8話
一滴、二滴、血の落ちる音が鳴り響く。
もう動かなくなった成人男性の首筋に噛み付き、溢れる血をゆっくり飲み干していた。
零れ落ちた血は背後に流れ、即座に消え果てる。衣服を穢した流血さえ、次の瞬間には吸い取られて染み一つ残さない。
はしたないと彼女は子供じみた行いをする理性無き自分が笑った。
――自分自身が吸血をしているこの瞬間だけ、あの地獄のような苦しみから解放される。
全身から生じる激痛は血という甘美な快楽で打ち消してくれる。今まで以上に、自分自身が人間ではなく、吸血鬼である事を自覚する。
これなら、まだ十全に活動出来る。思っていた以上に限界は遠い。これなら復讐を完遂させる事が出来るだろう。
――血を吸い切り、既に事切れた男を突き飛ばす。
死体は黒い影に沈み、跡形も無く葬り去られる。
ずきり、と一瞬だけ力を使っただけで生じた激痛に目に涙を滲ませる。
(……まだ頑張れる。カムイ君の仇を、この手で取れる――)
憎き怨敵を脳裏に思い描き、憎悪が激痛を凌駕する。
どうやって殺してやろうか。絶対に楽には殺さない。殺してと懇願するまで壊して、思い知らせてやる。
(……カムイ君が殺されてもう二年、貴方の顔を思い出す事さえ困難になっている――)
ふとした拍子に正気に立ち戻ってしまう。
魔力補給の為に幾人もの人間を犠牲にしてしまった。何の罪もない、赤の他人を。
友達であるシスター・クレアに瀕死の重傷を負わしてしまった。笹瀬川ユウが救出したので、無事だと思うが――。
(……駄目。迷っては、いけない。認めたら、もう立てなくなる――)
脳裏に過ぎった感慨を振り払い、立ち上がる。
既に日は落ちつつある。これからは自分達の時間だ。今日で何もかも終わらせる。
殺して殺して殺し尽くして、フェルミナ・ストラトスは復讐を遂げる。最期まで狂気を途切れさせずにやり遂げなければならない。
――さぁ、狩りの時間だ。夜の支配者である吸血鬼の、一方的な惨殺劇の始まりである。
そうなる筈だった。物語通りの性能を誇る吸血鬼に敵などいない。
全てが出鱈目で滅茶苦茶な強さ、理不尽の頂点に位置するのが吸血鬼という怪物なのだから。
――ただし、そこに例外が存在する。
明かりさえない廃ビルに紙吹雪のように本のページが舞い、その悉くに釘が刺され、貼り付けられて次々と固定化される。
「な、何っ!?」
――かつん、かつん、と、甲高い靴音が等間隔に鳴り響いてく。
それはまるで死神の足音のように、鼓膜の奥を反芻する。
何一つ恐れず、一方的に恐怖を撒き散らす暴君だった筈の彼女は、この未知の存在に本能的な恐怖を抱いた。
そして現れたのは一人のシスターはだった。
巨大な肉断ち包丁を片手に軽々持った絶対の処刑人が、吸血鬼を前に悪鬼の如く笑っていた。
「お誂え向きの場所だな、ヴァンパイア」
――これは一体、何の悪夢だ?
今のこの光景が現実であるのかとフェルミナ・ストラトスは疑う。
彼女の背後には人型ですらない怒涛の如き吸血鬼が控えている。狩るのは自分達で狩られるのはその他全員だ。それなのにあのシスターは何故笑っていられる……?
「――貴方、何者……!?」
「我等は神の代理人、神罰の地上代行者」
目に不気味な光を宿したシスターは変わらぬ速度で前進する。
「我等が使命は我が神に逆らう愚者を、その肉の最後の一片までも絶滅する」
「吸血作法・第四楽章・血染め旋風」
恐怖に駆られ、フェルミナ・ストラトスは戦闘を開始する。
赤黒い影は馬鹿げた速度で押し寄せ、シスターの下に殺到する。巨大な大波が飛沫を打ち消すようなものであり、たかが人に過ぎないシスターは何一つ抵抗出来ず――。
「え――?」
黒い大波が真っ二つに割れた。それはモーゼの如く、否、四つに八つに十六つ三十二つに――身体を幾重に引き裂かれて舞い散る血飛沫さえ両断される。
吸血鬼としての動体視力を持ってしても、あの巨大な肉断ち包丁が振るわれた瞬間を捉える事が出来なかった。
「――化、物……」
「化物は貴様だ、ドラキュリーナ」
目の前にいるシスターはシスターの中でも最上級の戦闘能力を持った司教級シスターだ。
これが同じヴァンパイアなどの化け物なら驚きはしなかったが、だが、これを人間と呼ぶ訳にはいかない。認める訳にはいかない。こんな化け物より化け物らしい人間など――!
