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その②

「そろそろ余裕がなくなって来たのではないか? 俺に斬り捨てられる前に、ナイフをあの小娘に向けたらどうだ?」
 雑に斧を振り上げて男は言う。
「お前がクインガーデナーの最後の生き残りを殺したとなれば、あの女はどんな顔をするだろうなぁ。活かして交渉材料にするより、そっちのほうが面白い」
 勝ちを確信したのか、男は耳障りな声で笑った。声がわんわんと響いて、ジャックは目眩までしてきた。
 だが、倒れるわけにはいかなかった。
 ジャックがここで倒されれば、あとはロランヌとピーがやられるだけだ。ロランヌは動けないし、ピーはこいつとやりあうには能力的に分が悪い。
 だから、ジャックがこいつを倒すしかないのだ。
 ほんの一瞬でも、相手の動きを止めることができれば――大きく距離を取り、懐を探った。
 暗器の数は残りわずか。これをすべて投げきっても動きを止めることができなければ、あとはバローから託された一対のナイフしか武器はなくなる。
「ここは森じゃねぇんだよ、木こりのおっさん」
 煽られてばかりはいられないと、ジャックも悪態をつく。
 本当は、頭も痛くて目が回りそうだ。斧が掠った部分が、まるでそこに心臓があるかのように熱を持って脈打っている。
 それでも、気持ちの上で負けるわけにはいかないと、男が嫌がりそうな言葉を口にした。
「……木こりだと? 俺は王になる男だ! あんな女が国を治めているのが間違いなんだ!」
 予想通り、男は〝木こり〟という言葉に反応した。
 世界を憎むランバージャックのことだ。木こりと呼ばれるのはやはり嫌なことらしい。
「あんたは王になれない!」
「ぐっ……」
 隙が生まれた。そこを見逃さず、ジャックは男の脇腹に斬りつけた。
 これは好機だ。少しでも相手に傷を負わせて勢いを削ぎたい。
 その欲が、ジャックの目を曇らせた。
「……俺は木こりではない!」
 斬りつけてすぐ離れていればよかったのに。ジャックは、男に手首を掴まれてしまった。そしてそのまま、地面に引き倒される。
「うわっ」
「この力こそ王たる証だ!」
 斧が素早く振り下ろされる。この距離で喰らえば命はないと、咄嗟のことでも理解できた。
 だが、身をよじって避けるのがせいぜいで、斧は背中を掠めた。男が追撃の構えを取るのがわかったが、痛みにうまく体が動かない。
 そのとき、ずっと聞きたかった声が聞こえた。
「ジャック」
 声のしたほうを見ると、ロランヌが弱々しく起き上がっている。すぐそばにはピーの姿がある。どうやら彼が何らかの処置をしてくれたようだ。
「目を閉じて、世界を見て!」
「――死ね、ガキ」
 かすれたロランヌの声と、男の低い声は同時に耳に届いた。
 振り下ろされた斧を避けるのはもう無理そうだ。
 ジャックはロランヌの声に従って目を閉じた。その瞬間、すべてを理解した。
 目を閉じて見えてきたのは、薄暗い荒れ果てた庭だ。
 今にも雨が降り出しそうな曇天。吹き荒れる風。乾いた土を、枯れた草が覆っていた。
 ここは冥界の庭だ。こんなに荒れ果てた庭を見たのは初めてだし、すぐに庭の主たる植物が見当たらないのも初めてだ。
 だがここでジャックは、あの男の冥界の花樹を見つけなければならない。
 ロランヌが目を閉じろと言ったのは、冥界の庭を見ろと言うことだったのだ。ここでなら、ジャックが勝てるからと。
 あの男はランバージャックを名乗りながら、実物の斧なんてものを振るっている。冥界の庭を見ることができ花樹に触れられるなら、それを害しさえすれば相手を死に至らしめることができるのに。
 しかし、サジュマン家の人々は刃物によって殺害されていた。そのことは、ずっとジャックにとって疑問だったのだ。
「こんなになるまで荒れ果てさせて……何がしたかったんだよ」
