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29 それからの日々

「スイーラ!」

 擦りむくどころでは済まないだろうと思って、私はすぐさまスイーラの体から降りた。その声で、気絶していたディータも目を開ける。

「ああ……スイーラ……こんなにボロボロになって……」
「お前、ギリギリだったんだな……」

 地面に力なく横たわるスイーラの体は、無数の傷ができていた。
 よく考えれば、この毛しか生えていない柔らかな体でずっと、あの鱗が生えた邪竜にぶつかられていたのだ。
 傷ができても、そこから血が出ても、この子は噛みついて離れなかったのだ。
 小さくてもまだ未熟でも、この子は立派に聖なる竜だったのだ。
 この子のおかげで、私たちは無事に聖女と英雄として役目を全うすることができた。
 私は何とかこの子を救おうと、残り少ない魔力で治癒魔法を発動した。

「やだ! 待って……!」
「なんだ!?」

 魔法をかけ始めると、スイーラの体が光に包まれた。その光はどんどん強くなり、そして小さく収束していく。
 
「スイーラ! やだ……行かないで!」

 触れているスイーラの体がどんどん小さくなっていくのがわかった。でも、光が眩しすぎてその姿を見ることができない。
 このままでは先ほどの邪竜のように霧散して消えてしまうのではないかと思って、私は必死でしがみついた。
 私はこの子をねぎらってやらなければならないのだ。ご褒美に大好きなものを食べさせてあげなくてはならない。たくさん褒めて、うんと甘やかさなければならない。
 だから、消えてもらっては困るのだ。

「……イリメル、大丈夫だ。目を開けてごらん」

 どのくらいそうしていただろうか。
 目を閉じてギュッとスイーラにしがみついていると、ディータに声をかけられた。
 おそるおそる目を開けると、もうそこには大きな白い竜はいない。
 その代わり、私の腕の中にはあのよくわからない、子豚のような子馬のような生き物がいた。背中の翼も、すっかり縮れてしまっている。

「スイーラ……? スイーラだ……」
「蓄えた力を使い果たして、また眠ってしまったみたいだな」
「よかった……息してる」

 口元に耳を近づけるまでもなく、スイーラからは「すぴー、すぴー」という気の抜ける音がしていた。聞き慣れたこの子の寝息だ。それを聞けば、生きているのがわかる。
 この子は戦い抜いて、こうして無事でいてくれたのだ。

「よかった……ああ、本当によかった」

 ほっとしたのと疲れ果てたのとで、私は涙が止まらなくなってしまった。力も出なくて、スイーラを抱えたまま地面に座り込んで泣き続ける。
 思えば、どのくらいぶりにこんなに泣いたのかわからない。
 エーリクとの婚約破棄騒動のときですら、泣けなかったのだ。それに私は、子供のときからこんなふうに泣くことはあまりなかった。
 公爵夫人として相応しい女性であることを求められていたから、心のままに泣くことは許されなかったのだ。
 でも今は、泣かずにはいられなかった。
 大事な大事なスイーラは無事で、大好きなディータも無事で、そして世界の平和は守られたのだから。
 それに、私は疲れてしまった。こんなときくらい泣いたって許されるだろう。

「あはは。そうやって泣いてると……イリメルは、ただの女の子なんだね」

 私があまりにもみっととなく泣くからだろうか。ディータが力が抜けたように笑いだした。
 それにつられて私も笑ってしまったけれど、涙はちっとも止まってくれなかった。

「さあ、帰ろうか。しんどいけど、帰ってゆっくりしたいからさ。それに、アヒムたちも待ってるんだろうし」
「そうですね。……でも、ごめんなさい。腰が抜けちゃったみたいで、全然動けなくて……」

 帰ろうと促されても、私は立ち上がれなかった。そんな私に優しい視線を向けて、ディータがおもむろに屈んだ。

「ディータさん、なにを……」
「俺が運んでやるんだよ。イリメルがスイーラを運んで、俺がイリメルを運んだらちょうどいいだろ?」
「え、あのっ」
「ジタバタすんなよ。俺、痛くされてもアヒムみたいに飛んだりできねぇからな。地道に一歩一歩、歩いて帰るぞ」

 私の戸惑いに構うことなく、ディータは歩きだしてしまった。
 だから私は落とされないよう、彼の腕に体を預けるしかなかった。
 そうしていると、彼の息遣いを、匂いを、心臓の音を感じる。きっと私のものも同じように、彼に感じ取られてしまっているのだ。
 そんなことを考えるとドキドキしてたまらなかったけれど、同時に幸せだった。このままこんな時間が永遠に続けばいいと思うくらい。
 でも、その手の願い事はなかなか叶わないものだ。

「イリメルー!」

 前方から、私を呼ぶ声が聞こえてきた。馬車が走ってきていて、その窓から顔を出した人物が手を振っているのだ。

「お兄様……」

 馬車の紋章が目に入ったときにわかったのだが、それはシュティール家の馬車だった。おそらく、先に帰り着いたミアたちが知らせてくれたのだろう。
 まだディータに運んでもらいたかったけれど、満身創痍なことを考えればありがたかった。