「滅、滅、滅、滅尽滅相」
――大波は引き裂かれ、それでも自身の血の津波は構わず進撃する。
全身に走る激痛だけが現実味あって――あそこまで切り刻まれて死なない司教級シスターは怪物だと悟る。
再び肉断ち包丁を一閃し、『神父』は一方的に攻撃を解体していく。
「はっ、この程度か」
その悪鬼が如く笑みには狂気の色しかなく、司教級シスターは全身全霊を以って肉断ち包丁を縦横無尽に振るう。
対する黒い不定形だった影は今度は明確な形を取っていく。それは幾百の蝙蝠であり、幾百の百足であり、幾百の人間らしき腕へと次々に変化していく。
切り刻み、押し潰し、突き殺し、何もかも粉砕し、風圧だけで幾百の個体を吹き飛ばし、地獄のような只中で司教級シスターはあざ笑う。
「神罰の味をッ、噛みしめろ」
「がはぁっ、くぁ……」
あの司教シスター級シスターが肉断ち包丁を地面に叩きつける度に激震が走り、建物全体が揺れる。
「だ、め……これ、以上は、耐え切れない……!」
ヴァンパイアのパワーはフェルミナ・ストラトスから無尽蔵に魔力を摂取して、更なる暴力暴虐を振るい、司教シスターは真正面から五角以上に渡り合っていた。
あの馬鹿げた重量の肉断ち包丁を、羽の如く軽さで扱っている。怒涛の如く押し寄せるヴァンパイアパワーの猛攻を、それを上回る攻勢をもって殲滅して行っている。
(ま、ずい。このままじゃ――)
まさかの事態だ。唯一人を相手にして此方の魔力枯渇による自滅の方が早い。あのシスターも無傷という訳にはいかず、処々に負傷して血を流しているが、動きが鈍る処か、更に増すばかりだ。
鬼神の如き猛攻は更に鋭く、更に力強く、一閃毎に加速し苛烈していく。
(……駄目、あれとこれ以上戦っちゃ、目的を果たせずに死に果てる……! 逃げないと……!)
此処は建物の三階だが、今の自分なら飛び降りても多少の負傷程度で済む。
気付かれないように背後に下がりながら、窓辺に手を掛けて――弾かれる。火傷じみた痛みが掌に生じる。
(結界……? 外に出れない!?)
心の底から絶望が鎌首を上げる。
今のヴァンパイアパワーではあの司教シスターはは殺せない。
司教シスターではヴァンパイアパワーを殺し切れないが、エネルギー源である『司教シスター』より先に、フェルミナ・ストラトスの魔力が力尽きる。
長期戦ならば自分が遥かに先に枯渇死する。
数順先に逃れられぬ死が見え隠れする。一体どうすれば、どうすれば――その時、元々丈夫じゃなかった建物が丸ごと倒壊した。
「きゃっ!」
フェルミナ・ストラトスは幾多の破片と共に墜落していく。
その光景を『司教シスター』は冷めた眼で、ビルの上から見下していた。
「――っ、ぁ……あぁっ、がっ……」
――血が、足りない。
魔力が足りない。身体の感覚が徐々に無くなって来ている。
ぼろぼろの身体では歩く事すらままならず、その歩みを牛歩の如く遅める。痛覚に異常を来たしたのか、自分の存在が不明瞭なまでに浮いている。
ヴァンパイアパワーは健在なれども、自分の精神は唯の一回の戦闘で壊れようとしている。
まだ倒れる訳にはいかない。
此処で立ち止まれば、怨敵まで届かない。歩く。ひたすら進んでいく。辿り着いてしまえば大丈夫だ。後は残りの生命を燃やし尽くすのみ。
それでフェルミナ・ストラトスの復讐は果たされる。
(『ボス』に、感謝しないと――)
もし、自分が彼の助言を聞かずに『儀式の完成』を求めていれば、自分は復讐を果たせずに自滅しただろう。
分不相応、自分には一つの事を成すので精一杯だ。
二つを追って二つとも成せる道理は無い。
片方さえ満足に熟せないでいるのだ。
最初から一つに絞って、正解だっただろう。
司教シスターが降りてくる。司教シスターは今まで出遭った中で最も濃厚な血の香りを漂わせた悪鬼羅刹は無表情に佇んでいた。
「カムイキリト君を殺した人は誰?」
ヴァンパイアパワーを溢れんばかりの憎悪を籠めて問い掛けた。
長年の疑問に解答を得て、私は遂に復讐相手の下に辿り着く為に。
「……ふん、カムイキリトを殺害した者は既に自刃している」
「……え?」
返って来た言葉は余りにも予想外であり、思わず思考を停止させてしまった。
「正邪相殺――悪を殺せば善も殺す。敵を一人殺せば味方も一人殺さねばならぬ。怨敵を殺して復讐を成就すれば、返る刃は己を貫く」