 ジャックは、枯れた草をかき分けた。草だけでなく、古い建物の外壁に這うような蔦まで生えている。それらをブチブチと引きちぎりながら、庭の深部へ手を伸ばす。
「……あった」
 様々なものに覆われた、その奥。そこに一本の木があった。
 鋭い棘に覆われた硬い木。真っ黒な花を咲かせた、薔薇の木。それを切り倒せば、ジャックの勝ちだ。
『ジャック!』
 悲鳴のようなロランヌの声が聞こえた。
 片目を開け、半分だけ現実に意識を戻すと、斧が眼前まで迫っていた。
 冥界の庭と現実世界は時間の流れが異なるとはいえ、もうそんなに時間は残されていないらしい。
 というよりも、もう間に合わないかもしれない。
 それでもジャックは、両手に鋏を出現させた。
『ぐわっ……!』
 胸に痛みが走り、自分の口から情けない声が漏れるのが聞こえた。だが、鋏は幹に届いた。
 刺し違えてでも、こいつは仕留める――決意のもと、ジャックは鋏に力を込める。
 両手をがむしゃらに動かして、葉を、蕾を、細い枝を落としていく。
 切り倒すことが難しいなら、少しずつ弱らせていくのだ。それに、二度三度と繰り返し切れ目を入れていくうちに、幹そのものが弱っていくのを感じていた。
「……お前だけは、絶対に」
 鋏を捨て、ジャックはボロボロになった幹を掴む。
「この世界から」
 鋭い棘が手のひらを刺す。痛みに呼吸が荒くなるが、それが現実の痛みなのかどうかもわからない。
「消し去る――!」
 渾身の力を込めると、幹はミシミシと音を立てて折れ始めた。
『……な、なにを……?』
 片目を開けると、男が苦悶の表情を浮かべて仰け反っているのが見えた。
「ぐぇっ……!」
 手のひらの痛みに耐えてさらに力を込めると、男が力なく斧を取り落とした。
 その直後、ジャックの体は何かに引っ張られて後方へ勢いよく引きずられた。
「ジャック!」
 引きずられていった先にはロランヌがいて、涙で濡れた目でジャックを見つめていた。その隣にいるピーの手に握られた種から蔓が伸びていて、それでジャックの体を引っ張ってくれたらしい。
「……ロール、様」
「しゃべってはだめ!」
 声を出そうとすると、か細い息ばかりが口から漏れた。完全に意識を現実に引き戻すと、胸にものすごい熱さを感じる。
 そこに手をやってみると、ぬるりとした嫌な感触がして、自分が怪我をしていることを自覚した。
「……そっか、俺……」
 切りつけられたことを理解した途端、熱を痛みだと理解した。すると、急に血の気が引いた。
「だめ! 死なないわ! わたくしが助けるもの!」
 ロランヌが必死に言ってから、虚空を見ている。ジャックの冥界の庭を見てくれているらしい。
 途切れそうな意識の中、たおやかな手に体の奥を触れられた気がした。
「花さえ咲けば、冥界の花が持ち主の命を生かすことを決めたなら、絶対に助かるの! 咲いて! ――咲きなさい!」
 ロランヌの声に応じるように、胸の奥、体の深部から暖かな気配がした。それと同時に、冷たくなって感覚が消えていた指や足先にまで熱が戻るのを感じた。
 痛みはなくならない。だが、耐えられないほどではなくなった。
「……ロールお嬢様」
「ああ……ジャック。よかった。目に光が戻ったわ」
 かすんでいた目も、先ほどよりよく見えるようになった。ロランヌが涙でぐしゃぐしゃの顔で覗き込んでいるのがわかる。
「あの男……黒い薔薇が咲いていました」
 すぐに伝えなければと、ジャックはあの男の冥界の庭で見たことを口にする。それは重要な意味を持つから、ロランヌの顔はサッと曇った。
 だが、彼女はその曇りを振り切るように笑顔を作ってジャックを見つめた。
「そんなことより、あなたの花が咲いたのよ。青い薔薇」
「……なんですか、それ」
 ようやく得体の知れない自分の得体の知れない冥界の花の謎が解けたのかと思ったのに、咲いてもやはり意味がわからないものだった。
