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第3話 『例のお店』



 翌朝――山縣は、いつもと同じように、六時に起床した。その後、庭に出て槍を構える。幼い頃は槍で生きていこうと考えていたほどで、山縣は槍の腕前に長けている。血腥い動乱が終わった今でも、毎朝槍を揮う習慣は変わらない。

 既にすっかり夏の気配がする。鍛錬後、濡れた布で体を吹きながら、山縣は細く長く息を吐いた。その後は着替え、こちらも毎朝と同じように午前七時に朝食をとり、馬に乗って仕事へと出かけた。

「山縣君」

 すると伊藤が待ち構えていた。人目があるため、わざとらしく距離がある呼び方をするのだが、伊藤の表情が朗らかな笑みであるから、その効果はあまり高くはない。

「何だ?」
「日曜日、空いてる?」
「ああ」
「じゃあ、土曜日の夜――例のお店で」

 伊藤が瞳を輝かせた。どの店かというのは、聞かなくとも山縣にも分かった。恐らくは、富貴楼だろう。しかし息を飲んだ。慌てて周囲を見ると、そちらもまた物珍しそうに山縣を見ている。

 伊藤の口から出る『店』は、基本的に夜の蝶が舞うお店である。しかし山縣が色事を好まない事は、既に多くが知っていた。だから純粋に珍しいと多くの者が奇異の目を向けたのだが、何人かは『伊藤と山縣が会談をするのだから、何事か密談があるのかもしれない』と、考えた。

 山縣が頷く前に、軽く手を振って伊藤は歩き去ってしまった。苦々しい思いで、断りそびれた山縣は唇を噛む。

 さて、その日は、散々だった。

「――それで、陸軍卿」
「何か?」
「『例のお店』って、何処ですか?」

 妙に来客が多く、しかも用件が急ぎではないと思っていたら、その全員が、最後にこのような本題を切り出すのだ。職場中が、『例のお店』に興味津々らしい。

「……伊藤に聞け」
「伊藤さんは、『秘密』だの『良いお店』だのと濁すばかりなんですよ。教えて下さい!」
「下らないお喋りをしている暇は無いんだ。帰ってくれ」

 こうして山縣は、苛立つように客人を追い返した。
 この繰り返しであるものだから、散々なのである。
 そう考えていたら、配下の密偵まで、その話題を切り出した。

「陸軍卿、どちらなのですか? せめて我々にくらいは……」
「……富貴楼だ。誓って俺は、妻一筋だ」

 山縣の愛については誰も問いかけていなかったのだが、山縣の口からは自然とそう溢れた。山縣は、あまり周囲には見せないが、既に愛妻家だと皆が知っている。しかし普段は、照れくさいのか、山縣はそれを見せない。

 言ってから、山縣本人も気づいて、僅かに頬に朱を指した。

「あ、いやその……と、兎に角……ちょっと伊藤と出かける事になっただけだ」
「何か、重大な密談をなさるのですか?」
「心当たりは無いが……」

 前回出かけた時の事を回想しながら、山縣は何処か遠くを見るような目をした。貴重な一晩を、まさかまた雑談のためだけに費やすのか――そう考えると、生粋の仕事人間である山縣は無駄に思えた。



 そんな心配を抱えたまま土曜日が訪れた。午前中は仕事があったため、山縣は夕方近くなってから、列車に乗った。何気なく貸座布団に指で触れる。渡井八太郎という人物が、列車の客に座布団を貸す店を出しているのだ。座布団一枚が、八厘(りん)である。

「最初から付いていれば良いんだが」

 何気なく呟きながら、山縣は、鉄道頭がしらの井上勝の顔を思い出した。彼もまた長州五傑《ちょうしゅうファイヴ》の一人だ。伊藤や井上馨、山尾と遠藤らと共に、英国まで密航した事があるのである。山縣も一年ほど遊学はしたが、それは公的なものであったし、彼らのような勇気は無いと、山縣本人は考えている。

 こうして富貴楼へと到着した頃には、すっかり陽が落ちていた。

「遅かったね、狂介」

 案内された部屋には、既に浴衣姿の伊藤の姿がある。前回と同じ部屋だった。

「お前が早いんだ」

 思わず山縣が言い返すと、室内にいた芸妓達が吹き出した。二度目であるから、山縣も今回は少し慣れていた。先日よりは、気楽だ。

「人払いは……しないんだろうなぁ」
「しないよ。それより、富貴楼もたった数日で、有名になったとは思わないかい?」

 伊藤はそう口にすると、悪戯っぽく笑った。口角が持ち上がる。

「――『ここだけの話、富貴楼だよ』って僕が言うとね、みんな目を輝かせていたんだ」

 それを見て、山縣が呆れたような顔をした。

「随分と楽しそうだな。俺には、いい迷惑だったぞ。何も俺が相手でなくとも良いだろ」
「狂介が一番、衝撃的だと思って」
「大久保さんや木戸さん、西郷さん。俺よりもずっと迫力があるんじゃないか?」

 座りながら腕を組み、山縣が溜息をつく。

「女遊びという意味では衝撃は、狂介より少ない。別の意味では、迫力がありすぎて、気軽に誘えない」
「お前には、一体俺がどう映っているんだ? 俺を気軽に誘って良いと、いつから勘違いしていたんだ」

 山縣は酒盃を手にしながら、引きつった顔で笑ったが、伊藤には気にした様子が無い。二人のやり取りにクスクスと芸妓達が笑いながら、酒を注ぐ。扉が開いたのはその時だった。

「失礼致します」
「やぁ、お倉。今日は大繁盛みたいだね」
「ええ。皆様、『伊藤様と山縣様がおいでになっているか』と、そればかりですよ」

 お倉の言葉を聞いて、山縣は眉を顰めながら酒を煽った。伊藤は、してやったりといった面持ちだ。そんな二人を、悠然と微笑みながらお倉が見やる。視線が合ったので、山縣はするりと顔を逸らした。

「大した話が無いんなら、今日はすぐに休む。俺に睡眠時間をくれ」
「狂介は働きすぎなんだよ。たまにはほら、息抜きも大切だよ」
「……息抜きをする時間で、俺は睡眠をとりたい」

 山縣がそう言うと、お倉が奥を見た。

「お布団をご用意致しますね」
「一人で寝るつもりだ」
「分かっております。山縣様はお疲れなのでしょう?」
「その通りだ」
「――奥様が眠らせてくれないわけでも無さそうですね。寂しいこと」
「どういう意味だ?」
「枯れていると申しますか」

 お倉の言葉に、山縣は乱暴に酒盃を置いた。

「来年には、子供が生まれる事になったが?」
「え? 本当かい? 狂介、おめでとう」
「あ……ああ」

 勢いで口走ってしまった山縣は、一瞬でも冷静さを欠いた自分に驚いた。お倉は表情一つ変えずに、今日は終始微笑している。他者の感情を揺さぶるのが上手いらしい。食えない相手だなと、改めて山縣は感じる。

「奥様のお話、もっと伺いたいです。ねぇ、みんな?」

 お倉が言うと、芸妓達が口々に賛同した。我に返った山縣は、思わず片手で唇を押さえて赤面する。すると伊藤が楽しそうに笑いながら、己の酒盃を煽った。

「狂介、聞かせてあげなよ」
「な、何を……友子は、別に……普通だ」
「普通に、可愛いって事?」
「黙れ!」

 動揺している山縣を、皆が見る。その視線を受けて、どんどん山縣が赤くなっていく。それを誤魔化すように、山縣もまた酒を口にする。

 結局、睡眠をとるはずが、酒の肴にされた夜だった。


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