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その➀

 花売りとの衝突から数日が経つが、ジャックはまだ情報収集に向かえていなかった。三番街であのあと類似の事件が起きていないか調べたかったし、東方人街に行ってやらなければいけないこともあったのに。
 日々、屋敷での仕事に追われている。それが本来のジャックの仕事ではあるのだが。
「おい、ジャック! 二階の掃除が終わったら次は馬小屋だぞ!」
「はい! わかってます!」
 階下から呼ばれ、ジャックははたきを手に大声で返事をした。
 かつては多くの使用人を抱え、彼らが手分けをして手入れしていた大きな屋敷だ。ロランヌの部屋を含めた主人たちの部屋をすべてきれいにするのは、なかなかに骨が折れる。
 細かい装飾品が飾られていて慎重に掃除をしなければならない書斎部屋は後回しにしていて今ようやく着手したのだが、バローのあの声を聞く限り早々に切り上げて馬小屋に向かったほうがよさそうだ。
 あの日、もう晩餐の時間にギリギリ滑り込むように帰宅したことを、ジャックはバローにひどく咎められた。それもそのはずで、二人とも貧しい身なりをして、ジャックにいたっては戦闘によって怪我こそしていないがよろよろになって帰ってきたのだから。
 せめて服装を取り繕う暇があったらよかったのだろうかと考えたが、問題はそこではないようだ。外出したことがバレたのがいけなかったのだ。というより、変装してまで出かけていって危ない目に遭ったことが悪かった。
 ジャックはバローに、ロランヌを危険に晒したことをひどく叱られ、その罰としてものすごく忙しく働くことを命じられている。日頃は数日に分けて行う屋敷の掃除を毎日きっちりやらせることに加え、暗器を使った格闘術の稽古もこれまでとは比べ物にならないほど厳しくやらされている。
 おそらくは、しばらくジャックを外の世界から遠ざけておくためだろう。花売りとの一件を詳しく話したわけではないのだが、バローはジャックが何か面倒なことに首を突っ込もうとしていることに勘づいているようだ。
「だからってさ、こんなにこき使う必要ないよな」
 汚れた藁をかき出し、新しい藁を敷いてやりながら馬たちに話しかけると、彼らは冷ややかな目線を向けてから鼻を鳴らした。日頃掃除をして可愛がってくれるバローの悪口を聞かされても、馬たちは同意しかねるということらしい。というより、早くブラッシングをしろとすら思っているのかもしれない。
 ジャックは馬車を操るのがうまくないのだが、その原因は馬たちとの信頼関係を築けていないせいもあるのだろう。ロランヌと街に出るとき辻馬車をよく利用するのはそのためだ。
「あー、はいはい」
 ブルルという不満げな声に急かされ、ジャックは飼い葉桶に新しい食事を用意してから、丹念に馬たちの毛並みを整えた。本当だったら専用の世話人をつけて、この馬たちももっと快適に過ごさせてやるべきなのだが、バローのこだわり上それはできない。
「バローさん、終わったよ」
 片づけてから屋敷に戻ると、バローは洗濯室で洗い桶と格闘していた。屈強な男が小さくなって洗い桶に向き合っている姿は、何とも言えない気持ちにさせられる。
「……通いの洗濯メイドくらい、雇えばいいのに」
 ふと思ったことを口にすると、ジャブジャブやっていたバローがジャックに視線を向けた。その目には鋭さがある。
「その慢心でお嬢様を守れなかったらどうする」
 その一言には、十二年前の惨劇に対する並々ならぬ思いが込められているのがジャックにはわかった。
 かろうじてロランヌのことは守れたが、ほかは全滅だ。主人も、サジュマン家の親戚たちも同僚である使用人たちも、すべて。おまけに犯人が誰だったのか、どのようにして屋敷に侵入したか、それすらもわかっていないのだ。
 バローの中であの惨劇は、まだ終わっていない。というよりも、いつまた誰かが大切なものを奪いに来るかもしれないと考えている。