 紫がかった花弁は見たことがあるが、青い薔薇なんてものは存在しない。
 それに、王族でもない人間の冥界の庭に薔薇が咲くことなどありえないのだ。あってはならないと言うべきなのか。
「お嬢様は、もう大丈夫なんですか?」
 花が咲いたおかげか、死を覚悟するような状況からは脱することができた。だから、ロランヌを気遣う余裕も出てきた。
「万全ではないけれど、大丈夫よ。ピーが解毒薬を作ってくれたから」
 そう言って微笑むロランヌを見て、ジャックは自分の胸が幸福で締め付けられるのがわかった。この人が生きているというだけで、こんなにも嬉しくなるのだ。
 これは間違いなく、愛しいという気持ちだ。あの男が言うような、殺したいという欲求を恋慕と勘違いしたものなんかではない。
「僕の心配もしてくれてもいいのに。まあ、無事なんだけど」
 ロランヌの横で、ピーが拗ねたみたいな声を出した。ペストマスクの下で一体どんな顔をしているのだろうと思ったが、腕が上がらずマスクを奪うことができなかった。
「あの男、ランバージャックって言いながら、ほとんど能力はなかったんだな」
 倒れて動かなくなっている男を一瞥して、ジャックは言った。
 文字通り死闘を繰り広げたわけだが、実感がない。あの男が、ずっと追っていた人物だったなんて。十二年前ロランヌからすべてを奪った、憎むべき人物だったなんて。
「長く生きる間に、力が失われたんじゃないのかな。この男の話を信じるんなら、百年前から生きてるんだろ? それって普通じゃないよ。だからきっと、その過程で能力をなくしていってのかも」
 ピーも男を観察するように見つめてから、静かに分析した。
 百年以上の恨みつらみが、この男を突き動かしていたということなのだろうか。それならこの男は、亡霊と変わりないということだ。
「この人の庭はおそらく、延命のために他の人から奪った植物を植えていたのだと思うわ」
「だからあんなに荒れ果てて、いろんなものが生えてたのか。でも……そんなことができるんですね」
「わたくしもそんな方法は知らないけれど、実際にあるのでしょう」
 考え込むように言ってから、ロランヌは空を見上げた。
 空の端が白んできて、間もなく夜が終わるのがわかる。ずいぶん長いこと戦っていたらしい。あっという間だったような長い時間だったような、不思議な感覚だ。
「黒い薔薇か。この男、実際のところキングを名乗るだけの根拠はあったのかもしれないな」
 ふと気がついたようにピーが言った言葉に、ロランヌの顔色が変わった。
「……滅多なことは言うものではないわ」
「そうですね。建国にまつわる裏の黒い歴史や王家に連なるかもしれない血筋の話なんて知ってしまったとあれば、僕らは今後生きていかれるのかわからないですからね」
 たしなめるロランヌに、ピーは飄々と言ってのける。
 この国の裏側や自分たちについてのことはジャックも考えないわけではないため、ピーの気持ちもわかる。
「……大変な秘密に触れてしまいましたね。俺たち、今後女王に狙われるのでしょうか。ひとまず、逃げたいですね」
 そう言いつつも、立ち上がる力もどこかへ逃げる気力も残っていなかった。ピーも一晩で散々能力を使って疲れ果てているし、ロランヌも本調子ではない。
 早く屋敷に帰ってバローに無事を知らせたいし、逃げるにしてもそれならなのだが、どうにもそれは無理そうだった。
「きっと逃げなくて平気だし、逃げられないわ。ほら」
 そう言ってロランヌが指差す空には、きらめく何かがあった。夜と朝が混じり合う不思議な色の空に、白く輝くものが浮かんでいる。それは少しずつ近づいてきて、徐々に形が見えてきた。
「……飛空城のおでましだ」
 近づいてくるそれが何なのかわかったときには、もう逃げられない距離になっていた。
「よかった。陛下はきっと助けに来てくださると信じていたわ」
 これから起こることに不安しかないジャックとは違い、ロランヌは救いが来たと信じて疑わない様子だ。
