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世界は混沌としているけど、私はひっそりと呼吸をして待ちかまえる。

空はどこまでも清みわたっていて、様々な人の気持ちや感情を吸収しているみたいに暖かかった。私は目を閉じて深呼吸をして、大きく息を吐いた。身体中のありとあらゆるところに酸素が行き届いて、とても気分が良かった。歩道橋のところからマクドナルドのMの看板が見える。ここから歩いて三分半といったところだろう。コーヒーを飲みながらゆっくりとたそがれよう。国道にはたくさんの自動車が走っている。こんなに人は何処へ行こうとしているのか。商談をしたり、挨拶回りをしてご機嫌をとるために一生懸命に励んでいるのだろうか。私はこの土曜の休日に体を休めるべくマックに行こうとしている。今回りの世界ではいろんな状況が生じている。この瞬間にも、殺人やひったくりや詐欺が横行しているだろう。私はそれらを止めることはできないし、そんな被害を防ぐ為にできることは限られている。編集者として読者に心の安らぎを得させる、また、楽しみを与えることが私の役目なのだろう。作品を通して一時の幸福を味わわすことが、きっととても重要なことで、それらの作品から人との温もりというか、感動を与えることが最重要課題だとも思うし、心を打つ物語を作ってもらえるように作家たちを励ますことが私の役目だ。そして今私にできることは、多くの作品を読んで、それらを心の内に取り入れて滋養分を吸収して新しい分野を開拓すること、それが求められるのだ。できるだけアンテナを色々な方向に張り巡らせて送受信すること、そして作家が書いた作品にそれらを反映させること、これがとっても大切なことなのだ。だからこんな休日の時でも仕事のことを忘れないようにしっかりと感受性を鋭敏にして毎日を有意義に送ることがとても大事。今こうしてる間にも数多くの作家たちが人々の心を打つような作品を作ろうと真剣に努力している。悩みながらこの瞬間にも文章をタイプしているのだ。私も頑張らなければ。そうだ、私は一人ではないし、孤独でもない。この日本中で作家が書いた物語を楽しみにしてくれているのだ。考えてみれば、テレビドラマ、映画には原作があってその多くは作家の創造性に依存している。大衆はその物語をまるで自分自身が追体験しているように楽しみにしてくれている。とても重要度の高い職業といえるだろう。産みの苦しみというか、今まで表されていなかったような作品を作り出すというのは確かに難しい。でもそれを乗り越えて傑作を書き記すというのは、本当の芸術を現すということはどんな宝石にも勝る喜びだ。私は自分の心の内に閃(ひらめ)いた思いを作品にすることができないか、作家に提案することもある。そう、今まで誰も考えたことがない物語の原案を作家が作品にすることできないか打診するのだ。とても貴重な機会となる。だから喫茶店にコーヒーを飲みに行くとき、その席に座って隣に腰掛けた人たちの会話のなかに、はっとするような会話が交わされたり、子供が発する些細な言葉にも注意するようにしている。それが大勢の人たちに対する答えだったりすることがあるのだ。だから大衆と繋がる為に様々なシチュエーションをとるようにしている。今こうしてマックに行く時にも、できるだけ会話をしている人たちの席の近くに座るようにしている。
目指していたマックに着くと、海老フィレオのセットメニューを注文した。ホットコーヒーにフライドポテト。二階席に上がって窓側の席に座る。ちょうど国道の見えて、交通量が多く、車が絶え間なく走っている。あまりにも心地よくて目をつぶって微かに聴こえる自動車の走行音がまるで子守唄のようだ。そして隣の席に座っている親子、母親は三十才くらい、子供は幼稚園児ほどで、お互いににっこりと微笑みながらハンバーガーを食べている。とても幸せそうな情景だ。
こんな会話が聞こえてきた。
「ねえ、お母さん、初めてチュウーしたのって何歳の時?」女の子は幸せそうに母親に尋ねた。
「そうね、中学二年の時かな」
「中学二年って何歳?」
「たしか、十四才頃かな、同じクラスの同級生でね。ほんと懐かしいなあ。今ごろ秀くん何してるんだろう?」母親は天井を見つめるように話した。
「どんな感じだったの?」