 だから、誰も屋敷には入れたくないのだろう。それが通いの洗濯メイドだったとしても。
「……俺ならいいの? 外の人間だけど」
 バローが惨劇のことを口にすると、ジャックの胸には暗い影が落ちる。バローやロランヌにとってあの惨劇が拭えぬ辛い記憶であるように、ジャックにとっても得体の知れない自分の記憶の始まりだ。犯人が捕まっていない以上、自分の存在に対する得体の知れなさは拭えない。そのことを突きつけられるたび、恐ろしくて嫌になるのだ。
「私が息子同然に鍛えたお前だ。何を心配する必要がある?」
 バローが、ジャックをまっすぐ見つめて言う。それは、どんな言葉にも代えられない肯定の言葉だった。
 認められているのも、可愛がられているのも知っていた。だが、こんなふうにきちんと言葉にされたのは初めてで、ひどく気恥ずかしい気持ちにさせられる。
「じゃ、じゃあ、俺が洗濯する。洗濯メイドを雇えないなら、俺がやったらいいだろ。バローさん、ただでさえ忙しいんだから」
「させられん。お前はお嬢様の下着を洗いたいだけだろ」
「ち、違う! そういう意味じゃ……」
「手が空いたんならお嬢様にお茶でも持っていって差し上げろ。わがままを言わない方だ。この数日、ご自分の用事を言いつけるのを我慢してらしたはずだからな。従者ならそろそろ、気の使い方を覚えろ」
「……はい」
 シッシッと犬でも追うように手で追い払われ、ジャックは洗濯室をあとにした。
 言われてみればこの数日、ロランヌの世話どころでなかったのは確かだ。日頃屋敷の仕事は二の次三の次でロランヌのそばにいることを仕事としているのだから、そのジャックがいなくてさぞ不便したことだろう。
 ロランヌの世話こそ自分の役目と思い出したジャックは、厨房へ行きお湯を沸かした。厨房の作業台を見れば、盆に乗せられた焼き菓子が用意されていた。バローが他の仕事の合間に作っておいたのだろう。そして、言いつけられた仕事を終えたジャックにお茶を持って行かせることも想定済だったということだ。
 さすがは、唯一残った幼き主人と拾い子を養いながら屋敷を維持し、立派に今日まで維持してきた執事なだけある。
 こうして実力を見せつけられると敵わないと思ってしまうのだが、だからこそ早く頼ってほしいと思うのだ。
 拾われたときからずっと大きくて頼もしくておっかなくて、でも優しい背中だ。だが、十二年前と比べると皺も白髪も増えた。無敵に見える完璧執事も、間違いなく老いるのだ。そのことが時々どうしようもなく悲しくて、ジャックを焦らせる。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
 ノックをして呼びかければ、鈴が転がるような愛らしい声で返事が返ってくる。
 ドアを開けると、窓際の小さなテーブルで本を読んでいる姿が目に入った。ロランヌの趣味のひとつに読書があるから、待たせたとしてもそこまで手持ち無沙汰にさせなかっただろう。そのことを思い出して、少しだけ安心する。
「こうしてあなたがお茶を運んできてくれたということは、謹慎は解けたのかしら」
 本にしおりを挟んだロランヌは、ティーセットの用意をするジャックを見てクスクス笑った。
「謹慎って、あの人、そんなこと言ってたんですか」
「ええ。『しばらく屋敷のことに専念させて反省を促しますから、ご不便をおかけします』って」
「俺にはそんな説明、何もなかったのに……」
「たぶん、体を休ませたかったのよ。ジャックは屋敷に縛りつけておかなくちゃ、すぐにまたきっと危ないことに首を突っ込むから」
 クスクス笑いながらも主人が自分を咎めているのがわかって、ジャックはバツが悪くなった。だが、もうコソコソする必要はないし、その余裕もない。
 あるとき三番街で倒れていた人物を偶然見かけたあのときから、ずいぶんと根深い部分に関わってきてしまった。これはもう、真相を突き止めるまであとには引けないところまで来ている。
 ロランヌを巻き込んでしまったのは計算外だったが、もう退くこともできなくなった。
