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その①

 花が満開を迎えたミモザの木は、そこだけ特別な光が射しているようだ。
 黄色の光の球を無数に集めたようなミモザの木があるその庭は、まさに春真っ盛りである。
 ミモザの他にも薄紫のライラックが蕾を綻ばせているし、寄せ植えの白いスズランや鮮やかな三色スミレが陽射しの下で揺れている。
 春の訪れを喜ぶかに見えるその姿は、庭の主の心を映しているのだろう。
 その庭の一角、やや陰になった東屋で、庭の主たる初老の貴婦人と美しい少女が向かい合っていた。
 少女は夢見るみたいなどこかぼんやりとした目で、貴婦人を見つめていた。貴婦人をというより、薄い布のようなものを一枚挟んだ別の位相を。
 そこには、光射す緑の庭に咲く一輪のスミレの花がある。
 小ぶりで可憐なその花は、簡単に手折られてしまいそうなほど儚い。だが、青みの強い紫の花弁は色艶がよく、それを支える茎も葉も健康そうだ。少しくたびれて変色した葉が一枚あったから、少女はそれを優しく取り除いた。
「今日も、ミセス・ヴィレットの花は愛らしくて美しいですよ。ちょっぴり傷んでいた葉がありましたので、それは取り除いておきました。お体が優れなかったのは、そのせいかもしれませんね。でも、花を強くするお薬をお出しするから大丈夫ですよ。おやすみになられる前に服用してください」
 少女は鈴が転がるような声で言った。やや声を大きくしているのは、初老の貴婦人を思いやってのことだけではなく、少し離れたところに佇む青年に聞かせるためだ。
 青年・ジャックもそれを心得ているから、気配を殺して庭の一部と化しているように見せて、しっかり耳を傾けていた。
「よかったわ。ここのところ、寝ていても起きていても怠いような、体が重くてたまらないような感じが続いていたから、てっきり冥界の花に虫でも付いてしまったのではないかと心配だったの」
「虫なんてとんでもない。逆恨みした誰かに呪いでもかけられない限り、ミセス・ヴィレットのような冥界を心地よくしておく気配りを欠かさない方の花に、虫が付くなんてありえませんわ。季節の変わり目で、お疲れだったのでしょう」
 不安そうだった貴婦人、ミセス・ヴィレットは少女の言葉を聞いて、ようやく安心したように微笑んだ。それに対して少女も微笑み返す。
「レディ・ロザリーヌがいてくれてよかったわ。クインガーデナーのいない生活なんて、考えられないもの。若い頃は健康にも自分の命がまだ続くことにも自信があったけれど、この歳になるといろいろ不安なの。……あなただけでも残ってくれて、本当によかったわ」
 歳のせいか体調のせいか、ミセス・ヴィレットはそう言って涙ぐんだ。少女・ロザリーヌはその同情を、薄く笑って受け流す。
「今いるクインガーデナーがわたくしひとりというだけで、市井にガーデナーの能力を持つ者はまだまだいますのよ。わたくしの従者のジャックも、冥界の花を見ることができますの。少しでも力をつけてくれればと、いろいろ教えている最中なんです」
「まあ、そうなの? でもやっぱり、ただのガーデナーに見てもらうのは、ちょっと……」
 ロザリーヌは自分の従者であるジャックを推すような発言をしたが、ミセス・ヴィレットは影のように控えているジャックを一瞥して眉をひそめた。
 そういった反応には慣れているため、ジャックは特に気にしなかった。ミセス・ヴィレットの反応も、ごく当然のものだと受け止めている。
 自分の命にかかわるものをどこのものとも知れない者に触れさせたくないというのは、当たり前の感情だろう。
 生物の魂は死後、冥界にたどり着く。その冥界はそれぞれの魂ごとに存在していて、そこには花や樹が植わっているのだ。
 この国の人々はそれを冥界の花や冥界の樹と呼んでいて、生きているときから大切に考えている。というのも、冥界の花樹と生きている肉体は密接に関わりがあり、花樹が傷んだり病んだりすると肉体も弱り、行いが悪かったり呪われたりすると冥界は荒むからだ。
 そのため、多くの人々が冥界が荒れて花樹が弱らぬよう心がけて暮らしているし、ミセス・ヴィレットのような金銭に余裕がある人は、花樹を見てもらうために専門家を呼ぶ。