「うーん、お互いの歯と歯がぶつかってカチカチって音が聞こえた。それが第一印象。それから唇の暖かさが伝わってとても心地好い感触がした。ジーンと心臓の鼓動が早くなってとっても気持ち良かったな。このこと、お父さんには内緒だよ」
「うん、わかった。私たちだけの秘密だね」
「そう、恵美もいつの日か、初めてキスしたら私に教えてね」母親は片目を閉じてウインクして女の子の手をやさしく握った。本当にそれは美しい光景だ。私もまるでその秘密の契約に加勢しているかのように思えてきた。きっとこの女の子は素敵な女性に育ってとてもチャーミングな人になるだろう。そう思わせるものがあった。とても積極的で大人びているし、まだ小さいのに耳にピアスをつけていた。なんて可愛らしいのだろう。すると私が少女を見つめていることに気づいてその娘は不思議なものを見たという表情をした。
「お姉さん、私の顔に何かついてる?」少女は好奇心を抱いているのか、じっと私を見つめている。私はそのとても好奇心がいっぱいの愛くるしい表情に心が癒される感じがした。
「ううん、お嬢さんの顔に、恋がしたいってかいてある。どう?当たってる?」私は少女の純粋な瞳に感動していた。なんてキラキラと輝いているのだろう。どんなダイヤモンドやルビーやサファイアよりも貴重で美しかった。
「じつは大好きな人がいるんだ。お姉さん何でわかったの?」
「私は予知能力があるの。対象としている人の顔を見ると、その人がどんなことを考えているか、一瞬にしてわかってしまう」
「よちのうりょく?」
「簡単に言うと、その人が心の中で考えていることがわかってしまうの。なぜ、そんな能力が備わったのかはわからないけどね」私は少女に対してこんなことを打ち明けていることに可笑しみを覚えた。
「私は今、幼稚園の年長組なの。隣のクラスの手稲くんていう人が好きなんだ。とっても走るのが速くて、とっても笑顔が素敵なの。この前手稲くんの為にお母さんと一緒にクッキーを作ってあげたの。とっても喜んでくれて、その場で食べた。凄く美味しいって言ってた。私も嬉しかった」
「そうなんだ。それはよかったね。私も昔のことを思い出しちゃった。お嬢ちゃんみたいに幼稚園に行っていた頃、好きな人がいた。ほんと家に帰っても、眠る時も、夢の中までその人のことが現れたんだよ。それほど思っていたの。今頃その人はどうしているんだろうってたまに考える。きっと幸せな人生を送っているんだろうなって想像する」
「私も大きくなったらお姉さんみたいな素敵な女の子になれるかな?」少女は真剣な眼差しで私の目をしっかりと見つめて言った。
「そうね、人に優しくなれるなら史上最強のウーマンに変身できる。このことを絶対に忘れないでね」私はその少女の頬に手を触れて言った。
「ウーマンって女性のことだよね。私、知ってる。人に優しくね。忘れないようにする」
少女とその母親は食事を終えると私に手を振って、バイバイ、と言って去っていった。短い間だったけど、とても有意義な時間を過ごせた。見ず知らずの他人と話すということはとても難しいけれど、勇気をだして見れば、そんなことは意外と簡単なことなのかもしれない。自分から積極的にアプローチすること。それはまるで地球外生命を探索することに等しいと言えるだろう。でも、考えてみればそれは意外と簡単なことなのかもしれない。人は実は自分のことを理解して欲しいと思っている。だから今世界中でソーシャルネットサービスがここまで普及しているのだ。みんな孤独で人と繋がりたいと思っている。それなのにどうして戦争や犯罪といった人を不幸とするような事件が頻発するのだろう。これほどインターネットが世界的に広がっているというのに。みんな本当は誰しも人の幸福を願っているのに。お互いに憎しみあうなんてほんと最悪だ。最低だよ。人を人とも思わないで人の不幸を願ったり、傷つけるなんて。私はこれからも人が本来もっている誠実な心を体外に出せるように努力する。きっとどんな悪人にも、そうだよ、彼らにだって愛する人がいて、恋人や両親や自分の子供たちには最高の笑顔を見せるんだ。憎しみあう人にも、抱きしめるだけですべてを忘れて心の底から愛し合うことができるんじゃないか。そう思う。でも実際にそんなことは現実的ではないということはわかっている。そんなことを考えているとコーヒーが冷めてきて飲む気にならなくなってきた。