「俺たちに用があるのはきっと間違いありませんが、それが救いかどうかはわかりませんよ」
 どうにか逃げられるようにしなければと、ジャックは体を起こそうとした。だが、血が大量に流れ出たため末端にまで力が行き届かず手足の制御が利かないし、ロランヌに優しく阻まれてしまった。
「手当てが必要な人が、何を言っているの。陛下に仇なす賊と戦って負傷しましたと言えば、手厚く保護してくださるに決まっているわ。ピーもついてきてちょうだい。陛下にお目通りできる機会よ」
 コソコソと距離を取ろうとしていたピーを目ざとく見つけて、ロランヌは釘を刺した。ピーもロランヌには逆らえないのか逆らう気がないのか、渋々戻ってきてジャックの手を握った。
 こうしてジャックとピーはロランヌによって逃げられなくされてしまい、女王の到着を待つしかなくなった。
 朝の太陽に照らされた美しい船体はゆっくりと時計塔の屋上に降りてきた。そして、梯子がかけられ、そこを伝って何人もの人が降り立った。
 飛空城の警備兵と思われる人々に囲まれて、女王は式典の際に見かけたときと変わらぬ優美な姿でジャックたちに近づいてきていた。ジャックもピーも身構えているが、ロランヌはひどく嬉しそうにしている。これでもう安心だと言わんばかりの様子だ。
「陛下!」
 声が届く距離まで女王が近づいてくると、ロランヌは我慢できなくってそばへ寄ろうとした。だが、毒の影響が抜けきれていないのか、よろめいてうまく前に進むことができない。助け起こしてやりたかったがジャックはもう指一本動かせず、代わりにピーがロランヌを支えた。
「ロザリーヌ、この度は大変な災難に見舞われましたね」
「そうなのです。そこに倒れている男がわたくしを攫い、助けに来たわたくしの従者と友人が怪我を負いました。男は、陛下に対して良からぬ企みを持っていて……」
「すべてわかっていてよ。ここへ我々が来たのも、この男を捕まえるためです。この男からの声明が届いておりましたから」
「ご多忙の御身であられるのに、わたくしなどのためにこうして来ていただけるなんて……」
「あなたを害すると脅されれば、無視はできませんもの」
「ああ、陛下……」
 ロランヌは本当に感激しているのだろう。女王を前にして、静かに涙をこぼし始めた。
 その姿は、年相応の少女のものだ。日頃はどんなに愛らしく見えても、サジュマン家の当主として気を張っていたのだろう。この顔を引き出すことができなかった自分はまだまだだと、ジャックは従者としての自分の不甲斐なさを思い知る。
「陛下、その男はサジュマン家のことだけでなく、救貧院を運営して貧しい人を集め、彼らに植物を寄生させて、危険な薬物の材料にしていて、それから……」
 事件がひとまず収束したと安心できたからか、ジャックは自分の意識が遠のいていくのを感じていた。だから気絶する前に報告をと思ったのだが、だんだんとうまく言葉が出てこなくなってきた。
「ジャックと言いましたね。今はゆっくりなさい。報告は、また後ほど」
 女王は目を細めて柔らかな表情でジャックを見つめると、まるで子供をあやすみたいにそう言った。子供扱いされて心外だという気持ちと、ロランヌの従者としてしっかりしなければという思いが入り混じり悔しくなった。だが、歯を食いしばろうにも力が入らず、ジャックの意識は虚しく落ちていった。

 意識を失ってから、ジャックは夢を見た。
 夢だとわかったのは、自分の体がひどく小さくなって、美しい場所にいたからだ。
 背が低くなって、何かを見ようと思うと常に視線を上に向けていなくてはならない。これは子供の背の高さだ。子供になって、見たこともないような美しい場所にいる。
 そこは、光射す庭だった。薔薇がたくさん植えられている。サジュマン家の屋敷の庭も多くの薔薇を植えているが、その比ではない。
 その薔薇の園を、ジャックは小さな体で駆け回っている。