 その専門家が、ガーデナーである。
 ガーデナーは常人には見ることができない冥界の花樹を見て、触れることができる。そして、花樹を世話するのに役立つ何らかの能力を持っている。
 ガーデナーの中でも特に優れた者たちを女王が重用し、保護していたことから、彼らはクインガーデナーと呼ばれ、貴族たちなどからも信頼されているのだ。
 女王の庭師の称号を持つガーデナーは、今では地上にはロザリーヌただひとりになってしまったが。
「地上にはわたくししかおりませんが、女王陛下は飛空城に何人か優れたクインガーデナーを抱えてらっしゃるそうですから。きっといつか、また地上にもクインガーデナーが数を増やすでしょう」
「そうね。天上で見込みのあるガーデナーを教育なさっているのかもしれないわね。それに、あなたが残っているのだから、いつでも家を再興できるのを忘れてはだめよ?」
「え?」
 ミセス・ヴィレットを励ますために口にしたことだったろうに、それを思わぬ話題に転換されてロザリーヌは面食らった様子だ。この手の話題は当の本人よりも、従者のジャックのほうが関心がある。
 この貴婦人の口からどんなことが飛び出すのだろうかと、ジャックはこっそり身構えた。
「レディ・ロザリーヌ、あなたはもう十六歳なんです。よき伴侶を迎えて子供を授かることができれば、再興に一歩近づくというものですよ」
「はあ……」
「サジュマン家とは古くから懇意にしてますから、私があなたと釣り合いの取れる殿方を見繕うこともやぶさかではありませんよ。レディ・ロザリーヌのことは娘のように思っているのだから、娘婿を選ぶつもりで真剣に選ばせていただくわ」
 ミセス・ヴィレットは力強く、とても頼もしい笑みを浮かべて言う。それに何より、ひどく楽しそうだ。そのうきうきとした様子に、ロザリーヌはちょっぴり困った顔をした。
「……ありがとうございます。でも、まだわたくしには早いかと思うのです。年齢的な意味ではなく、クインガーデナーとして。陛下からいただいた称号に恥じないガーデナーになれたと実感したときには、きっとお願いしますわ」
 ロザリーヌは恥じらうように言って、ミセス・ヴィレットの申し出をかわした。
 ミセス・ヴィレットのいうようにロザリーヌがいい年頃なのは間違いなく、嫌気がさすほどこの手の話題はどこへ行ってもされるのだ。実際に何件も縁談の申し込みが来ているが、執事がすべて断りを入れている。
 親を亡くして女王陛下のほかに後ろ盾のないロザリーヌのことを気遣ってくれる貴族や有力者は大勢いるものの、ロザリーヌはいつもその唯一の後ろ盾の名を口にして面倒事から逃れている。
「まあ、そうね。陛下もきっと何か考えがおありでしょうし。……ああ、そうだわ。そこの従者の方。あなた、東方の国と縁があるのよね? 見てもらいたい植物があるのだけれど」
「は、はい」
 ミセス・ヴィレットがロザリーヌの縁談から興味がそれてほっとしたジャックだったが、突然話題を振られて驚いてしまった。
「こちらへ来てちょうだい」
「はい、ただいま」
 ミセス・ヴィレットが歩きながら手招きするほうにあるのは、小さな温室だ。なぜ温室に呼ばれるのだと思ったが、よく考えればジャックは東方人の庭師を祖父に持ち、その縁でサジュマン家に雇用されているという設定になるのを思い出した。とはいえあくまで設定で、別段東方の植物に詳しいわけではないから、焦る気持ちは変わらないが。
「これを見てほしいの。東方の国から輸入されたものなのだけれど、花が全然咲かないのよ」
「これは、シャクナゲですね」
 温室の隅で見せられたのは、花のついていないシャクナゲだった。たまたま知っている植物だったことに、ジャックはひとまず安堵した。
「こうして温室で大切にしているのに、花をつけるどころか弱っている気がするの」
「シャクナゲは日の光や暑さがあまり得意ではないんです。ですから、少し日蔭の、風通しがよいところに植えてやったほうが喜びます」