「謹慎が解けたところでさっそく、行きたいところがあるんですけど」
 焼き菓子を食べてロランヌの機嫌がよくなったところて、ジャックは話を切り出してみた。バローを説得するよりロランヌに許可をもらうほうが早いと踏んだのだ。
「いいけれど、どこへ?」
「えっと、東方人街です。ちょっと……お礼をしにいかなきゃいけない相手がいるので」
 〝お礼〟といえばお礼だなと思いつつ、ジャックは言葉を濁した。もうロランヌに隠し事はしないが、だからといってすべてを包み隠さず話すつもりもない。知られたくないお行儀の悪い部分は、隠しておきたいのだ。
「それなら、私の用事に付き合ってからにしてくれる? 教会へ行きたいのよ」
「わかりました」
「わたくしを無事に屋敷まで送り届けてバローさんに断ってからなら、許しが出ると思うわ」
「……ありがとうございます」
 すべてロランヌとバローの手の内かと思うと何だか複雑な気持ちになったが、ひとまず〝謹慎〟が解かれたのならよかった。
 何かが動き出している。そのことを確かめるために、屋敷の中に留め置かれている場合ではないのだ。

 その次の日、ジャックはロランヌに言われた通り教会まで付き添ってきていた。
 ここメイグース王国はハイリヴァルト王国から独立した際、国教を変えている。ハイリヴァルトは男神を唯一神として崇めているが、メイグースはその男神を生んだ女神こそ至高という宗派に鞍替えしている。かといって他宗教を排斥することなく、ハイリヴァルトの属州だったときの名残として男神を崇めることも許しているし、その他の宗教の存在も認めている。
 女神を最高神として崇めているため、しばしばその姿を女王に重ねる向きが見られるようになった。だから、どこへ行っても教会の中は花を飾ってあり、女王が愛する薔薇のモチーフも多く見られる。
 ロランヌが通っている教会も例外ではなく、季節の色とりどりの花が祭壇近くに飾られていた。
 教会に着いてから、ロランヌは長いこと祭壇の前で祈りを捧げている。ジャックは、その横顔をじっと見つめた。
 祭壇を照らすように設置された窓から射し込む光が、ロランヌの銀の髪を輝かせている。白い肌も、花の蕾のような唇も、すべてが光に包まれている。その姿はジャックの目にはまるで宗教画のように荘厳で神々しく映り、どんなものよりも敬虔な気持ちにさせられる気がしていた。
「女神様に祈っているのか女王陛下に祈っているのか時々わからなくなるの」
 長いこと目を閉じて祈っていたロランヌが、目を開けてジャックを見た。アメジストのような目で見つめられ、ジャックは胸の中心を射抜かれた気分になる。
 目を閉じていると人形のように美しいが、目を開けるとそこに強い命の光を見出すようで、ジャックはやはり生き生きと動くロランヌを美しいと思う。そのロランヌの顔に、憂いが浮かんでいる。
「ロール様の好きなものを好きなように思い浮かべては?」
 ロランヌの憂いがわからないジャックは、彼女の気持ちが晴れるようなことを口にした。
 そもそも、誰かに祈ろうという心がないジャックには、ロランヌが悩んでいることがわからない。祈る暇があるなら自分で解決するしかないと、子供のときからどこかで悟っていた。
「この前から、この国の宗教のあり方について考えているの。……何が正しくて、何が人を幸福にするのかとか。自由を認める代わりに脅かされるものがあるなら、それは正しくないんじゃないかとか」
 ロランヌが何を言おうとしているのか、何に悩んでいるのかわかって、ジャックは苦い気持ちになった。
 ロランヌを悩ませているのは、この前の花売りが言っていたことだろう。薬をばら撒き貧しい人を苦しめているのはおかしな宗教団体で、女王が異教を認めているから起こっていることだと、あの女は言っていた。
 女神を信仰し、女王が正しいと崇めてきたロランヌにとって、あの花売りの発言は衝撃的だったのだろう。信仰心を持ち合わせていないジャックですら、言い知れぬ不快感を覚えたのだから。  