目を閉じて暗黒の舞台に様々な模様が浮かんできた。赤みを帯びた不可解なペンキで塗り潰したようなスライムのようなもの。青く輝くキノコのような形をした不思議な物体。それらはお互いに離れたり近寄って結合したりして、だんだんと肥大化していった。それは金色に光って私の網膜を占領する。目を開けてみると、席に座っている人たちが皆、幸せそうにハンバーガーやフライドポテトを食べていた。私もその人々の幸福感に影響を受けて、温かな気持ちになった。そう、人の持っている感情というものは伝播するのだ。とくに本当の意味で人を安らかにする思いは、例えば小さな赤子の純粋な笑顔はどんな悪人でも一瞬で善人にするほどの魔力と言えばいいのだろうか、そんな効果を発揮する。赤ちゃんか。人々の悪意を相殺するには純粋さが欠かせないのだろうか。でもある意味純粋さを内包しているといえるお年寄りが詐欺にあって騙されるという被害が頻発している。でも、言ってみれば騙される方だって悪い。今時うまい話は無いのだ。今の世の中、純真であれば良いというわけではいけない。警察官のように人の内面を探るといった行為をすることも必要だ。そうしないと容易に人は騙され続けるだろう。
店を出てアパートに戻る。恵太さんがピアノの練習をしているだろう。演奏会が明日都内で開かれるから、とっても楽しみにしているにちがいない。私も一番前の席で聞くことができる。彼の本番での演奏を聞くのは小樽以来だ。とても美しくも心を揺さぶられたことを思い出す。小さなコンサートホールだけどそこはピアニストにとってとても意義のある場所なのだ。新人のデビューする所として登竜門なのだ。この場所から多くのピアニストが華々しい活躍をしている。恵太さんのピアノを演奏する姿が思い浮かぶ。真剣な眼差し、そして軽やかに動く十本の指。きっと明日のステージではみんなを魅了して、スタンディングオベーションで彼の心を揺さぶる演奏を称賛してくれるだろう。とてもドキドキするとともに期待で胸がいっぱいだった。彼の練習を邪魔したくない。もうちょっと寄り道をすることにしよう。どこがいいかな?夕食の食材を買いに行こう。私が得意な豚汁を作ってあげよう。
駅前のスーパーはお客さんで溢れていた。レジの方を見てみると結構な縦列ができている。でも私は脳内妄想を発動して、自分のやらなければならない仕事を処理することができるのだ。野菜コーナーでお目当ての食材をかごにいれて、豚肉はまだ冷凍庫にあることを思いだし、粉コーヒーがもうすぐ切れてしまうことに気づき、キリマンジャロを奮発して買う。確かに香りが違うのだ。スマホが着信を告げていたので鞄から取り出すと、恵太さんからだ。
「もしもし、恵太さん。今、スーパーで買い物しているの」
「そうなんだ。僕は今、ピアノの練習を終えたところ。これから近くを散歩して頭を冷やそうと考えていたんだ。今日の夕食は何?」
「豚汁よ。たまに私が担当している作家さんたちにご馳走してあげて、好評なの。だから楽しみにしていてね」
「そっか。それは楽しみだな。昔、よくお母さんが作ってくれてたよ。とても懐かしい、それこそ母の味って感じだった。思い出すなあ」恵太さんが笑っている様子が見えてきそうだった。
「恵太さん、明日が楽しみだね」
「うん。大好きな人たちの前で演奏できるなんてほんと幸せだよ。なんか脳内麻薬が噴出してる」
「これから帰るからね。あと二十分くらいで家に着くと思うから。コーヒーも買っといたよ。キリマンジャロ、いいでしょう」
「そっか、今日は演奏前の祝賀会って訳だ。ワクワクして眠れないかも。よく言うじゃない。遠足前の小学生が楽しみで仕方なくて眠れなくなるって話」
「大丈夫。私が子守唄でも担当の作家の本でも眠るまで聞かせてあげる。きっと睡眠薬以上の効果があると思うわ」私はレジに近づいていたのでもうそろそろ通話をきりあげることにした。