 そういえば、誰かを探していたはずなのだ。それで、ずっとこの広い場所を走り回っていた。
 これが夢であることも、自分が子供になってしまっていることもわかるのに、誰を探しているのかもここがどこなのかもわからない。
 わからないから、ただひたすら走るしかなかった。
 自分が子供になっていることを自覚すると、この小さな体はずいぶんと不便に思える。大きく一歩踏み出したつもりでも、あまり進んでいないのだ。
 傍から見れば足をちょこまか動かしているようにしか見えないだろう。
 そんなことを考えたら唐突に走るのが嫌になってしまって、ジャックはその場にごろんと寝そべった。
 寝転がると、青空が見えた。金属の格子越しに見える青空だ。それでようやく、ここが温室であることがわかった。
「――――」
 不意に、誰かの声が聞こえた。聞いた途端、それが自分の名前だとわかった。長らくその名で呼ばれていないのに、自分の名だとわかった。
 呼ばれて、弾かれたように立ち上がって、ジャックは声のしたほうに駆け出した。そこには、二人の大人がいる。
「――――、どこに行っていたんだ?」
「走り回っていたら転んでしまうわよ」
 大人は、男と女だった。どちらもピースの欠けたパズルのように、顔が見えなかった。
 それでも、ジャックに優しく笑いかけてくれているのがわかる。大切にされているのが伝わってくる。
 男のほうに抱きかかえられ、これは夢だ、と改めて悟った。
 抱えられ、肩車をされ、ずいぶんと高いところから温室のガラスの天井越しに空を見たところで、ジャックの目は開いた。

「やっと起きたか」
 目覚めると、黒髪黒目の見慣れない顔に覗き込まれていた。親しげに話しかけてくる様子と声から、それがペストマスクを外したピーだと気がつくのに時間がかかった。
「ピーか。ここは……飛空城?」
「そう。あれから僕ら、城に運ばれて手当てをされたんだ。お嬢さんと僕は一日寝てたら元気になったよ」
「俺は……どのくらい眠ってた?」
 寝せられているのは簡素ではあるが物がいいことがわかる寝台の上。そしてその寝台が置かれているのは、ほどよく調えられた部屋だった。
 客室なのかと思ったが、それにしては万事控えめだ。広さも、装飾も。王城内の客室がこんなに控えめであるわけがないから、何となく違和感を覚えた。
「五日ほどかな」
「そうか……五日もか」
「大怪我だったわけだし、冥界の庭も痛手を負ったんたから仕方ないよ。そのわりには、かなり早い回復だと思う。城の人間たちが尽力したから」
「……どうやら、すごい人たちがいるみたいだな」
 時計塔での戦闘で、自分がかなりの怪我をした自覚はあった。それなのに目覚めた今は、体の目立った場所に傷はない。寝台の上に起き上がると怠さはあるが、傷が疼くことも骨が軋むこともなかった。
 それはつまり、寝ている間に治癒されたということだ。飛空城は、女王は、すごいのだと思い知らされる。
「そうだそうだ。君が目覚めたら尋ねておくよう女王に言づかってたことがあるんだった。『何か思い出しましたか?』だってさ」
「……は?」
 聞かれた内容があまりにも予想外だったため、思わず戸惑いの声がもれた。わざわざ言づけてまで尋ねることなのだろうかと、疑問しかわかない。
「思い出す? って何を? それは時計塔でのことを思い出せ、という問いなのか?」
「さあ。僕もこのまま伝えるように言われただけだから、陛下が何を知りたがっているかはわからないや。でも、何も思い出してないならいいんじゃない?」
 戸惑うジャックをよそに、ピーは暢気な様子で言ってから怠そうに大きく伸びたり手首をぐるぐる回したりしていた。どうやら疲れているらしい。
「ピー、なんでそんなにきつそうなんだ? まだどこか悪いのか?」
 心配して言うと、ピーは不満そうに唇を尖らせた。
「それがさ、城の連中に僕の能力をいろいろと調べられるというか試されてたんだ。〝緑の指〟が珍しいってさ」