 女神や女王を崇めるつもりはないが、かといって宗教を謳った怪しげな団体が貧しい人を搾取するのを見過ごすつもりもない。
 悪の正体を突き止めて、平穏な日々を手に入れたいと思っている。おそらく、この根を辿っていけば、ジャックたちの宿敵に行き当たるのではないかと考えているから。
「俺はこの国の宗教の在り方で助かってます。祈ることができない俺を排除しないでいてくれますから」
 ひとまず、ロランヌの憂いを解消してやろうとジャックは言った。何が正しいのか何が間違っているのか、そんなことはジャックにはわからない。だが、この国がよそ者を排斥せず、祈ることを強要してこないことには感謝している。
 正しいかそうじゃないかは抜きにして、助かっているのは間違いない。為政者が寛容であることは、その国の民の生きやすさに繋がる。
「そうか……そうね。女王も女神も、祈ることを強要しないものね。そして、異教を許すということは異なる系譜や文化を持つ人も抱え込むということ。そう考えると、悪いことではないわ」
 ぐらついた足元の地面をもう一度確かめながら踏みしめるように、ロランヌは言った。彼女を四歳から育てたのはバローだが、精神的な部分を支える存在は女王だ。女王自身が庇護者を公言しているように、ロランヌも女王こそ自分の道標だと思っている節がある。過剰なほどに。
 だから、この前の花売りのような女王を否定する存在も、女王に叛逆の意思を持つ存在も、衝撃的だったのだろう。それこそ、足元がひっくり返るかと思うほど。
 両親が健在であればもう少し精神が安定したのではと感じるから、やはりジャックはランバージャックのことを許せない。
「ジャックは祈らないというけど、じゃあ教会で何のことを考えてるの?」
 ふと気になったのだろう。含みのない様子でロランヌが尋ねてきた。教会とは神や己と否が応でも向き合わされる場所だ。そこで祈らないというのなら何をしているのだろうというのは、素朴で真っ当な疑問だと思う。
「お嬢様のことです」
「まあ! わたくしは本当に気になったのに、茶化すなんてひどいわ」
「茶化してません。本当にいつも、お嬢様のことを考えてますよ」
「もういいわ!」
 事実を述べたのだが、それはロランヌの気に入るものではなかったらしい。ぷりぷり怒って、教会の出口へ向かって歩き出してしまった。やれやれと苦笑いを浮かべ、ジャックもそのあとに続く。
 扉を開けて外へ出るとき、ジャックは祭壇を振り返った。祭壇の奥には、女神を模した石像が飾られている。
 大昔、信者たちが想像で創り出した女神の姿だ。清らかな乙女にも、穏やかな母にも見える、優しげで美しい女人の姿。
 製作者の意図した通り、美しいとはジャックは思う。だが、それ以上の感情は湧いてこないし、ましてや祈りを捧げてみようとは決して思えなかった。
 ジャックの世界に、神はいない。
 神がいればきっと、サジュマン家惨殺事件などという恐ろしい事件は起きなかった。
 もしいたとしても、惨劇を防げなかったのならいないも同然だ。そんな無能をジャックは神と呼ばない。
 人々の幸せのことを考え、持つべき者の義務を果たそうと懸命な少女から家族を奪われることを防げなかった存在など、いてもいなくても変わらない。
 だから、そんな無能に変わってジャックが復讐するのだ。大切なロランヌの仇は、ジャックが必ず討つ。ロランヌの幸福を脅かすものは、すべてジャックが葬る。
 それが、記憶も何も持たないジャックに居場所と愛を与えてくれたロランヌたちへの報いだから。

 ロランヌを教会から屋敷へ無事送り届けたあと、ジャックは東方人街へ向かっていた。
 ロランヌとの約束通り、きちんとバローに許可を取ってからだ。
 出かけたい旨を伝えると、バローはどこで誰と会うのかを尋ねてきた。言い渋ったのだが、世間一般では子供は外出する際に親に行き先と目的を伝えるものだと言われ、話さないわけにもいかなくなったのだ。
