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その①

 あたたかな陽射しが降り注ぐ春の庭で、ジャックは少し離れたところからロランヌを見つめていた。
 間もなく花盛りを迎える薔薇の手入れをするその様子は、さながら銀の妖精のようだ。ロランヌがそこにいるだけで、世界の現実味が薄れる。
 だが、ジャックは自分の主人の美しさに見惚れているわけではなかった。
「ロール様、そろそろ休憩なさってはいかがでしょうか?」
「いいわ。そのうちに昼食でしょう。それまでに終わらせてしまいたいの」
 ジャックの何度めかの呼びかけに、ロランヌは振り返りもせずに答える。集中しているというよりも必死になっているように見える姿に、ジャックは不安になった。朝食も碌に食べることなく庭に立ち続けているのは、やはり尋常ではない。
「気になる部分はどこですか? 教えてください。俺がやっておきますから」
 倒れてしまう前にやめさせたくて、ジャックはロランヌの手ごと花鋏を握った。抵抗はしないものの、ロランヌは花鋏を離そうとしない。困った顔をしてジャックを見上げるだけだ。
「これはただの薔薇ではないのよ。陛下の生誕祭に献上するものなのだから、わたくしにしか世話できないの。サジュマン家唯一の生き残りである、わたくしにしか」
 風が吹けば飛んでいってしまいそうなほど儚く見えるのに、ロランヌは頑固だ。特にこの件に関しては自分の諫言が聞き入れられることがないと、ジャックもよくわかっている。
 他に誰か――ロランヌの父や母、もしくは親戚の誰かがいれば、こんなことにはなっていなかったのだろうが。それこそ、ロランヌがこの家の唯一の生き残りでなかったら。
 サジュマン家は、古くからクインガーデナーを輩出してきた家だった。ガーデナーが生まれる血筋であったし、婚姻を結ぶのもそういった家とだった。そうして血を濃くし、繋がりを強め、貴族でありクインガーデナーの名門家としての地位を築いてきたのだ。
 サジュマン家はクインガーデナーを輩出する家としての他にも、もうひとつ重要な役目を持っている。それが、女王に献上する薔薇の世話だ。
 薔薇をこよなく愛する女王に特別な薔薇を献上するのがいつの頃からの習わしで、冥界の花樹の手入れだけでなく通常の植物の手入れの能力も見込まれて、サジュマン家はこの任を負ってきたのだそうだ。そうして栄華を極めてきた。
 だがそれも、十二年前までのことだ。
 十二年前、サジュマン家の人間は全員殺された。ロランヌの父も母も、女王の生誕を祝うために集まっていた親戚たちも、いずれロランヌと結婚するはずだった従兄弟たちも、日頃尽くしてくれた乳母やメイドなどの使用人たちも、みんなみんな。
 十二年前のその日、女王の生誕祭を翌日に控えていたため、サジュマン家の屋敷にクインガーデナーとその家族たちが集まっていた。名目は、女王に献上する薔薇を選定するために。実際には、親戚一同が集まって親睦を深めるのが目的だった。
 自分たちが稀有な能力を持ち、それを女王に認められて国の発展に一役買っているのだという自負がサジュマン家の者たちにはあった。その誇りを再確認し、栄誉を与えられ続けてきたことを喜び合うために集まっていたその会で、惨劇は起きたのだ。
 晩餐を終え、談話室やサロンで各々寛いでいる最中、突然何者かが侵入してきたのだという。侵入してきた賊はまず屋敷中の照明を落として回り、そのことに驚き混乱している者たちを次々と殺害していった。
 屋敷の中はすぐさま悲鳴と断末魔の飛び交う地獄のような様相を呈し、あっという間に血の海と化したそうだ。賊は数人いて、それぞれ手に大きな得物を持っていたという。
 執事長のバローは、襲撃当時近くにいたロランヌを庇い、すぐに逃げたらしい。階下に逃げ、侵入者と屋敷の使用人である自分とでは地の利が違うことに賭けて洗濯室にロランヌを隠した。その後、玄関まで行き、壁にかけられていた剣をひと口抜いて戻ったが、そのときにはすべて終わってしまったあとで、賊は逃走していたそうだ。
 せめて賊の背中に一発食らわせられればと追ったらしいが、それは叶わなかった。外に出れば月明かりで後ろ姿だけでも見られないだろうか――そう考え庭に出たものの、バローは何も見つけられなかった。怪我をして倒れていた、ボロボロの少年のほかには。