「迎えに来てくださったんですね。ありがとう」
「いや、だって、イリメルまでドMボードに乗って帰宅したら大変だと思って! あのさ、びっくりするよ! 振り回す鞭によって完全にコントロールされた成人男性に乗りこなしたうら若き女性が玄関扉ぶっちぎって屋敷に入ってきたんだよ!? 妹が同じことするかもしれないって思ったら、迎えにくるのは当然でしょ?」

 フランツはどうやらとんでもないものを見せられたのがショックだったようで、その見たものをつぶさに報告しようとする。
 あれは誰にでもできることではないし、私にも当然ディータにも〝その手の趣味〟も才能とないことを伝えたかったけれど、疲れていてそれどころではなかった。

「それにしても、戦いが終わったのがよくわかりましたね」

 馬車に乗り込んで、ディータが感心したようにフランツに言った。

「教会が観測してたんだよ。イリメルたちが出立してすぐ、教会のやつらがやってきて、いろいろ説明してくれたんだけど……よくわかんなかった。でも、戦いが終わったのはわかったからすぐに馬車を出したんだ」
「そうだったんですね。……教会の人々が来たということは、エーリク様たちも?」
「ああ。夜中に逃げ出そうとしてたとこを捕まえて、教会の連中はどうしたもんかと考えてイリメルたちを頼ろうとうちの屋敷に来たってわけらしい。まあ、入れ替わりになったんだが、結果オーライだな」

 フランツの話を聞きながら、やっぱりエーリクたちは口だけで覚悟なんてなかったんだなとか、教会は一体どんな計画を立てていたのかなとか、そんなことを私は考えていた。
 でもそのうちに、そんなことはどうでもよくなってしまう。
 すぐ隣から寝息が聞こえてきて、眠たくなってしまったのだ。
 
「英雄たちの、しばしの休息だな」

 意識を手放す直前、フランツがそんなことを言うのを聞いた。それ以降は私もすっかり眠ってしまって、屋敷についた記憶もなかったほどだ。


 それからの日々は、とてつもなく忙しかった。
 まず、教会主導で邪竜討伐の報告書作りに追われ、英雄と聖女としての国王主催の凱旋パレードに引っ張り出され、エーリクたちの処分を決める内々の査問会に参考人として喚ばれ、スイーラの処遇を巡ってギルドに援護してもらいながら教会と協議を続けていた。
 報告書の作成なんかは、聞かれたことに答えればいいからそこまで大変ではなかった。凱旋パレードも、きれいな服を着せられてニコニコしていればよかったからいい。
 問題は、エーリクたちの処遇についてと、スイーラの扱いだ。
 エーリクたちのことは正直どうでもよかったのだけれど、公爵家から正式に頭を下げられたため、私は彼らのために骨を折らなくてはならなくなった。
 ただの〝イリメル〟としてならそんなことも知ったことではない。でも、〝シュティール侯爵家令嬢のイリメル〟としては、無視できることではなかったから。
 私は査問会で少しでも彼らの罪が軽くなるよう願い出て、彼らに〝教育〟を提案した。
 貴族に生まれた義務を果たそうとしなかったエーリクと、立場も弁えず無邪気さを盾に欲を好きなだけ口にしたレーナには、しかるべき教育が必要だと判断したから。
 教育とは、この国のためにどう生きるべきか身をもって知って考えること――つまり、教会での奉仕作業だ。
 幸いなことにアルタウス公爵家にはエーリクの他にも家督を継げる人は何人もいるから、彼が教会所属になったところで問題はない。彼が公爵家に返り咲くことがないとわかってもレーナの気持ちが萎えないのなら、二人の間にあるのは間違いなく〝真実の愛〟とやらなのだろう。
 別にそれを見届けるつもりはないけれど、これで私は世間的には彼らに罰を下したことになる。これが、公爵家からのお願いだったのだ。
 私が自ら彼らの処遇について願い出ることで、この件を手打ちにしたいというのが公爵家の望みだった。つまり、これ以上の社会的制裁が起きないようにという、公爵家なりの保身なのである。
 馬鹿げているとは思うけれど、貴族なんて面子がすべてだ。それに、どこかの家が世間に舐められるのは貴族社会全体の沽券にかかわるということも、私は子供ではないから理解している。
 エーリクのためでも公爵家のためでもなく、他の真面目に生きる貴族たちのために、私は折れたのだ。
 そう呑み込んでやったことではあったけれど、正直言って疲れた。
 そして、何よりも重要なことがまだ片付いていない。

「あんたたち、本当にわからず屋ですね! ことが起きるまで存在に気づきもしなかったくせに、いざいるとわかるとこれまで世話してた人から取り上げようだなんて、神の信徒が聞いて呆れる!」