 もうそんな子供ではないとか、あんたは俺の親じゃないとか、そんな言葉が喉まで出かかったが、それこそ反抗期の子供みたいだと思って呑み込んだ。
 そして、東方人街へ向かうことと、そこで果たさなければならないことがあるとかいつまんで説明した。そのときに、何年もかけて情報収集していたことについても話さなければならなかったが、バローは何も言わずにいてくれた。
 おそらく、ある程度のことは勘づいていたのだろう。何せバローはジャックの親だから。子の親への隠し事は、大体うまくいかないものだ。
 「くれぐれも気をつけるように」とだけ言って、バローはジャックを送り出してくれた。暗くなる前に帰ってこいと言われたから、当然素早く用事を済ませる気でいる。
 いつもは東方人風の服を身に着け、町並みに溶け込めるように独特ののらりくらりとした歩き方をしていたジャックだったが、今日は違う。
 確実に目的を達成するため、足早にいつもの場所へ行くと、お目当ての人物を見つけて駆けていった。町並みに溶け込むとか目立たないようにとか、この際どうだっていい。
 自分とロランヌを危険な目に遭わせた落とし前をきっちりつけさせねばならない。
「フレール、あんた花売り女にいくらもらったんだっ!? 俺のことを売ったろ?」
 普段と同じ場所でフラフラしていたフレールを捕まえて、ジャックはその頬に拳を叩きつけた。抵抗するかと思いきや、やつはあっけなく捕まり、拳をもろに頬のど真ん中に食らっていた。よろけたまま、フレールは無様に尻もちをつく。逃げられないように、ジャックは距離を詰めた。
「……へへ、何かと思えば、あんたか」
 殴られたフレールは驚きつつも、殴ったのがジャックたとわかると、いつものヘラヘラした笑みを浮かべた。どうやら殴られ慣れているようだ。
「いや、そんなつもりはなくて。あんたもあっちも探してたから、それならと思って引き合わせてやったたけだ」
 ジャックがわかりやすく怒りを向けているにもかかわらず、フレールには悪びれる様子もない。誰が襲ってきても負けるつもりなどなかったが、こいつのせいでロランヌと一緒のときに襲撃を受けてしまったことが許せず、もう一度殴る構えを取る。
「す、すまんって。まさかあんたがそんなに怒るようなことになるとはさ……こっちだって、あのおっかない女に脅されるみたいな感じだったんだよ」
「だからなんだ。いつも俺にやるみたいに、のらりくらりと嘘か本当かわからない情報を与えて逃げたらよかったじゃないか」
「そう言いなさんなって。あんたは俺にみたいにどっぷりこの町に浸かりきって生きてるわけじゃないだろうからわかんないと思うけど、底辺の暮らしは厳しいのさ。……義理を通して命が尽きたら世話ないわけ」
 ジャックが胸ぐらを掴んで凄んでも、フレールは気の抜けた人を馬鹿にするみたいな笑みを浮かべるだけだ。どれだけ脅したところで、ジャックの怒りが通じることはない。それに、間近で覗き込んだフレールの目は、底なし沼みたいに真っ暗だった。
 確かにこの目を見れば、自分とやつが違う人種なのだとわかる。ジャックは自分が何者かわからないと不安を抱えていても、帰る家もあれば大切な人もいる。この男のように泥水を啜って生きたことなどないのは間違いない。
 だから、こいつの行いに腹を立てるのは違うのかもしれない。
 ジャックにとっては馴染みの情報屋でも、フレールにとってはたまにタバコをくれる生きる世界が違う若造だ。
「とりあえず、あんたが無事でよかったよ。あの花売り、えらい怒ってたが元恋人か何かか? お針子ちゃんに乗り換えたときにきちんと別れなかったんだろ」
 ジャックが怒りを収めたのに気がつくと、フレールはまたヘラヘラ笑って余計なことを言った。
「あんなやつ知らない。俺が追ってた情報がたまたまあの女に繋がってただけだ」
 フレールを一発ぶん殴るという目的を果たしたジャックは、これ以上ここに用はないと立ち去ることにした。もうここには来ないだろう。情報が手に入っても、簡単に別の誰かに自分のことを売られたのではそんな情報屋は使えない。
