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第15話

 その理不尽さ加減は、どういうことなのだろう。
 私がそのことに気づいたのは、熱田氏から
「どうして、逃げなかったの?」
と質問された時だった。
 そうだ。
 言われてみれば、確かにそうだ。
 熱田氏ご指摘の通りだ。
 私は、どうして今まで、足に攻撃されるがままになっていたのだろう。
 答えの一部はすぐに出てきた。
 最初の頃の“じゃれつき蹴り”の余波だ。
 私の中でそれは、その現象は“逃げるほどのこと”では、ないことになっているのだ。
 だが、私の中に理由として思いつくものが他にもあった。
 恐怖だ。
 私は、恐くて動けなかった。
 体が、萎縮していたのだ。
 逃げようとすれば、きっと足に殺されるに違いない。
 そんな風に、無意識の内に決め付けていたのだ。
 今にして思えば、痛くはあるが翌日になってみれば物理的な、リアルな傷などまったく受けていないのだから、多分、命に別状もないのに違いない。
 思い切ってがばっと立ち上がり――もしかすると足は一瞬驚いてひるむかも知れないし――間髪を入れず部屋から飛び出してしまえば、あるいは逃げられたのではないか。
 まあ、夜の夜中だから、飛び出した後どうするのか、という問題も残ってはいる。
 では今夜から、夜寝るときは財布と携帯を傍らに用意して床に就くことにした方がいいのかも知れない。
 逃走資金と、通信媒体を持って。
「まあ、ともかく無事で何よりだわ」熱田氏は元気溌剌な声を張り上げ、ニッコリと笑った。「あ、それでこちらが、先日お話しした霊媒体質の子。森下君っていうの」
 そう言って、彼女の左斜め後ろに背後霊のごとく佇んでいる、眼鏡の青年を手で示す。
「あ、どうも。森下です」
 その眼鏡の男はぼそぼそと自己紹介をし、約二センチほど会釈した。
 私はプラス三センチ、つまり五センチほどの会釈を返した。
 場所は、駅の中だ。
 会社帰りの人間が急ぎ足で通り過ぎてゆく。
 我々は改札を入ってすぐの円柱の傍で落ち合ったのだ。
 そこから三人連れ立って、私の住まいに向かうことになっていた。
「ね、この時点で、何か見える?」
 熱田氏は、森下氏に訊ねた。
 私は一瞬、彼女が“エセ浄霊屋”なのではないか、と思った。
 熱田スペシウムなど、本当は出せないのではないのか。
 本当は人に頼らなければ、生き霊も死に霊も見えやしないのでは。
「……」
 森下氏は、眼鏡越しにじっと私を見た。
 かなり度数の強そうなレンズの向こうの目は、くっきりとした二重だが何か眠そうな、平たく言えば垂れた目だった。
 などと思っていると、突如森下氏は眉をひそめた。
 私は腋下に汗を掻いた。
 思考が読まれたのか。
「何か、」
 言いかけて森下氏は言葉を詰まらせた。
 だが私を見る眼差しは動かない。
 その内彼は、ゆっくりと、首を傾げはじめた。
 右に傾げ、次に左に傾げる。
 ゆっくりと。
「いるの?」
 熱田氏も私を探るように見ながら、森下氏に訊ねた。
 私は、さり気なく周囲を見回した。
 二人の男女に観察されている、くたびれたサラリーマンという構図は、道行く人々の好奇の目を止めたりしないだろうか。
 だが、会社帰りの人々は他に考えなければならないことがそれぞれにあるようで、私たちはまったく、人の目を引くことなどなかった。
「なんか」森下氏は復唱した。「んー……いる、というか、あります、ね」
「ある?」
 熱田氏と私の声が見事にシンクロした。
「はぇ」森下氏は「はあ」と「はい」の中間語で返事をし、自分の頭を右手の人差し指でつついた。「大脳辺縁系が、妙にびくびくしてます」
 私は、何も言えなかった。
 ただ、黒目を左右にきょときょと、数回往復させただけだった。
 本音を言えば、
「はあ?」
と、思い切り顔をしかめて訊きたかったのだが、抑制した。
「まあ」熱田氏は、森下氏の言っていることの意味がわかるのか、目を丸くして少し身をそらせた。「つまり?」いや、やはり彼女にもわからないようだった。
「大脳辺縁系って、平たく言えば喜怒哀楽をつかさどる部分なんですけど」森下氏は熱田氏の方に向き直って、説明を始めた。「そこが、妙に抑えつけられてるっぽいです」
「つまり、感情が?」
 熱田氏が訊きかえす。
「はぇ」
「理性で感情を抑えてるってこと?」
「というよりも、何か理不尽に、無理くり抑え付けられてて、苦しがってるような感じというか」
「脳みそが?」
 ついに私も言葉を差し挟んだ――多少、噴出しつつ。
 霊媒体質というのは、あれか、要するに人の脳みそが透けて見える体質ということなのか。
 なるほどそんな体質ならば私には、断じて備わっていない。
 なるほどそんな能力が必要なのであれば、私が足との対話に失敗したのも、ものすごく当然至極ということになる。
 なにしろ脳みそが見えなきゃ、足と対話できないわけだ。
 足との対話なんか、土台できるわきゃねえということだ。
 そう、私は、爆笑を堪えていた。
 こいつら、何なんだ。
 十三万とかふんだくりやがって。まだ、払ってはいないが。
 大脳辺縁系だって?
 浄霊の話はどこにいったんだ?
 何が熱田スペシウムだ。
 ガキ相手にしてるつもりか。
 ガキ相手に十三万ぼったくる気か。
 こいつら、穢れてやがる。
「まずいわね」
 出し抜けに熱田氏はそう言うと、二の腕を顔の前に立てた。
 ハッと身構えたが、遅かった。
 私はまたしても、真正面から“熱田スペシウム”を食らってしまい、呼吸も困難になるほどの気持ち悪さに襲われた。
 思わず前のめりになったが、森下氏が不自然に見えない挙動で私の体を横から支え、私は“床でのたうちまわりたい”という欲求を実行に移すことができなかった。
 つまり自分の希望とは裏腹に直立したまま、熱田スペシウムの照射を受け続けなければならなかったのだ。
 ごめんなさい。
 子供のように心の中で泣き叫んだ。
 疑ったりしてごめんなさい。
 はい、確かに出てます、熱田スペシウム。
 私が悪かったです。
 もう、疑ったり馬鹿にしたり、しません。
 だから、許してください。
 もう、やめてください。
「今はどうなの? その、大脳辺縁系の状態は」
「変わらないです」熱田氏の問いに、森下氏は即答した。「妙ですが……情動の変化は、見られないですね」
「そう」
 二人の声は、どこか遠くから聞えてくるようだった。

「あっくん、やめて」

 か細い女の声が、聞えた。

「どうしてこんなことするの?」

 この、声。
 私は、ぐるぐる回る視界の中、かろうじて思い出した。
 あのときの、声だ。
 熱田氏がうちに来た時、ドアを開けた瞬間聞えた、死にそうな女の声。
 だがその時、気持ち悪さがいよいよピークに達し、私はぎゅっと目を瞑った。
 瞑る前に見えたのは、眠そうだった二重の垂れ目を最大限に見開き、驚愕の面持ちで私を見る森下氏の顔だった。

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