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第17話

「やめて……痛いよ」かすれた声で、彼――つまり森下氏――は続けた。
 これが、足の声、なのか?
 私は内心でそう問うた直後に、違う、と内心で答えを出した。
 これは、あの女性の声だ。
 いや、声そのものは森下氏の声だが、今彼の口から出てくる言葉は恐らく、私が聞いた正体不明の女性のものなのだろうと思われた。
 かすれ、疲弊し、最後の力を振り絞るかのように細くはかなげな、声。
 今にも死にそうな、若い女性の声。
 私を蹴り、踏みつけたあの暴虐の塊である足の声とは、とても思えない。
「大丈夫」熱田氏が穏やかな声で話しかけた。「あなたに、危害は加えないわ。安心して」
 森下氏はうつむき、目を閉じていた。
 唇は少し開き、細かく震えていた。
「ほら。もう、痛くないでしょ?」熱田氏は言いながら、ゆっくりと右腕を体の前に立てようとした。
 私は思わず、ハッと息を呑んだ。
 熱田スペシウムだ。
 熱田氏はちらりと私を見たが、構わず腕を持ち上げ、森下氏に向かって“照射”を始めた。
 私は目をしばたたかせ――何も、本当に“光線”が出ているのが見えるわけではないのでそんなリアクションをする必要もないのだが、そうせずにはいられなかった――、森下氏が床にのたうち回って苦しむさまを想像した。
 だが私の思惑は外れた。
 熱田スペシウムを当てられた森下氏――というか恐らく、今彼に乗りうつっている女性の霊――は、目を閉じたまま、その面に微笑を浮かべたのだ。「あったかい……」あまつさえ、彼女はごく小さな声で、そのように呟いた。
 ええー。
 私は思わず、声に出さずに口元だけで驚愕の言葉を発した。
 あったかい?
 熱田スペシウムが?
 え、気分、悪くならないですか?
「気持ちいい……」女性の霊は、また呟いた。
 どういうことだ?
 熱田氏は人によって、照射する光線の種類を変えているのか?
 そうだとしたら、不公平じゃないか。
 俺にはあんなにけったくそ悪い思いさせた癖に、なんでこの女には気持ちいい光線を当ててんだよ。
 まじ種類変えやがって、ドリンクバーか。光線バーか。
 金返せ。光線ババー。
 無論それは私の心の中だけで叫ばれたものだったが、私は小学生のように唇をとがらせ、眉をしかめていた。
 納得いかねえ。
「少し、お話聞かせてもらえるかしら」熱田氏は、熱田スペシウム体勢のまま話しかけた。
「……」森下氏は微笑を閉ざし、少しの間うつむいて無言でいたが、やがて「はい……」と、やはり小さな声で答えた。
「あなたは今、どこにいるの?」熱田氏は、質問した。
「マンションの……部屋です」女は答えた。
 私はうなずいた。
 そんなの、わかりきってるじゃないか。
 ここは私のマンションの部屋の中だ。
「あなたはいつから、そのマンションの部屋にいるの?」
「……五年前、から」
 私は目を天井に向けた。
 私がこのマンションに住み始めたのは何年前からだったか。
 少なくとも、五年より最近から、ということなのだろう。
 ええと、五年前というと……
「誰かと、一緒に住んでいたの?」熱田氏のさらなる質問に、私の考察は断ち切られた。
「……」女はなかなか返答しなかった。「……いいえ、ずっと一人……です」
「一人暮らし、しているのね」熱田氏は確認し、それからしばらく、森下氏を見つめていた。
 ずっと、熱田スペシウムは照射され続けているようだった。
 森下氏の方も無言で、固まったかのように微動だにせず、うつむき続けていた。
「あっくん、というのは」熱田氏は、穏やかな声で質問を再開した。
 森下氏の肩が、ぴくりと小さく動いた。
「恋人さん?」熱田氏は小首をかしげた。
「……」森下氏は顔を真下に向け、唇を噛んだ。
“あっくん”について、よほど語りたくないのだろう。
 さぞかし、その男からひどい暴力を受け続けていたのに違いない。
 私は女性が、気の毒になった。
 そういえば、この女性、名はなんというのだろう?
「大丈夫よ」熱田氏は囁くように言葉を続けた。「この光が出ている間は、あなたに危害が加えられることはないから」
「……」森下氏はなおも唇を噛んで黙っていたが、ゆっくりと顔を上げ、元のうつむき角度に戻したあと、小さくうなずいた。「あっくんは……元彼……です」
「もとかれ」熱田氏は復唱した。
 棒読みというかオウム返しというか、この人“元カレ”という言葉の意味、知らないんじゃないかと一瞬思わせるような口ぶりだった。
「あっくんは、あなたに暴力を振るっていたの?」熱田氏は質問を続けた。
 森下氏は、目を閉じたまま、くしゃっと顔をゆがめた。
「大丈夫」再び熱田氏が囁く。「大丈夫だから。私があなたを、守っているから」
 そういえば、足はまったく姿を見せない。
 あっくん――
 私は不謹慎にも、笑いを洩らしそうになった。
 あいつ、「あっくん」って名前だったのか。
 今度私の腰を蹴りにきたら、言ってやろうか。
「あっくん、やめて。痛いよ」
って――
 私はぎゅっと目を瞑り、首を振った。
 ばかな!
 この女性の気持ちを考えろ。
 不謹慎にもほどがある。
 しゃれにならない。
 それはともかく、足がこの場に姿を見せずにいるということは、今熱田氏が、熱田スペシウムによって奴の出現を封じ込めているからなのかと、私は考えを軌道修正した。
 私にとってそうであるのと同様、足にとっても、あの光線は気分の悪いものなのだろうか。
 もしかしたら、男にとっては害になるもので、女にとってはよいものであるとか、そんな性質をもつものなのか。
「私は……あっくんに、何度か殺されかけました」森下氏は静かに話しはじめた。「何かのきっかけで……突然、何かが取り憑いたように人が変わって、狂ったように暴力を振るいだすんです」
「きっかけとは?」熱田氏が、やはり静かに質問する。
「たぶん……嫉妬、だと」
「嫉妬」熱田氏は、女の答えを復唱した。
「はい」
 森下氏は「はぇ」ではなくはっきり「はい」と答えた。
 そのことからも、今話しているのは彼本体ではなく女の霊なのだと推察された。
「あっくんの、私に対する独占欲は……普通じゃなかったと思います」
「そう」熱田氏は超ピンクの唇をすぼめて森下氏を見つめながらうなずいた。「例えば他の男性と、話すだけでも怒るとか?」
「はい」森下氏もこくんとうなずいた。「実の兄と、電話で長話した後も……殴られたことがあります」
「まあ……」熱田氏は、眉をひそめた。彼女にしては珍しい表情だった。「殴られた?」
「はい」
「蹴られたことは?」
 あ。
 私は、顔を上げた。
 核心を突いた、という思いがよぎった。
 そうだ。あっくんは、蹴り専門の人のはずだ。
「……」森下氏は、少し唇を開いたまましばらく考え、「……たまに」と答えた。
「たまに」熱田氏はまた復唱した。
 たまに?
 私も心の中で問い返した。
 いつもじゃなくて?

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