 信用していたつもりはないのに、裏切られた気分になっている時点でだめなのだ。
「おいおい、待ってくれよ。今日は俺をぶん殴りに来ただけか? 痴話喧嘩の八つ当たりなんてやめてくれよ」
「痴話喧嘩なんかじゃない。……もう一発ぶん殴るぞ」
「待て待て待て! あんたが欲しがるような情報やるから!」
 素早く距離を詰めてもう一度胸ぐらを掴むと、フレールは焦ってそう言った。どうせ大した情報じゃないとわかりつつも、ジャックは手を離す。
「あんた、貧しい人間が倒れる話を追ってただろ。それがらみだ」
 よれよれのシャツの襟を正しながら、フレールは声を潜めた。ガヤガヤした東方人街でそんなふうに声を潜める必要があるのかと思うが、そのくらいやばい情報ということだろう。
「どうもな、どっかの救貧院が関わってるんだと。しかも、怪しげな宗教団体が運営してるっていう」
「……救貧院なんて、どこも宗教団体がやってるもんだろ。女王は異教を認めているが、それは民を幸福にする義務を果たしているからって理由で。女王に手っ取り早く認められるには貧民救済がいいってことで、ほとんどの宗教がやってることだ」
 救貧院と聞いて飛びつきたくなったが、ジャックは気持ちを落ち着けた。フレールが花売りと通じているのなら、救貧院についても聞かされているだけかもしれない。
 それにこの男は大したことのない情報ももったいつけて話して、値を釣りあげようとしてくるのだ。用心しなければ、また騙されるかもしれない。
「違うって。大抵の宗教が何を崇めてんのかははっきりしてるだろ。だがな、その怪しげなやつらは何を崇めてるかがわからねぇ。しかも、〝楽園〟ってのを謳い文句にしてんのさ。……話が繋がってこねぇか?」
「あ……」
 フレールの言葉に、ジャックの頭の中で何かが繋がる音がした。
 フレールのいなくなった知り合いも、「楽園へ行く方法を見つけた」と言っていたということだった。そしてそれと時を同じくして、貧しい人が次々倒れたり、その倒れた人たちがどこかで不審な薬を手に入れたという話だった。
 花売りが言っていた情報と組み合わせれば、それはジャックの追うものの答えになった。
「確かに、何か気になる話だな。他にわかることはあるか?」
「んー、あとは、その団体のシンボルマークが時計塔ってことくらいだな」
「時計塔……」
 時計塔といえば、この国の名所だ。
 もっとも女王陛下に近い場所。この国で唯一、空に近づける場所だ。
 女王を慕う者は、式典などの特別なことでもない限り、時計塔へは近づけないと言っている。ロランヌがそのいい例だ。敬愛する女王陛下に無闇に近づくことは、不敬に当たるからできないと、そう考えるのだという。
 その時計塔をシンボルマークに掲げる宗教団体というのは、果たして何を意味するのだろうか。単純に考えれば女王への敬意とも取れるが……目くらましか別の意味があると考えるのが妥当だろう。
「な、役に立っただろ? 俺はさ、まだあんたの役に立てるさ」
 考え込むジャックの肩を叩き、フレールはニヤニヤしながら手のひらを差し出してくる。ようは、今回の情報の報酬をくれということだ。
 ジャックを花売りに売ったくせに、無事だとわかるとまたジャック相手に商売をしようというのだ。逞しすぎて呆れるが、こいつはずっと逞しく生き抜いてほしいとも思う。
 花売りもフレールも、好きで底辺で生きているわけではないのだ。たまたま救い出されただけの自分が彼らを嫌悪し切り捨てるのは違うと、ジャックは自分に言い聞かせる。
「悪いな。今日は本当にあんたをぶん殴りに来ただけだから、持ち合わせがないんだ。だから、また今度だ」
 早く用事を済ませれば三番街のあのお菓子屋に寄ろうと思っていたから、小銭を持ってきていた。その小銭をフレールに握らせ、ジャックはそのまま歩き去った。結局まだ一度も、若い女性に人気だというお菓子屋へは行けていない。

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