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第19話

「それで私にも森下君にも、見えなかった」熱田氏は続ける。「こういうのは、初めてだわ。こんなやり方をする霊には、初めて遭った」
「――」私はまた小さくうなずいた。
 なるほど、霊にも霊それぞれのやり方がある、ということなのだろう。
「お兄さんは、あっくんの……堺田篤司の身体の中に入って、彼のあなたに対する暴力を止めた」
 熱田氏が相も変わらず確認復唱している。
「あなたの力で」
 趣味か。このおばさんの。
「具体的に、どうやって?」
「兄の魂を、ダイモニアとしてあっくんに取り込ませました」あきみが、ますますもって低く答える。
「ダイモニア?」熱田氏が、立てかけた太い腕の横に顔を並べるように突き出して、問いかけた。「ダイモニアというのは? 霊の一種?」
「霊というか……人と、神の中間的な存在です」
「へえー」あきみの答えに対し、熱田氏はマンボウが口紅を引いたような口で感心した。「つまりそれが、あなたの“力”ということなのね」
「はい」あきみが、小さく頷く。
「お兄さんは亡くなったの?」熱田氏が更に質問する。
 あきみは少し間を置いたあと「はい」と、頷いた。
「そしてお兄さんは今、ダイモニアとして堺田篤司の中にいるというわけね」
「はい」
 あきみが答える。低い声だ。風邪をひいているのか。男のようだ。
「彼の中で、何をしているの?」熱田氏が質問する。
「今はただ」あきみはゆっくりと首を振った。「あっくんの中で、呼吸をしているだけです」
「呼吸?」
「アニマとして」
「アニマっていうのは?」
 あきみの口から次々と繰り出される専門用語に、熱田氏はついていけていなかった。
 やはりこのおばさんは、エセなのか。
 お祓い詐欺なのか。
「魂の……元というか、原料のようなものです」
「へえー」また、化粧マンボウの口が感嘆の声を発する。
 まったく、勘弁してくれよ。
 あんた、何屋なんだよ。
「じゃあお兄さんは、今現在はもうあっくんを止めたり、彼に攻撃したり、していないのね?」
「はい」
 嘘だ。
 私の唇だけがそう動いた。
 だが声は出てこなかった。
「その、はずです」
「単刀直入に聞くけれど、あなたがお兄さんを殺害したってこと?」熱田氏が訊いた。
「──」あきみは固まった。
「お兄さんがダイモニアになるためには、死ぬ必要があったってことよね?」
「はい」あきみがまた頷く。「兄は……ダイモニアと化すために、薬で自殺しました」
 しばらく、熱田氏もあきみも私も、ものを言わなかった。
「自殺」復唱したのはやはり熱田氏だった。「お兄さんが、自らそう、意図して」
「兄は、私の力のことを知っていたので、それで」あきみは再び震え始めた。「俺があつしをコントロールするから、あいつの中に入れろって」
「へえー」熱田氏の返答は、馬鹿かと思うほど普通だった。「そう。そういうことだったのね」それから彼女は、まぶしそうに目を細めて私を見た。
 何のことだろう。
 否、すでに私にとってはどうでもよかった。
 私は熱田氏の、たっぷり肉のついた喉元に向かって、両手を伸ばした。
 そうだ。
 今の私には、足だけでなく、手があるのだ。
 いい加減このおばさんの存在にも、辟易だ。
 こいつを始末してしまえば、後は好きなだけあつしを蹴り続けていられるのだ。
 呼吸しているだけだって?
 あきみ。
 お前、知らないんだな。
 そこまでの知識は、持ってなかったんだな。
 よし。
 兄ちゃんが、教えてやるよ。
 ダイモニアはな、割と完全無欠なんだよ。
 うん。
 自分でいうのも、なんだけどな。
 足で蹴ることだって、ほらこうやって、手で喉首を締め上げることだって、自在に操れるんだ。こいつの体を。
 だってこいつの中枢神経に、今俺は乗っかっているわけだからな。
 俺が動かしてやってるから、こいつはヒトとして生きて動いていられるわけだ。

「あつ……た……さん」

 苦しげな、男の声が聞えてきた。
 どこから、だろう。
 まるで、喉首を締め上げられているような、苦しそうな声……
 俺が、締め上げているのか?
 いや、違う。
 俺が締め上げているのは、熱田という中年のおばさんの喉首だ。
 男ではない。
 男……そうだ。
 この声は、あきみの声だ。
「あつた……さん……」
 あきみが、熱田氏を呼んでいる。
 よせ、あきみ。
 熱田というババアは、兄ちゃんが始末してやるから。
 もう、関わり合いになるのはよせ。
 この女は、穢れている。
「ん? 森下君?」
 熱田氏が、普通に答える。
 え? 普通に?
 どういうことだ?
 だって今、俺がこいつの喉首を、両手でもって、こう――
 それは、腕だった。
 熱田氏の、大根のような前腕を、俺の両手が締め上げているさまが、目の前に現れた。
 おお。
 その時の俺は、素直に率直に、感嘆――感動、していた。
 腕、だったのか。
 腕、だったとは。
 いや、なんてほど良い太さの、腕だろう。
 丁度、男の手のひらふたつ分の円周の。
 そう、普通の人間でいえば丁度、首くらいの太さの、
 前腕。
「どした? 森下君」
 熱田氏は腕を俺に締めさせたまま、顔だけ横に、あきみの方に向けて訊いた。
「この、人……おいだし、て、もらえます、か」とぎれがちに、あきみは男のかすれ声で答えた。「熱スペ……はずれて、今、すげ……パニク……てて」
「ああー」熱田氏がうなずきながら、サイレンのような声を上げた。
「熱田スペシウムをはずしたから、あっくんが見えるようになっちゃったのね。あきみさん」
「嫌だ。やめて」あきみは金切り声で叫んだ。「来ないで。嫌だ」
「はいはい」
 熱田氏は、私が締め上げている方の腕で持っていた数珠を、反対の手で取り上げ、あきみに向かってまっすぐに差し伸べた。
 そうしながら、何かの経を短く唱え、
「帰りなさい」
と、命令する。
 途端に、あきみの体ががくりと前のめりに崩れた。
 が、すぐに起き上がり、立ち上がったかと思うと、あきみは――
 俺の右側の耳の辺りに、目にも止まらぬスピードで、ミドルキックを見舞った。