 ジャックは、かつてロザリーヌに言われたことを思い出しながら口にした。サジュマン家の庭園の手入れをするのは主にロゼリーヌで、そのときに彼女は様々なことをジャックに教えてくれるのだ。まさに今このときのように、知識がいつ役に立つかわからないから。
「それと、水はけのよい土壌にしてやらなくてはいけないのよね、ジャック?」
「は、はい。そうです」
「わたくしも以前弱らせてしまったことがあって、それでよく覚えているんです。ジャックがいるから、本当に助かるわ」
 ロザリーヌが助け舟を出してくれたことで、ジャックは難を逃れることができた。ミセス・ヴィレットのジャックへ向ける視線が、得体の知れない異邦の混血児を見るものから多少マシなものに変わるのを感じた。
「丁寧に教えてくれてありがとう。さっそく庭師に言って植え替えさせるわ」
「少しでもお力になれたのでしたら、光栄です」
 ジャックがそのスラリとした体を曲げて礼をすると、ミセス・ヴィレットの目の色がまた変わった。姿勢や所作は執事に厳しく仕込まれているし、ロザリーヌが言うにはジャックの容姿は悪くないらしい。だから、ミセス・ヴィレットの視線も、見目のよい者に向けるそれだ。ロザリーヌに、女性相手には礼儀正しくにこやかでいればいいと教えられているのがよかったようだ。
「異国の血が入っていると何かと苦労もあるでしょうが、それでもサジュマン家に雇ってもらえているのは幸運なことなのよ。感謝して、よく仕えなさい」
「はい」
 ミセス・ヴィレットの言葉には少しも感慨を抱かなかったジャックだったが、主人であるロザリーヌに感謝して誠心誠意仕えよということは抵抗なく受け入れることができた。もとより、言われるまでもなくロザリーヌには感謝しているし、彼女以外に自分の主はいないと思っている。
「そういえば、貧しい人たちが倒れるなんて事件が続いているんですって」
 ひとしきり温室内の植物を検分したあと、東屋に戻ってお茶を飲みながら休憩していると、不意に思い出したようにミセス・ヴィレットが言った。
 ロザリーヌはお茶をいただくといつもすぐに暇を告げるから、ミセス・ヴィレットは世間話で引き留めようとしているようだ。少しでもロザリーヌが興味を持つ話題をと考えたのだろうが、お茶の席でするにはやや剣呑な話題に思える。
「貧しい方たちって……」
「教会地区のほうではなくて、郊外の、裏通りとかの話よ。うちのメイドが出入りの業者から聞いた話だから、そんなに詳しいことは聞けなかったのだけれど。流行り病でないといいわね」
「そうですね。病となると、まず犠牲になるのは弱い方たちですから。でも、病でないとすると原因がわからず、それも怖いですね」
 話題にしておきながら、ミセス・ヴィレットはあまりこの話に関心はないらしい。だが、ロザリーヌとジャックは違う。ふたりともさして顔には出さなかったが、引っかかりを覚えた。
 怪しい話には、用心しておくにこしたことはない。
「信頼できるガーデナーの数が、もっといるといいのですけれど」
「貧しい人たちも冥界の花を見てもらえるようにって? どうかしら。本物のガーデナーかどうかを見分ける術がないのだったら、医者にかかったほうがよほど利口だと思うわ。怪しい人物にお金を払うより医者にかかるほうが確実ですもの」
「それは、そうですけれど……」
 冥界の花樹は常人には見えないものだ。そのため、花樹を見るというガーデナーの能力も不確かなもので、それを悪用した偽ガーデナーのような者もいる。
 また、詐欺師だと思われたくなくて、ガーデナーの能力を秘して生きる者もいる。
 貴族のようにクインガーデナーに見てもらえない人にとっても、冥界の花樹は大切な存在だ。たとえ医者にかかっても治せないものがある。
 だから信頼できるガーデナーが市井にも、とロザリーヌは言いたかったのだが、ミセス・ヴィレットには伝わらない。彼女にとっては関係のないことなのだろう。
 こんなふうに、生きるべきものとそうでないものがいて、自分は間違いなく前者だと信じて疑わない人がいるのだ。
 その残酷さを思って、ジャックは気分が悪くなった。
 主人であるロザリーヌのために、顔には決して出さないが。
「そろそろお暇させていただきますね。今日はもう一件、お約束が入っておりますの」