 植物を生えさせられたり伸ばさせられたり、とにかくいろいろさせられたらしい。それをくどくどと愚痴られたが、ジャックはピーのあの能力が〝緑の指〟と呼ばれるということしかわからなかった。
「とにかく、この城の人間たちは僕らの能力に興味津々だ。ジャックも今回の騒動のことを含めていろいろ聞かれると思う。ジャックの冥界の花、変わってるしね」
 うんざりしつつも、心配そうにピーは言った。その言葉によって、ジャックは自分の冥界の花が青い薔薇だったことを思い出した。
 ずっと得体の知れない植物だと思っていたが、ロランヌに接ぎ木の能力で救われたときに花開いて、薔薇だと判明した。
 だが、王族にしか咲かない薔薇が咲いたということで、やはり自分の得体の知れなさが増しただけだった。
「それなら、俺も女王陛下に聞きたいことがある」
「そうか。まあ、気になることはあるよね。それならついていくよ。いきなり消されたりはしないと思うけど、僕らはやっぱりこの城では異物だと思うから」
 ジャックが寝台から起き上がろうとすると、ピーが肩を貸してくれた。体には思いのほか力が入らず、介助してもらえるのは助かった。
 それに、ずっと眠っていてこの城のことは知らない。知っている人の付き添いなしには歩き回ることは難しいだろう。
「ジャックのもともと着てた服はここね」
「……きれいになってる。暗器も……全部揃ってる」
 戦いによってほつれたお仕着せが繕われていたことは想定内ではあったが、まさか懐に忍ばせていた暗器や倒れたときに両手に持っていたナイフまできちんと内側の収納に揃えてあったことには驚いた。
「……バローさん、怪我治ったかな」
 最後に屋敷で別れたときの様子を思い出して、ジャックは不安になった。あの屈強な人が死ぬわけはないと思っているが、最後に見た姿は大怪我をしていたから。
「お嬢さんが陛下に言って、屋敷の様子は見に行ってもらったみたいだよ。それで大丈夫だったようだから、平気だろ」
「そっか。……でも、帰らないとな。このナイフ、返す約束だから」
 着替えて廊下を歩きながら、ジャックは妙な感覚に襲われていた。
 飛空城には初めて登ったはずなのに、先ほどの部屋を出てから見えてきたものは〝知っていた〟。空飛ぶ城なんてものは世界にほかにないはずだし、世の中のどんな建物とも構造が違うはずなのに、ジャックはこの廊下の景色を見たことがあった。
 だから、女王の居場所を城の者に尋ねて温室だと教えられてからも、迷わずたどり着くことができた。
 温室のドアを開けると、むせ返りそうなほどの芳香に迎えられた。そして視界に飛び込んでくるのは、咲き乱れるたくさんの薔薇。そこは温室というより、薔薇園だった。
「ジャック。目覚めたのですね」
 足音は立てなかったはずなのに、ジャックに気がついた女王がすぐに振り返った。
 今日も信じられないほどの若さと美貌だ。式典のときとは違い簡素なドレスと汚れないようにエプロンを身に着けているが、それでかすむような輝きではないのが不思議だ。
「……おかげさまで。手当てをしていただいた上、長らく療養させていただいたこと、感謝しております」
 サジュマン家の従者として恥ずかしい振る舞いはできないと、ジャックは不慣れながら恭しく最大限の礼をしてみせた。バローに厳しく仕込まれて、ロランヌにもお墨付きをもらった礼だ。だが、なぜだか女王にはくすくす笑われてしまった。
「そんなに堅苦しくしていなくていいのよ。それに、もういってしまうみたいな口ぶりだけれど、ゆっくりしていて構わないのだから」
 そう言って女王がちらりと視線を送る先には、籐製の座椅子にゆったり腰掛けて眠るロランヌがいた。それを見て、何だかジャックは嫌な気分になる。光射す薔薇園で眠るロランヌは、とても絵になるのに。