 バローはその少年は賊が置いていった一味かと考えたが、それにしてはあまりにボロボロだった。痩せ細り、薄汚れ、そして治りかけのものも生々しいものも合わせて信じられないほどの傷を負っていたらしい。
 それに、まともに言語を話すことすらできない上に、記憶がなかったのだ。
 この子供を手もとに置いておけば、いずれ連中が取り返しに来るかもしれない――最初のうちはそう考えて、バローは少年を保護して生き残ったロランヌと共に養育することにしたのだという。
 それはあくまで建前で、主人夫婦や同僚を失い、たったひとりでロランヌを支えて生きねばならなくなった彼にとって、張り合いのようなものになったそうだ。
 その薄汚れた張り合いに、バローはジャックと名づけた。
 十二年前、ロランヌは惨劇によって家族を失い、ジャックは何者かに捨てられバローに拾われたのだ。
「この薔薇が特別なものであることは、わかっています。ロール様がサジュマン家の人間として世話しなければならないことも。でも、俺はロール様の従者なので、手伝いくらいできるようにならなくてはと思うんです。……鋏も、だいぶうまく扱えるようになってきましたし」
 ロランヌに少しでも関心を向けて欲しくて、ジャックは両手に鋏を〝出現〟させた。それは、常人には見ることができないもの。つまり、ジャックの能力だ。
「本物のお花を相手にその鋏を出してどうするの。……でも、上手に扱えるようになったわね。ガーデナーの仕事で、鋏を使う場面はあまりないように思うけど」
「それは、そうですね……」
 自分より年下のはずのロランヌに大人のような表情でたしなめられ、ジャックはしゅんとなった。ロランヌの手を止めさせることには成功したが、こんな微妙な空気にしたかったわけではない。
 この能力については、練習はしているものの、何に使えばいいのかわかっていなかった。これが、〝何〟の能力なのかも。ロランヌは、少なくともガーデナーに鋏の保有者は見かけたことがないと言っていた。
「……もう大体終わったから、屋敷に戻りましょうか。昼からはマダム・ブランシュのお店に行くから、ドレスの支度をお願いね」
「かしこまりました」
 しょげてしまったジャックを気遣ったのか、ロランヌはようやく屋敷に戻ることを了承してくれた。本当は主人に気を使わせるなんて言語道断なのだが、この時期になるとジャックも調子が悪くなるのだ。
 だから、こんなふうにどことなくぎこちない会話しかできなくなってしまうこともある。
「今日が雨でなくてよかったわ」
 昼食後、支度を整えて二番街に向かったふたりは、目的の店の近くで馬車を降りた。お気に入りのデイドレスに身を包んだロランヌは、踵の高い靴で機嫌よく歩いている。
 薄紫色の裾の広がり少なめのドレスは上品で、その淑女然とした意匠はジャックも気に入るものだ。だがやはり、踵の高い靴はいただけないと思う。
「晴れていて道が乾いているといっても、凸凹してますから気をつけてください」
「もう! 子供ではないのよ? レディの隣を歩いて転ぶ心配ばかりしているなんて、ちょっと失礼だわ」
「では、お気に入りのドレスで転んでも、泣かないでくださいね」
「……そこは、『転ばないようにエスコートしますね』って言えるようになってよ」
 今では主人と従者という関係になっているが、十二年前から付き合いのあるふたりは幼馴染のようなものだ。
 仲のいいふたりは軽口を叩き合って、マダム・ブランシュの店へ入っていった。
「ごきげんよう、ロランヌお嬢様」
 カラランというドアベルの音がすると同時に、よく通る声に出迎えられた。ふくよかでいつ見ても感じのいい、この店の店主であるマダム・ブランシュだ。
「ごきげんよう、マダム。頼んでいたドレスの仮縫いが終わったのですってね。ずいぶん早くて驚いたわ」
「クロエが張りきってるんですよ。『ロランヌお嬢様に着ていただけるってことは、女王陛下にも近くで見ていただけるってことですもの』って。そうだ、クロエがお嬢様にご提案したいことがあるって言ってたんでした。クロエ、ロランヌお嬢様がいらしたよー」
 マダム・ブランシュが奥に声をかけると、トタトタという足音と共に若い娘が現れた。ブリュネットの巻き毛を揺らす、ロランヌと同じ年頃の少女だ。クロエと呼ばれた少女は、ロランヌのことを見て嬉しそうに笑った。