 これ以上の長居は無用と、ロザリーヌは席を立った。にこやかにしているものの、おそらく気分を害したのだろう。
「まあ、そうだったの。お引き留めして申し訳なかったわ」
「本当はもう少しおしゃべりしたいのですけれど……楽しい時間をありがとうございました。またいつでもお呼びくださいね」
 ロザリーヌはさも名残惜しいというふうに言って、ミセス・ヴィレットに手を振って歩きだした。ジャックも、その後ろに影のように付き従う。
「ロザリーヌ様、大通りに出て馬車を捕まえますか?」
 屋敷の敷地を出てすぐ、ジャックはロザリーヌに声をかけた。
 行きは馬車に乗って来たし、ミセス・ヴィレットに会いに行くために流行りの装束に身を包んでいるロザリーヌを歩かせるのは、やや不安があった。貴婦人の服は、長い時間歩いたり動いたりするのに向いていない。特に、ロザリーヌが小柄なのを気にして履いている踵が高めの靴は。
「もう! わたくしの名前はロザリーヌじゃないわ。ロランヌよ。仕事以外のときはロールと呼びなさいって言っているでしょう?」
 少し先を歩いていたロザリーヌは、くるりと振り返って言った。その顔を見れば、拗ねているのがわかる。
 ロランヌ・ロザリーヌ・サジュマン――ジャックが仕えるこの主は、クインガーデナーとしての名前で呼ばれることを嫌がるのだ。
 ロザリーヌは、サジュマン家の女性にはすべて付随する名である。女王から賜った、クインガーデナーである証だ。
 だが、ロザリーヌあらためロランヌは、親しい者には愛称以外で呼ぶことを許していない。
「……失礼いたしました、ロール様。それで、馬車はどういたしますか?」
「いらないわ。今日は薬を仕入れに行っておきたいの。何となくだけど、多めに手元にあったほうがいい気がして」
「かしこまりました。でしたら、彼がいそうな通りに向かいましょう」
 ロランヌがいう薬屋は、普通の薬屋ではない。冥界の花樹に効く薬を扱う薬屋で、そのため普通の薬屋のように店を構えていない。
 だから、薬を求める場合は薬屋――その業務形態から薬売りと呼ばれる――がいそうなやや奥まった通りの路地裏あたりを探るのだ。向こうも何やら心得があるらしく、こちらが薬を求めているとふらりと現れることが多い。
 馴染みの薬売りが大抵いる通りを目指して、ふたりは歩きだした。
「あ、飛行船……飛空城だわ。陛下、今日は王都へいらしていたのね」
 ふと大きな影が地面を暗くした。足を止めて見上げると、そこには立派な飛行船が浮かんでいた。この国の技術の粋を極めた特別大きな飛行船は、女王が乗っているため飛空城と呼ばれている。
「それにしても、いつ見てもすごいですね。何であんなでかいものが空に浮くんだろ……」
「技術のなせる技だわ。我が国は技術大国だもの。周辺国とは違うのよ」
 ジャックのぼんやりとした呟きに、ロランヌは誇らしげに答えた。
 ロランヌが女王贔屓だからというのもあるが、この国の人々は自国に対して誇りが強く、周辺国――特に海を挟んで隣の国――に優越感を持っている。
 こういった思想には、この国の成り立ちが大きく関係しているとジャックは考えている。
 飛空城に住まう女王が治めるこのメイグース王国は、もとは大陸西に位置するハイリヴァルト王国の一部だった。現在メイグース王国となっているのはハイリヴァルト王国の西方沖にある島で、辺境伯を配し海洋都市として王国の文化と技術の拠点の役割を長年担ってきた土地でだ。そのため力も強大だった。
 もともとハイリヴァルト本土は気候に恵まれず、作物がなかなか育たない場所だ。そして周辺国とは大昔から緊張が絶えず、ちょっとした小競り合いや日々の防衛のために、国力はそこに割かざるを得なかった。
 そのせいで国民は長いこと飢えと重い徴税に耐え、耐えきれない者たちは海を渡って比較的豊かな海洋都市を目指したのだ。
 本土からの移民を大勢迎え入れた時期と、海洋都市で技術革新が起こった時期がちょうど重なり、そこは多くの雇用を生み出すことに成功した。本土で苦しい生活を強いられていた人々は移り住んだ海洋都市で仕事を得て、豊かに暮らせるようになったのである。