「報告も、すでにロザリーヌとそちらのピーから受けています。残党がいないか、ほかに関連した事件がないか、調べさせています。だからもう、心配はいらないわ」
 落ち着かない気持ちになったのを悟られたのか、女王はジャックを安心させるように言う。だが、この居心地の悪さは不安から来るものではない。
「ピーから聞いたかもしれないけれど、我々はあなたたちを保護したいと思っているのよ。非常に珍しい、貴重な能力を持っているのだもの。ロザリーヌのこともずっと心配でしたし、あなたたちのことも知った以上、もう市井に置いて危険な目に遭わせたくはないわ。特にあなたは」
 緊張を解かないジャックに、女王は今度は少し困った顔をしてみせた。美しい人にこの表情を浮かべられれば、大抵の者は心を動かされるのだろう。だが、ジャックは警戒心が増しただけだった。
 〝特にあなたは〟の続きは何だろうかと考えて、ジャックは胸を押さえた。それはたぶん、ジャックの冥界の花のことを言っているのだろう。それなら、ジャックも女王に聞かなければならないことがある。
「あの、陛下。お聞きしたいことがあるのですが」
「なにかしら」
「陛下は……俺のお祖母様ですか?」
 それは、素朴な疑問だったのだ。王族の冥界の庭にしか咲かない薔薇が咲いたとわかったときから、ずっと頭の片隅にあったことだった。
 だがそれは誰も予想していなかったことらしく、女王は面食らった顔をして、隣でピーは吹き出し、そして少し離れた場所で眠っていたはずのロランヌはぱっちりと目を開けた。
「ジャック! あなたってば……もう、なんてことを言うの!」
「え、あ、お嬢様……」
 日頃はぷんぷん怒ることはあったとしても基本は穏やかなロランヌが、目を釣り上げて本当に怒っているのがわかった。
「陛下、申し訳ありません。悪気はないのですが、大変失礼なことを申しました」
「良いのですよ。でも、残念。私はあなたの祖母ではありません」
 ジャックの代わりに恐縮するロランヌに、女王は優しく微笑んだ。そして、ジャックに向き直る。
「ですが、あなたの両親はかつてここにいましたよ。あなたも。――何か思い出しましたか?」
 あの問いはやはりそういうことだったのかと、ようやく合点がいった。
 目覚める前に夢で見たのは、おそらくこの飛空城で過ごした日々のことだ。ガラスの天井越しに見上げる空は、見覚えがあるものだ。
 そして先ほど目覚めた部屋も、父か母かが使っていたものなのだろう。だから妙な感覚があったのだ。
 だが、ジャックは女王の問いに首を振った。
 語るほどのことは何も思い出していないし、思い出したいという気持ちもない。その代わり、得体の知れない自分に対しての恐怖はなくなった。今は、ありのままの自分を受け入れられる。
「いいえ、何も。俺はこれからもずっと、サジュマン家のジャックです。主であるロランヌお嬢様と、親代わりのバローさんがいるだけの、ただのジャックです」
「そうですか。それでも、あなたがここにいたいというのなら、いつまでいてもいいのよ」
 きっぱりと言い放つジャックに、女王は寂しそうにした。それを見て少しだけ胸が痛んだが、信用しきれないと思う気持ちもあった。
 薔薇が咲いていたのは、ジャックの冥界の庭だけではない。キングと名乗っていたあの男の庭にだって、薔薇が咲いていた。
 ジャックはその意味を女王に問うほど無謀でも向こう見ずでもないが、これからもずっと忘れずにいようと思っている。
「これから、どうするの? 何か必要なものがあれば言ってちょうだい。力を尽くします」
 女王はなおもジャックを懐柔できないかと機会をうかがっているようだ。それを聞いて感激した様子のロランヌを見て、ここから出なくてはという意思をジャックは強くした。
「東方の国へ、行ってみたいと考えております。自身のルーツを探りに。願わくばピーと、お嬢様も一緒に行けたらいいのですが」
 隣でピーがコクコクと頷き、ロランヌは目を輝かせた。ロランヌは何もわからず無邪気だが、ピーはジャックが考えていることを理解しているのだろう。