 眼鏡の職員さんが、口角泡を飛ばす勢いで神官相手に文句を言っていた。
 このやりとりは、今日でもう何度目かになる。
 教会がスイーラを保護すると言い張って、引き渡しを命じてきたのだ。
 でも私はどうしても渡したくなくて、もしやと思ってギルドに駆け込んだのだ。
 というのも、出発ゲートを使用する関係で、スイーラの存在は私の〝持ち物〟としてギルドの登録証に情報を紐付けていたから、それを利用してスイーラの所有権を明らかにできないかと考えたのだ。
 諸々の事情を話すと職員さんは驚いたりおののいたりしつつも、スイーラが奪われそうになっているという一点ではものすごく怒ってくれ、上長にかけあってまで教会と全面的に戦う姿勢を見せてくれている。
 もともとこの人は教会嫌いだ。絶対に手を抜かずやってくれるだろうという期待を裏切らず、ありとあらゆる角度から教会の落ち度を糾弾してくれている。

「邪竜だとかそれによる瘴気だとか、世間に公表するなりギルドに共有すべき問題を自分たちだけで内々に処理しよう……いや、隠蔽していた連中に、誰が大切なものを預けようと考えるんですか? こっちはね、冒険者をはじめ、たくさんの人の命と安全を預かってんですよ! おたくらが伏せてる情報のせいで、今までどんだけ危ない目に遭わせてきたと思ってんだコノヤロー!」

 職員は、めちゃくちゃに教会関係者をなじる。若干自分たちが負うべき責任についてなすりつけている感はあるものの、大体は正しいことを言っている。
 職員が口にする教会への不信感は、私も抱いているものだった。

「スイーラは邪竜退治の重要な鍵となる存在だから教会が保護したい、この主張は理解できます。でも、この子が洞窟の奥でお腹を空かせて泣いていたのも察知できず、私たちが連れ歩いて世話をしたのも知らず、おそらく邪竜との戦いという成果がなければ存在に気づきもしなかったくせに、すべて終わってから差し出せというのは、あまりに都合がいいとは思いませんか?」
「それは……まことにそのとおりでして……」
「この子が聖なる竜だから、という理由以外に、あなた方が私からこの子を取り上げる正当な主張があるのかと尋ねています」

 私はわざと高圧的に見えるように、スイーラを抱いているのとは別の手で、扇子をわざと開いたり閉じたりしてイライラをアピールしている。ギルドにいるというのに、わざと令嬢暮らしのときに身につけていたドレスを着ている。
 これはミアの発案で、舐められない服装と態度をせよということでやっている。わざわざ演技指導までしてもらった。
 そのおかげでずいぶんと高圧的に見られているようで、教会関係者は終始しどろもどろだ。そして、ひとたび何か言い訳しようものなら職員さんの糾弾が飛んでくるため、若干涙目だ。
 私も本当はこんなことはしたくないのだけれど、可愛いスイーラを守るためなら仕方がない。ミアプロデュースの〝悪役令嬢〟とやらにだってなってみせる。

「教会がこの子を欲するのは、結局のところ権威づけですよね? 邪竜の討伐を果たせなかったけれど、この子を所有すれば面子は保たれますから。――違いますか?」
「ぐっ……いえ、あの、我々としては、その生き物を保護し、次の世代へ繋ぐという使命がありますし、謎の多い邪竜という存在への対抗手段として、研究および監察するのが急務ですので……」
「何も教会だけでそれをする必要はないでしょう? むしろ、無理だったから今回の結果です。そろそろ、どこかと手を組むことを考えていただかないと。そのために、ギルドは存在しているんですから」

 責められるだけだと思っていたからだろう。教会関係者は、私が何かを提案したのをすぐに理解できず、キョトンとした。
 やがて、言われたことがわかると、どうしようかと焦りだす。

「それはつまり、ギルドと協力体制を築けば、聖なる竜を引き渡してくださると……?」
「引き渡すとまでは言わないけれど、あなた方の研究に力を貸すのはやぶさかではないと思っています。私もこの子が大切なので、定期検診は必要だと考えますから」
「わ、わかりました……」
「これ、ギルドと教会が連携するにあたっての提案書です。これが実現すれば、これまで教会だけで回さなければいけなかった問題が解決しますし、ギルド側も市街地での活動がしやすくなりますので」

 これまでさんざん強硬な姿勢を取っていたため、こちらが譲歩したかに見せかけたら乗ってくるのは早かった。
 教会関係者としてはようやく私から譲歩案を引き出せたつもりだろうけれど、私としては最初からこうするつもりだった。
 スイーラは絶対に渡さないし、人が多く暮らす場所でのモンスター討伐を冒険者がやりやすくする、そのために教会を間に挟んだ組織体制を作る――これが目的だった。
 教会関係者は、提案書をほっとした様子で持ち帰っていった。おそらく、上の者に見せても突っぱねられることはないだろう。
 ギルドと教会、どちらにもうまみがあるように話を組み立てていったのだから、うまくいくだろう。

「やっぱりイリメルは強いな。あんなにしつこかった連中を言葉だけで撃退しちまった」

しおり