 そうして産業が発展して海洋都市が豊かになったことで、本土は圧力をかけて搾り取ろうとした。
 だが、それを機に辺境伯は王国からの独立を宣言した。民の救済を考えず、税収を増やすことばかり考える国のやり方に嫌気が差したのだ。
 領民と領地を守るために海洋都市は、徹底的に王国と戦う姿勢を示した。そのため、ハイリヴァルトは少しの抵抗ののち手を引いた。
 力量差と周辺国との関係を考えれば当たり前のことで、敵を増やしたくないハイリヴァルトはメイグース王国と〝友好国〟になるしか道はなかったのだ。
 ハイリヴァルトの圧政に苦しめられた人々が移り住んで発展させた国という自負があるため、メイグース王国民はこの友好国のことが本音では嫌いであり、見下している部分がある。
 建国百周年が経とうとしているが、その意識が薄れることはなさそうだ。
「もうすぐ陛下の生誕祭ね。今年はどんな感じになるのか、とても楽しみだわ」
 女王に心酔しているロランヌは、いつまでも飛空城に手を振りながらうっとりと言う。
 この国の民はほとんどが美しい女王のことが好きで誇りに思っているが、ジャックにとっては自分の主人のほうがよほど美しい。
 腰まである癖のない髪は雪の夜の美しさを思わせるような銀色で、それと同じ色の睫毛に縁取られた大きな目は宝石みたいな紫色だ。輪郭も鼻も唇も、指先の爪ひとつひとつに至るまで一流の人形師の手によるものかのように美しく形が整っていて、視界に入れるたびに見惚れずにいるのが難しいとジャックは感じている。
 それなのにロランヌ本人は自身の美しさを自賛することなく、女王のみがこの世の美しいものであるかのように考えているようだ。
 衰えというより時間の流れを感じさせない女王の姿は、確かに驚嘆するが。
「陛下は、何歳になられたのでしたっけ?」
 不意に浮かんだ疑問を口にすると、驚いたようにロランヌが振り返り、眉間に皺を寄せた。
「陛下のお歳のことは、口にしないのが懸命よ。……再来年でご即位六十周年であることだけ頭に入っていればいいわ」
「そうでしたね。失礼しました」
 なかなか国民の前に姿を現さない女王だが、彼女の絵姿が入ったものはよく見かける。その中に描かれる女王はいつでも若々しく、女神のように美しい。実物を遠くから見たときにも、ロランヌの姉といっても通用しそうな見た目だった。
 進んだ技術に支えられる軍事力がこの国の武器だと言われているが、衰えを知らぬ女王の見た目こそが、最も周辺国への抑止になっているのではないかとジャックは考えている。
「おっと……いたいた」
 飛空城を見送って再び歩きだして奥まった通りに入ると、ジャックはすぐに細い路地にお目当ての人物を見つけた。
 猫くらいしか通らないのではないかという狭い路地に、山高帽にフロックコートという紳士然とした人物がいるのは、異様な光景だ。だがそれ以上に奇妙なのは、その人物が鳥の嘴を思わせるペストマスクを着けていることだろう。
「おやおや。お嬢さん、ジャック、こんにちは」
「ごきげんよう、ピー」
「会えて嬉しいですよ。もしかしたらもしかするのではと、このあたりにおりましたので」
 ペストマスク紳士のピーは、恭しく膝を折って礼をした。怪しげな雰囲気に反して、この男はいつだって礼儀正しい。そして、本当に察しがいい。
 店舗を構えていないピーを捕まえるのは難しいはずなのに、ロランヌもジャックも彼を探し回ったことなどない。いつも同じ時間に同じ場所にいるというわけではないのだが、こちらの需要に合わせたように現れるから助かっている。
「少し不安なことがあって、薬を仕入れに来たの」
「いつもの揃っておりますよ。除虫剤に栄養剤、除草剤、土壌というか環境を整える浄化剤なんてものもご用意しました。で、不安なこととは?」
「人が倒れる事件が起きていると耳にしたの。病の流行についてはまだ聞こえてこないから、原因がわからなくて何だか怖いわ。だから、薬の備えはきちんとしておこうと思って」
「ほぉ……」
 心配事を訴えるロランヌに、ピーは相槌とも何ともつかない吐息のような声で答えた。マスクで顔が見えないため、彼がどういう顔で話をしているのかわからない。だが何となく、面白くなさそうなのは伝わってきた。