 きいいいいん。

 強烈な金属音を聞きながら、俺はフローリングの床の上に倒れた。
 無論両手は、熱田氏の首――と思いつつ締めていた前腕から、ふりほどかれた。
 すぐに立ち上がろうとしたが、その時俺に熱田スペシウムが最大レベルの出力で――つまり今までとは比較にならないほど大量に、照射された。
 というか、ぶち当てられた。
 目に見えもしないその“なにか”が、ものすごい勢いと厚みでもって、俺の全身にぶち当たり、俺は再び床の上に、仰向けに転がされた。
 微塵も、身動きできなかった。
 天井しか、見ることができない。
 そして、その時俺の脳内にある言葉はただ一つ

「殺してくれ」

だった。
 この世のものとは思えない、苦しさが俺中を襲っていた。
 圧迫感、とか、倦怠感、とか、疼痛、とか、あと呼吸困難、とか、恐らく心室細動、とかも、とにかく体の異常さを示す症状がすべて混ざくり合って、俺に一斉攻撃をしかけてきているようだった。
 早く、開放してくれ。
 ここから、出してくれ。
 消してくれ。

「やめてよ、あっくん」

 あきみの声──本来の、鈴を鳴らすようなか細い声。
「痛いよ。やめてよ」
 そうだ。
 俺はあつしの中に入って、初めてあきみがこいつから受けていた暴力の真実を目の当たりにしたんだ。
 あつしの記憶を見て。
 顔中に痣を作っていたあきみ。
 こいつはその顔の記憶を鮮明に持っていた。
 持っていやがった。
 あきみの、泣きながら許しを乞う声の記憶も。
 俺はこいつをあきみの元から遠ざけ近づかないようにだけするつもりだったが、それを見てしまった以上到底それだけでは許せなかった。
 蹴り続けた。
 こいつの命が尽きる日まで、蹴っ飛ばし続けてやろうと思っていた。
 でも、もういい。
 もう、いいから。
 もう、やめますから。
 だから、消して下さい。
 俺を。

「どしたの、森下君?」遠くの方から、熱田氏の声が聞える。「早く、楽にしたげて」

 そうだ。森下。
 早く俺を楽にしてくれ。早く!
「あーと」森下氏の、気まずげな声が続く。「あきみさんのお兄さんの、名前確認すんの、忘れてました」
「もーう」熱田氏の、呆れ果てたという風情の声がしたが、それであっても熱田スペシウムの凄まじさ加減に微塵たりとも変化はなかった。
 ああ。
 プロだ。
 この人は。
 熱田スペシウムの、プロなのだ。
 なるほど、この人なら。
 俺を浄霊することぐらい、たやすいのだろう。
「もう、あれでいいわよ。あきみさんのお兄さん、で」
「はぇ」森下氏は例のだるそうな返事の後、風のように「すいません」と囁いた。
 薄く開いた俺の目に、天井を遮って森下氏の眼鏡の顔がぬうと現れた。
 それから更に、彼の顔を遮って彼の手が現れ、それは俺の額に当てられた。
 その向こうで森下氏は、別の方の手の人差し指と中指を揃えて唇に当て、ぶつぶつと経を唱え始めた。
「あきみさんのお兄さん」
 俺を呼ぶ。
 俺は、返事をしようとした。
 だがその希望は、かなわなかった。
 俺の唇もご他聞にもれず熱田スペシウムの支配下にあり、つまりはぴくりとも動かすことができなかった。
 眼球を動かすことも、瞬きをすることも、できなかった。
「堺田篤司さんの体から出て、行くべき場所へ行ってください」
 森下氏はそう言ってからまた経を唱える。
 少しずつ、俺を締め付けるものが――というか絞り上げるものが、緩んでくるのがわかった。
 ああ。
 いいぞ。
 この調子だ。
「もうそこは、あきみさんのお兄さんのいる場所じゃありません」
 うん。
 そうだな。
 もう、こんな所にいなくても、いいじゃないか。
 もっと明るくて、広くて、空気のうまい場所が、あるはずだ。
 居心地の好い、場所が。
 どんどん、体が軽くなってくる。
 もう少しだ。
 瞼が震え、俺は目を閉じた。
 閉じることが、できた。
「あきみさんのお兄さん」森下氏が、また俺を呼ぶ。
 なんとなく、それが“最後”だという感じが、した。
「楽に、なってください」
 はい。
 そうします。
 次の瞬間、俺の体はすべての呪縛から解き放たれるかのように、重量と質量を完全に失った。

 あ き み

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