「じゃあ、これがら精算を済ませるわ。またね」列には大勢の主婦たちがならんでいる。カートにいっぱい食材をいれたかごをのせて待っている。これから愛する家族の為に美味しい料理を作るのだろう。そう思うと見ず知らずの人たちへの関心が溢れてきて心が揺れてきた。でもそんな人たちとはもう二度と会うことがないかもしれないし、ひょっとしたらそういう人たちに少しでも自分の情熱とか知性を分かち合うことができるのかもしれないと思って切なくなってきた。でもそんな思いを抱けるだけで何か心が満たされていく気持ちになった。そうだ、そういう思いを心に沸き上がらせるだけでも自分の心の内に素晴らしく素敵な気持ちを構築することが可能なんだ。この思い、恵太さんに伝えよう。なんか深刻に考えることなんてないのだ。ちょっとした変化、想像、妄想が周りの人たちに影響を与えることができるのかもしれない。私は編集者だ。担当している作家たちに心を開いて自分の啓発された創造力を振り絞って作品を築きあげてもらう。読者の思いに作用する中和剤というか、解毒剤とでもいったほうがよいかもしれない。身体中に巣くっているわだかまりを攻撃して勝利を治めることが作家たちの一番の仕事だ。結局最後にカタルシスにもっていくことさえできればどんな駄文とか文章の質とかは問題ない。心さえ動かすことが全てなのだ。いくら美文を連ねたところで一部の批評家たちは称賛するのかもしれないけれど、多くの読者は人造人間がピアノを弾いているみたいに全然感動は覚えないだろう。それと同じくスーパーコンピューターを使って小説を書くことは将来できるかもしれないけど、そんな物語を誰が読むだろうか。不完全な人間が書くからこそ、そこに魂が宿って読者の心に到達する。
私は買い物袋を両手に持って恵太さんの待つアパートへと向かった。赤い夕日に照り返された空がとても美しい。思わず鞄からスマホを取り出して撮影する。これは今年一番のベストショットだ。これから先こんなに素晴らしく綺麗な風景を見ることができるだろうか。私は札幌生まれでほとんど郊外に行ったことがない。だからよく言われる北海道の雄大な景色をまだ一度も見たことがなかった。いつかは帰省してその広々とした心を洗われるような風景を見てみたい。創造力を駆使してイメージすることも大切だけど、やっぱりこの目に焼きつけたい。きっと何十年も脳裏に刻み込まれていくだろう。よく言われることだけど、富士山が見える土地に住んでいる人に、こんな素晴らしい景色を見られることが当たり前になっているなんて、もっと感動するべきだ。って言うレポーターの言葉を聞くことがあるけど、太陽の方が遥かに凄いと言うことを私は今悟った。要は毎日眺める景色はごく自然に自分の存在が普通のこととみなしているように身近なものとして処理してしまうということだ。そう、太陽は私たちにとってとても重要な役割を果たしている。言ってみれば私たちは太陽によって生かされているとも言えるのだ。また、この地球も私たちにとって揺りかごのような存在だ。いろんな植物や動物を発生させて、それらは本当に彩り豊かで私たちの必要を満たしてくれる。たくさんの食べ物。スーパーに行けば様々な食物が並んでいる。本当に地球というのは偉大だ。そして私はこの地上でとてもちっぽけな存在であることに気づいた。それでも太陽のような凄い星でさえ、一人の人間に比べれば霞んでみえるほどの違いがある。それから私は自分が生きていることの不思議を考えた。宇宙、太陽、地球、月。真剣に生きなければ。せっかくこうして生きているんだから毎日を大切に有意義に歩んでいきたい。将来、なぜだかはわからないけど、大衆にとってとても深い影響を与える作家が誕生しそうな感じがする。今、世の中はいろんな犯罪や悲しみ、不幸で満ちているけど、そんな全てを拭い去ることのできる文学が現れるような気がする。今までにいろんな文化が現れては消えてきたなかで、ルネッサンスなど人々の人生を変える文化が起こることになるかもしれない。私は作家を愛して、大切にして、彼ら、彼女らが本当に満足する形で人々の心に響く作品が書けるように応援していきたい。それには何が必要なのだろうか。わからない。今私にできることと言ったら作家を鼓舞し励ますことくらいしか考えられない。でも、それだけではまだ力不足だ。もっと私にできることがあるだろう。それはなにか。これからその事を真剣に考えなければいけない。私の思考力を全て尽くして考えよう。私の脳のなかに遠くではあるけど一つの煌めきが浮かんでくるのが見えた。それをつかみだす手段が見つからない。でも諦めずに私は自分の全てを注ぎ込んで捕まえていくだろう。たとえそれができなくても。

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