「そりゃ、こんな空気の悪い国なら倒れる人も出るでしょうよ。この百年で、ずいぶん空気が汚れてしまったと聞きますから。やれ工場だ、やれ発展だと豊かになったような気でいますが、生きにくくなっている面もありますよ」
 どうやらこの話題は、気難しいところのある薬売りにとって愉快なものではなかったらしい。ペストマスクをつけていることからもわかるが、彼は空気の汚れに敏感だ。
 生まれたときからずっと、工場からの排気によってややくすんだ空しか知らないジャックたちにはわからないものの、ピーが言うにはこの国の空気はとても汚れているらしい。技術の発展が環境を悪くしていると、薬売りは折に触れて訴えてくるのだ。
 とはいえ工場があるのは郊外で、王都であるここはそこまで空気が悪いわけではないはずなのだが、ピーはペストマスクをして生きていくと決めているようだ。
「空気が悪くて体調が悪くなって倒れる人が出ているというのは、あるかもしれないわね。でも、そうだとしても備えておきたいのよ。ガーデナーの私に、何かできることがあるかもしれないもの」
「まあ、それはそうですね」
「ピーが店を構えて、冥界の花樹のための薬がもっといろんな人の手に入りやすいものになればいいのだけれど」
「それは、ちょっと……」
 マスクで顔が見えないはずなのに、ピーがうろたえたのがわかった。
 店を出さないのかという問いはこれまで何度かしたことがあったが、そのたびピーは戸惑った様子だった。
「僕はそもそも、接客が苦手ですから。人間なんてできれば相手にしたくない。それに、薬売りなんて社会的信用がありませんからね。みんな、クインガーデナーが出す薬だから信じて服用するだけで、僕から買わなければいけないなら飲みやしませんよ」
「そういうものなの? そのマスクをやめたら、少しは信用されやすくなるんじゃないかしら」
「いやいや、信用がないのは僕じゃなくて薬売りの話ですよ。代々薬売りは社会的信用がないんです。大陸の東方の国じゃ重宝されてるみたいですが、それでも扱いは呪術師に近いものらしいですから。みんな信じちゃくれないし、僕もこの商売の仕方に不満はありません」
「あら、そうなの」
 ロランヌも本気でピーに店を持たせたいわけではないから、あっさりと引き下がった。ただ少し、この不思議な知人のことを心配しているだけだ。それはジャックも同じだから、ロランヌの気持ちはよくわかる。
 ジャックは何度か彼がどこでどんなふうに暮らしているのか気になって尾行してみたが、簡単に見失ってしまい、路地はこの世ではない場所に繋がっているのではないかと考えるしかなくなった。
「今日はいつも通り除虫剤と栄養剤、それから浄化剤というものをいただくわ。浄化剤は、どういった場合に使うものなのかしら」
「簡単に言うと、冥界が荒んでしまっている人に使うものですね。花樹をどうこうする以前に環境を改善せねばならんような人もいるでしょう? ああいうのに、効くというわけです」
「そうね……いるわね」
 ピーは背中のカバンから取り出した薬を紙袋に詰めて、ロランヌに差し出した。いつもはそれでハイ、サヨナラとなるのだが、今日は違った。
「世の中には、どうしようもない人間がいます。特に、冥界が荒むやつは碌でもないです。冥界が荒むことと花樹が傷むことは、根本的に別物です。クインガーデナーだからって、お嬢さんが何でも背負ってやる必要はないんですよ」
 ピーはロランヌをじっと見つめて言った。マスクに隠れて顔は見えないが、彼が真剣な表情を浮かべているだろうことは想像できた。
 ロランヌとジャックがピーのことを心配しているように、彼もロランヌを心配しているようだ。
「ありがとう。でも、私にできることがあればやらなくちゃ」
「……そうですか。それなら僕は、お嬢さんのために薬を売りますよ」
 そう言ってピーは、また静かに路地裏に消えていった。本当に、気がつくといつもいなくなっている。
 得体が知れないが悪いやつではない――それが、ジャックがわかっている薬売りピーのすべてだ。

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