「こんにちは、ロランヌお嬢様。あたし、素敵なことを思いついたので、それをお話したくって」
 縫い途中のドレスを抱えてやってきたクロエは、それをロランヌの前に広げた。
 深い紺地のタフタを使ったドレスで、胸部と襟を白地に切り替えただけのシンプルなものだ。装飾といえばスタンドカラーのフリルと胸部に寄せたタックくらいもので、ロランヌの手持ちの衣装と比べると控えめである。ともすれば野暮ったくなってしまいそうな意匠だが、さすがマダム・ブランシュがこの店の有望株として推すお針子なだけあって、クロエの腕前は確かなものだと感じさせる。
「お嬢様のご要望通り、あくまで式典の主役は陛下だから目立ちすぎず上品にというのはわかります。でも、もう少しお嬢様の魅力を引き出して、華やかな意匠でもいいかなって思うんです。なので、スタンドカラーをスクエアカラーに変えて、裾もスカラップにして裏地の白を覗かせて、そこに刺繍をしたら素敵じゃないですか?」
 クロエはドレスを作業台に置くと、脇に抱えていた帳面を開いた。それは彼女のデザイン帳らしく、開いたページには目の前のドレスと同じ意匠の絵が描かれていた。実物のその絵が違うのは、襟と裾の白地の部分に色鮮やかな刺繍が描き込まれていることだ。
「せっかくの式典でお召しになるんですから、このくらい華やかなでもいいと思うんです。それに陛下は薔薇がお好きですから、薔薇の花の刺繍はお祝いになるかなって。刺繍はリボンを使って立体的にしてもいいですし、細かく蔓まで描いてみるのもいいと思うんですよ。お嬢様がお望みなら、もっと繊細な縫い取りを施すことも可能です! どうでしょうか?」
 クロエは自分の提案が素晴らしいもので、必ずロランヌがそれを受け入れると信じて疑わないキラキラした目をしていた。傍で見ているジャックも、この意匠自体はとても美しいと思うし、ロランヌの愛らしさを引き立てるだろうと感じた。
 だが、ロランヌの顔を見れば、気に入っていないのは一目瞭然だった。
「とてもいいセンスだと思うわ。可愛らしいし、わたくしくらいの歳の女性はこういうものが好きだと思う。わたくしも、別のドレスならこの意匠でお願いしていたでしょうね。でも……この日のドレスは華美にしないと決めているの。これまでも、これからも、ずっとよ」
 ロランヌはクロエを傷つけないよう、慎重に言葉を選んで言った。この意匠自体を悪く思っていないのは本当だろう。だが、この華美さを受け入れられない理由もあるのだ。
 ジャックにはそれが当然わかるし、古くからの付き合いであるマダム・ブランシュも知っている。だから彼女は、落胆するクロエをどう慰めようか頭を悩ませているようだった。
「そんな……どうして」
「式典の花はやっぱり女王陛下だからね。ロランヌお嬢様はそのあたりを弁えているのよ。それに、お嬢様には事情がおありだし」
 女王の生誕祭は、ロランヌの両親たちの命日に重なる。祝いの席であることはわかっているものの、だからといって華美な服装をする気にはなれないのは当然だろう。そのため盛装として何とか認められるであろう紺の布地で、装飾は最低限に留めた意匠のものを毎年注文しているのだ。
 マダム・ブランシュはそれを心得ているが、若いクロエは知らない。とはいえ、ロランヌの事情を話そうとすると血腥い事件のことを話すのは避けられないため、マダム・ブランシュは言葉を濁すしかなかったのだ。
「自分が作った服が陛下の視界に入るのかもしれないから、どうせならあたしの技術の目一杯を詰め込みたかったのに……」
「でもね、我々の仕事はお客様に喜んでいただくことだから。ただ、せっかくならお嬢様に少しでも華やかなものをお召しになってもらいたいという気持ちは、わかるけどね。少しくらいなら、お嬢様が着飾っても許されるんじゃないかって思いますし」
 マダム・ブランシュの言う〝許される〟というのは、痛ましい事件についてのことだろう。悼む気持ちはわかるがそろそろ前を向いても家族は許してくれるに違いないと、そう言いたいようだ。
 それが伝わったからか、ロランヌはクロエのデザイン帳をじっと見つめた。
「そうね……確かに、刺繍くらいはいいかもしれないわね。でも、こんなにたくさんの色は使わないで、控えめにすることはできるかしら?」
