのも一因だろう。

『何を考えてるのかしら』

 あと一年は愛妾として通うに留め、その時がきたら側妃に召し上げたいと言い出すつもりだろうか。
 だとしたらいっそ離婚して欲しい。
 好きでやっている皇太子妃ではないのだ。
 ましてや、先ほどのブルーノの言葉通りだとすると……

「そうだわ。急いでお母様のお見舞いに行かなくては」

 そう口にだしたシェリーはドアを開けて、控えていた侍従に宰相を呼ぶように言った。
 アルバートは執務室にいるだろう。
 宰相にスケジュールの調整を頼み、日程が確定した後に相談すればいい。

「お呼びでしょうか? 皇太子妃殿下」

 ノックの後、義兄であり現宰相のシュラインが入ってきた。

「義兄様、お呼び立てして申し訳ございません」

 シュラインが笑顔で臣下の礼をとる。

「どうぞシュラインと呼び捨てて下さい。私はもう王族ではありませんし、国王と皇太子に仕える立場ですので」

「ええ、公的な場所ではそのように致しましょう。しかし今は違いますでしょう? 私の夫のお兄様ですもの」

「ありがたいお言葉です。では、今は私もシェリーと呼びましょうね」

「ええ、是非そのように。実はご相談したいことができてしまいまして」

 先ほどまでブルーノが座っていたソファーに誘導しながら、シェリーが話し始めた。

「なんと! お母様が」

「ええ、弟は気を使って無理はするなと言ってくれていますが、もう心配で……」

「それはそうでしょうとも。なるべく早くスケジュールを調整いたしましょう。できるだけ長くとは思いますが、外交面でいささか不安もありますので……」

「ええ、承知しています。交易の件ですね? それは国を優先してくださって構いません」

「さすがです。それではすぐに動きますね。今日中にはお返事いたしますので」

「助かります。頼りにしていますね、義兄様」

 シュラインが退出した。
 シェリーは机に戻り、新しい書類の山に着手する。
 できれば一週間か十日は休みが欲しいが、宰相が言う通りグリーナ国との交易協定が崩れそうになっている状態のまま、それほど王室を開けておくことは難しいだろう。

「グリーナ国かぁ」

 皇太子の元婚約者が望んで嫁いだ国だ。
 表向きの理由は交易協定締結の条件としてだが、ローズが当時はまだ第二王子だったアルバートより、既に立太子していた隣国のブラン王子を選んだのは公然の秘密。
 しかも二人は当時から体の関係もあったと噂されている。
 知らぬはアルバートのみで、貴族たちは全員知っているだろう。
 長年の婚約者に捨てられたアルバートは『振られ王子』と、婚約者がいるのに無理やり嫁がされたシェリーは『帳尻合わせ令嬢』と陰口を叩かれていた。

「バカみたい」

 シェリーはメイドを呼び、実家に戻る荷物を作るように命じた。

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