第1話 恋に落ちた時のこと
さむっ
コートから両手を抜き出して、ハァ……と息を吹きかけた。照明に反射した白い靄が目の前に広がっては消えていく。
改札前の丸時計は17:15を指している。12月にもなると薄暗い上に、コンクリートの床からの冷気が足元に絡みついてくる。
俺は雪本尚希。
写真部に所属する大学4年生。もう就職は決まっているし、卒論も順調に進んでいる。
街はクリスマスを迎える衣替えが進んでいる。残念ながら彼女が居ない俺には今のところ無縁なイベントだ。
でもずっとずっと好きな人はいる。高校で1つ上だった山田桃歌先輩だ。今日はその桃歌先輩に就職祝いをしてもらえる特別な日なんだ。
待ち合わせ場所の改札前にある奇妙なオブジェには、約束の45分も前に着いてしまった。
忘れ物をしても、電車が遅れても、先輩が早く着いても大丈夫なようにと余裕を持ち過ぎたせいだ。
「どんだけ気合い入れてるんだよ、俺は。」と苦笑した。
電車が着くたびに改札からは多くの人が流れ出しては、俺の前を通り過ぎていく。そしてその中の何人かは俺の近くで立ち止まる。
「ごめん、待った？」
「今来たとこ。」
お決まりの会話を交わしては街のネオンに飲み込まれていく、そんな後姿を見送るということを繰り返していた。
恋人の姿を見つけた瞬間に見せる輝いた表情が羨ましい。いつか俺もそっち側に行ける日が来るんだろうかと想像してみたが……、上手く思い浮かべられなかった。
「情けないな。」
ため息交じりの白い息を、小さく吐き出した。
―――
桃歌先輩の事を知ったのは、俺が高校1年生で先輩が2年生の時だった。
写真部の俺たちは生徒会や運動部から依頼されて、文化祭や体育祭、部活の試合などを撮影する。それらの写真は卒業アルバムや学校紹介のパンフレットにも使われていた。
1年生はまず写真の基礎を勉強する。レンズや絞り、シャッター速度などの基本を叩き込まれた。
そして夏休みの撮影合宿では、より実践的な経験を積んでいった。街並み、人、自然とあらゆるものを撮影した。合宿を終えて家に帰ったときには、真っ黒に日焼けしていた。
秋になると新人戦が始まる。写真部は、地区大会の決勝まで勝ち進んでいた女子バスケ部の撮影を依頼された。その試合には俺たち1年生も勉強のために同行することになった。
その頃の俺はそれがどんな試合かも理解しておらず、ただ金魚のフンの様に先輩たちの後ろにくっついていただけだった。
試合会場に着くと試合までまだ時間があるにも関わらず、応援する人たちの試合にかける熱気が伝わってきた。
すごい
周囲を見渡しながら、場違いなところに来てしまったと思った。そして何も考えずに来てしまった自分を恥じ入った。
試合が近付いてくると応援合戦も始まり、その声が腹に響いてくる。そしてその真剣で緊張感に包まれた表情が、俺の心に痛いまでに刺さる。
試合が始まり、応援に加えて指示の声や、キュッキュッという床が鳴る音が、体育館中に響き渡った。
でも俺はその熱さやスピードに全くついていけなかった。どこで何を撮影したら良いかも分からず、ただただ撮影しているフリをしているだけだった。
後半に入っても一進一退が続く試合展開に、俺も引き込まれて見入っていた。
その白熱した試合の中で、あまり身長が高くない桃歌先輩が、大柄な選手を相手にスピードで翻弄している姿に、目を奪われた。
気付いた時には、カメラで先輩を追いかけていた。ドリブルで抜き去る瞬間、ゴール前にパスを入れる瞬間、そしてシュートを決める瞬間。先輩が躍動するたびに、シャッターを切っていた。
そして試合も終盤になり、残り30秒の時点で1点差で勝っていた。でもまだどちらにも転びそうという展開だった。
すると相手チームがドライブで切り込んでレイアップシュートを決めて逆転した。この時点で残りは17秒。
相手チームは全力でディフェンスに戻って待ち構える。
スローインのボールが先輩に渡った。
先輩は慌てるなとばかりに、ドリブルの速度は上げずにゆっくりと進んでいった。
悲鳴にも似たような応援の声が一段と大きくなる。でもこの時の俺には周囲の音は何も聞こえていなかった。
ドクン、ドクン
ただ自分の心臓の鼓動だけがうるさいまでに聞こえていた。
先輩がゆっくりと相手コートに入った。そしてチームメイトに目配せする。その瞬間――スイッチを入れた先輩はドリブルのスピードを上げた。それに呼応するように俺もシャッターを切り始めた。
先輩のパスが3ポイントラインの内側にいる選手に渡った。しかし相手チームからの厳しいマークにあって前を向けずに、一度外にいる味方にパスを戻した。
そしてそのパスを受けた選手は、ノールックでゴール下にカットインしていた先輩に向けてパスを送った。
俺はその瞬間、時間が止まったように感じた。
あ、入る
俺はそのパスを先輩が受けるところからレイアップシュートまで無心でシャッターを切り続けた。俺はファインダー越しにボールがゴールに吸い込まれる瞬間を見ていた。
そして残り時間は2秒。
全員がマンツーマンでマークをする。パスが出されて相手チームに渡るが前を向かせない。
そして試合終了を告げるブザーが、体育館に響き渡った。俺はその瞬間まで一心にシャッターを切り続けていた。
試合の興奮から冷めてきた頃、俺は脱力してその場に座り込んだ。そして自分の目に涙が溢れている事に気付いて、慌てて制服の袖で拭った。
俺たち写真部はそのまま学校に戻った。一眼レフカメラのメモリを学校のPCに保存して、メモリのデータは悪用防止に全て消去するのだ。
だから写真の仕分けは学校でやらないといけない。そこから数日は写真を選ぶ作業が続いた。でも写真を選んでいると、あの試合を思い出して胸が熱くなった。
俺は『決勝点に繋がるノールックパス』『決勝点となったレイアップシュート』『試合終了の瞬間』という3枚を選んで写真部の先輩に提出した。するとそれらの写真は認められて女子バスケ部に届けられた。
数日後、桃歌先輩がふらっと写真部の部室に入って来た。
「この写真を撮った人って？」
ピラピラと俺が撮影した写真を振った。『決勝点に繋がるノールックパス』の写真だった。
「あ、俺です。」と立ち上がった。
そこへあの被写体だった先輩が、軽やかに歩み寄って来る姿に、俺は鼓動の高鳴りを感じた。
「すごくいい写真でみんなも感謝してたよ。君はバスケの事が分かってるね。サンキュ。このまま県大会も優勝するつもりだから、また撮影に来てよ。」
先輩はいたずらっぽく笑って、また戻っていった。俺はその後ろ姿からも視線を外すことができなかった。
そして部室を出る前に、振り返って小さく手を振ってくれた。
その瞬間――
俺は恋に落ちた