 ロランヌがうっすら微笑んで言えば、見る間にクロエの顔に喜びの色が浮んだ。落ち込むのも喜ぶのもわかりやすい娘だ。
「それなら、青系の糸で野薔薇を刺繍するのはどうかしらね。お嬢様の冥界の花は白い野薔薇でしたよね? サジュマン家の紋章も野薔薇がモチーフですし」
「できます! あたし、すごくきれいな野薔薇を刺します!」
「じゃあ、それでお願いするわ」
 マダム・ブランシュのとりなしによって、ようやく意匠の変更に決着がついた。ロランヌもマダム・ブランシュもほっとした様子だが、何より嬉しそうにしているのはクロエだ。まるでお菓子をもらった子供のように、顔いっぱいに笑みを浮かべている。
「お嬢様ありがとうございます! あたし、精一杯頑張りますね! これはチャンスだわ。あたし、いつか女王の仕立屋になるのが夢なんです。だから陛下の目に留まるような素敵なドレスに仕上げます!」
 高らかに宣言すると、クロエは慌ただしく奥へと戻っていった。
 すごい気合いの入りようだが、それも当然だ。女王に気に入られ、飛空城へと召し抱えられる〝女王の仕立屋〟の称号を得ることは、お針子ならば誰もが一度は夢見ることだ。それに、この国のファッションリーダーたる女王のお眼鏡に適う衣装を作り出せたとしたら、それだけで名誉なことなのである。
「ロランヌお嬢様は、これからクインガーデナーのお仕事へ行かれるんですか?」
 ドレスの仮縫いの確認と最終的な打ち合わせは終わったため、もう帰るという雰囲気になった。
「いえ、三番街のほうに評判のお菓子屋さんがあると聞いたので、そこへ行ってみたいと思っているの」
「ああ、あのお店ですか。確かに評判で私も気になっておりますけど、お仕事でないのでしたら、寄り道はあまりおすすめしませんわ」
 見送り前の世間話のつもりの軽い会話だったはずなのに、寄り道と聞くと途端にマダム・ブランシュの顔が曇った。不思議そうにするロランヌに、マダム・ブランシュは心持ち距離を詰め、声を落として話し始めた。
「こんなこと、大きな声では言えませんけれど、切り裂き魔が出ますからね。今の若い人たちに言うと、そんなの時代遅れだなんだと言って信じやしないんですよ。でも私は、時々通り魔が現れるのをちゃんと新聞を読んで知っていますからね」
 それは恐ろしいことと言うように、マダム・ブランシュは口にした。子供を脅すためにわざと怖い顔をして言っているというよりは、彼女自身が信じている様子だ。
 ロランヌもジャックもそのへんにいるただの若い人間なら、そんな都市伝説と化した通り魔の話を聞いたら失笑していただろう。だが、都市伝説に興味がないふたりでも、この話題は笑って流すことはできなかった。
「……通り魔って、ランバージャックのことですか?」
「いけませんよ! そんな軽々しく口にしては……あんなものは、この世界にいてはいけないのだから」
 気になってジャックが尋ねると、マダム・ブランシュは血相を変えた。本当に恐れていて、忌み嫌っているのがわかる。
「サジュマン家でご不幸があったあと、すぐに陛下が粛清してくださいましたけど、まだ生き残りがいるのかもしれませんからね。……恐ろしいことだわ」
 マダム・ブランシュはロランヌの顔を伺い、それから自分の体を抱いた。そんなふうにしていなければ、震えを抑えられないとでもいうように。
 ジャックもこの話題になってロランヌが心配になったが、その顔には不自然なほど何の感情も浮かんでいなかった。……表情を殺さねばならぬほど、その心の中に感情が吹き荒れているということに違いない。
 ランバージャックは、ロランヌの、クインガーデナーの名門家であるサジュマン家の敵だと考えられている。
 命を育む庭師(ガーデナー)に対して、木を刈る木こり(ランバージャック)は悪しき者だから。
 ランバージャックとは、ガーデナーと同様に常人には見えぬ冥界の花樹を見ることができ、そしてそれに働きかけることができる能力を持つ者だ。ガーデナーのように花樹を守る能力とは反対に、刈り取り終わらせることができる能力である。
 だからこそ恐れられていたし、疎まれていた。それでも、表立って虐げられることはなかったはずなのだ。十二年前までは。