「薬売りたちもガーデナーも、もともとの能力は東方の国の宗教に従事する者たちのものだと聞いたことがあります。加えて僕らのこの容姿は、あきらかに東方由来のものですから。ルーツを知ることで、国に何かもたらせるかもしれませんし」
 ジャックに口添えするように、ピーも口を開いた。打ち合わせをしていたわけではないが、うまいこと付け加えてくれて助かった。
「二人でいつの間にそんなことを考えていたの? でも、素敵だわ! 陛下、わたくしも彼らと一緒に遊学したいです。あちらにしかない美しい花を見つけて、陛下にお持ちしますわ!」
 ここに残ると言われたらどうしようかと思ったが、ロランヌはジャックの提案に乗り気になった。
「遊学……そうね。東方の国とは友好関係にありますし、大切な子らには旅をさせて学ばせてやらねばならないと言うわね」
 初めは渋っていたふうの女王だったが、無邪気に喜ぶロランヌを目の前にしたらほだされたのか、仕方ないというように頷いた。
「ガーデナーや薬売りなど、この国の力となってくれる者たちの育成や勧誘にも力を入れたいと考えていたの。あなたたちを外へ行かせることがその育成と考えれば……」
 最後には、そう納得してくれた。
 外へ行くことを許しても絶対に手綱を放すつもりはない――そんな女王の意図を感じたが、この城から出られるならそれでいいと、ジャックは自分を納得させた。

「いやぁ、楽園は追放されるのではなく出立するのがいいよね」
 女王と温室で顔を合わせた日から数日後、飛空城を出て街まで降りてすぐピーは言った。
 あの戦いの夜から十日ほどしか経っていないというのに、ずいぶんと長い時間が過ぎた気がする。
「ピーの言うことはよくわからないわね」
「わかりませんか。確かに僕の発言は掴みどころがないって言われます」
 意味がわからず笑うロランヌに、ピーも説明することなくごまかしていた。だが、ジャックは彼が言いたかったことがわかる。
 庇護下に入ってから捨てられたりいなかったものとされたりするよりも、庇護下に入らずにいることのほうが安全だと言いたいのだろう。
 女王を敵にするつもりはさらさらないが、味方だと思うこともできそうになかった。
 だから、ジャックたちはこれから旅に出る。
「さあ、これから忙しくなりますよ。まずは屋敷に戻って荷物をまとめて、そのあとは東方への船が出る港まで移動です」
「素敵ね。……わたくし、どこかへ行けるなんて考えたこともなかったのだわ」
 ジャックの言葉に、ロランヌは目を輝かせて言った。
 何の気ない発言だったのだろう。だがそれはロランヌのこれまでの人生を表しているようで、ジャックの胸は苦しくなった。
「どこへでも行けますし、何をしたっていいんですよ。ロール様は、自由なんですから」
 これは誰かが言ってやらなければ成らないだろうと思い、ジャックは言った。
 何にも怯えず何にも縛られず生きる権利があると、教えてやらなければならない。そうでなければロランヌは、そんなことを考えることなく生きてきたのだから。
「そうね……そうよね! じゃあわたくし、屋敷に戻る前に三番街へ行きたいわ。例のお菓子屋さんに、まだ行けていなかったんですもの」
 ジャックの言葉にひらめいたのだろう。ロランヌは、嬉しそうに言う。
 そういえばそうだったなと思い出し、ジャックも頷いた。この機を逃せばもしかしたら、一度も行く機会がないかもしれない。
「ええ、行きましょう。お嬢様が行きたい場所へならどこへでもお供します」
 少し格好つけて言えば、ロランヌは満足そうに笑った。
 どこへ行ったとしても、この笑顔を守るためだけに生きていくのだ――ジャックはそう、決意を新たにした。


〈END〉

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