 惨殺されたサジュマン家の人間たちは、誰もが体をばっさりと斬りつけられていたらしい。しかも、冥界の花樹ごと。その手口から犯行はランバージャックによるものとされ、女王はすぐさま国内のランバージャックをことごとく粛清したのだという。
 この事件と前後するように、切り裂き魔と呼ばれる通り魔事件が発生していたことから、切り裂き魔とランバージャックを同一視する見方もあるのだ。というよりも、無関係だとは考えられない。
 そのため、今でも時折似たような事件が起こると昔のことを知っている大人たちは惨劇を思い出し、眉をひそめるのである。若い人には本当のことかどうかわからない都市伝説の扱いでも、当時を知る人間たちにとっては今もうっすらと続く恐怖なのだ。
「とにかく、無用な出歩きを私は推奨しませんからね。大事なお嬢様に何かあったら、耐えられませんもの。三番街といえば、最近も何か事件があったみたいですよ。倒れた人がいたそうなんです。きっと何者かに切りつけられて……」
 三番街と聞いて、ロランヌとジャックは顔を見合わせた。時期といい場所といい、間違いなくこの前ふたりが遭遇した件だろう。だが、あのときの人は切りつけられたわけではなく倒れていただけだし、病院に運んでからは救貧院に引き取られていると聞いた。だから、切りつけられたり殺されたりといった、物騒な事件ではないはずだ。
「あの、それはたぶん……」
「ご忠告感謝します。お嬢様、今日は寄り道せずに帰りましょう。マダムに心配をかけてはいけません」
 あの件について本当のことを話そうとしたロランヌを制し、ジャックは礼を言って店を出た。
「あの日のことが噂になるうちに尾ひれがついて、切り裂き魔の話になったのでしょう。でも、マダムに訂正してはだめですよ。俺たちも切り裂き魔を都市伝説扱いする若者だと思われてしまいます。それに……外に危険がいっぱいなのは事実ですし」
「まあ……そうね。訂正すると厚意で忠告してくれたのを無下にすることになるものね」
「そうですよ」
 マダム・ブランシュから聞かされた不穏な話のせいで、ロランヌもジャックも気分が沈んでいた。だがそれ以上に、悲しくさせているのは別のことだ。
「……今日もあのお菓子屋へは行けないのね」
 ロランヌはひどくしょんぼりして言った。ジャックも言葉にはしなかったが同じように落ち込んできた。それに何より、情報を寄越したフレールへの怒りが湧いてきていた。

 真夜中、眠れずにいたジャックは庭に出ていた。
 月明かりが照らす庭は、青白く光っていてどこか別世界のようだ。眠れずに部屋にいると落ち着かないが、庭に出るとそのひとりの寂しさが少し紛れる。別世界のような庭では、植物たちは昼とは違う存在感を放っているから。
 女王の生誕祭が近づいてくると、ジャックは毎年寝付きが悪くなる。拾われる前の記憶なんてないはずなのに、落ち着かなくなって不安になるのだ。むしろ、記憶がないからこそ不安なのだろう。
「ランバージャックか……」
 昼間マダム・ブランシュに言われたことが、ジャックの胸に棘のように刺さっている。
 ランバージャックは悪いもので、粛清すべきものだ――それはこの国の人間なら誰もが知っていることで、そう信じていることだ。ジャックも、無邪気に信じていられればと思う。
 だが、自分が何者なのかわからない以上、そんな大衆の一員ではいられない。ずっと、拾われていろいろなことがわかるようになってから、自身の存在について疑いを持ち続けているのだ。
 まず、この名前だ。名付けたバローは「悪い冗談だった。あの頃の自分はおかしかった」の反省しているようだが、ジャックとしてはこの名はよく自分の正体を表しているのではないかと思っている。
 両手に花鋏を出現させることができるこの能力がガーデナーのものでないのなら、つまり自分はランバージャックなのではないかと考えているのだ。
 ロランヌと同じで冥界の花樹を見ることができるとわかったときは、彼女の何らかの繋がりがあると思って嬉しかったのに。
 今は、彼女を脅かすかもしれない存在になるのなら、こんな能力いらないと思っている。
 ただでさえこの国の人間ではないとひと目でわかる容姿で、その上みんなに嫌われ恐れられる能力なんて持っていたいわけがない。
「ジャック……こんなところにいたのね」
 何をするでもなく庭に立っていると、不意に声をかけられた。振り返らずとも、そこに誰がいるのかは明白だ。
「ロール様。もしかして、呼びましたか?」
 振り返ると、ナイトドレス姿のロランヌがそこにいた。月光の下に浮かび上がる銀の髪と白い肌は、彼女を妖精じみて見せている。昼間の姿よりもこちらのほうが、本来の姿なのではないかと感じさせる。
「呼んだわ。ベルを鳴らしても声を上げても来ないから、外へ見に来て見たの」
「すみません。……ホットミルクでもご所望でしたか?」
「そんなこと、今はどうだっていいでしょ。問題は、あなたが眠れずに庭なんて歩いていることよ」
 ジャックは、目の前の美少女が腰に手を当てて怒った表情を浮かべるのを見て、彼女が妖精の姫なのではなく自分の主人であることを思い出した。
「ロール様がぐっすりお休みになられていれば、俺がこうして起きているなんて気づくことはなかったんですよ。どうして起きてしまったんですか? お腹でも空きましたか?」
「あなたと一緒よ。……この時期はあまり眠れないの」
 飲み物が欲しかったとかお腹が空いたとかで眠れない理由を誤魔化してしまいたかったのに、ロランヌがそれを許してくれなかった。
 この時期にふたりが眠れずにいる理由なんて、それこそ言わなくてもわかるはずなのだ。それをあえて尋ねてくるところが、この主人の困ったことだと思う。
「……ロール様が眠れない理由と俺が眠れない理由は、繋がってはいても別物ですよ。ロール様が眠れないのは、惨劇を思い出すからでしょう? 俺は、何も思い出せないから不安で眠れないんです。ロール様と分かち合えるものは、ないんですよ」
 ジャックは言いながら、寂しくなるのが自分でもわかった。
 サジュマン家で起こった惨劇については、すべて伝聞で知っただけだ。そのときロランヌがどれほど怖かったか、つらかったか、苦しかったか、ジャックは想像するだけで心底理解してやることはできない。
 ジャックもロランヌも毎年この時期になると不安で眠れない夜が多く、幼い頃は身を寄せ合って乗り越えてきたが、その内側に抱えるものは異なるものだったのだ。それが今、はっきりしてしまったようにジャックは感じていた。
「何もないなんてことは、ないはずよ。眠れない者同士、仲よくしましょ。昔みたいに添い寝してあげましょうか?」
 ロランヌはジャックの手を取ると、そっと見上げてきた。からかっている様子はないから、本気で言っているのだろう。
 春とはいえ、まだ夜は冷える。ロランヌの手が少し冷たくなっているから早く部屋に帰らせねばと思うが、この誘いに乗るわけにもいかない。
「ロール様、ふざけるのも大概にしてください。お忘れのようですが、俺は男なんですよ」
 自分たちの立場を、関係を、わからせねばと思ってジャックは言った。
 幼い頃から一緒にいるせいなのだろうが、ロランヌはジャックに気安すぎるところがある。あまりにも他人行儀では嫌だが、こんなふうに己が何者なのか忘れたかのような振る舞いをされると、使用人としてというより年長者として叱るしかないだろう。
 貴族の、しかも嫁入り前の娘なのだ。こんなふうに不用意では困る。
 だが、そんなジャックの心配は微塵もロランヌに伝わっていないようだ。
「そんなの、知ってるわ」
 掴んだ手を離さぬままロランヌは言う。これは、ジャックの性別が男であることを知っているということなのか、男のジャックに添い寝をねだる意味をわかっているということなのか、判断しかねる状況だ。
 ジャックにとってロランヌは唯一の女性で、守るべき主人だが、ロランヌにとってもそうであっては困るのに。
「……ホットミルクを作って差し上げますから、部屋に戻りましょう。今から寝る努力をすれば、少しは休めるでしょうから」
 ロランヌが見つめてくる意味を都合よく解釈してしまいたくなって、ジャックは手を引いて歩きだした。
 勘違いしてはいけないし、弁えねばならない。この人はどれだけ近くにいても手に入らない人で、その代わりに絶対に守ると決めたのだ――そんなふうに自分を戒めながら歩いたのに、繋いだ手が少しずつあたたかくなっていくことに、どうしても嬉しい気持ちを抑えることができなかった。

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