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幼なじみ

 「吉原お嬢」
                                 夢野 菜っ葉
     幼なじみ
 お江戸の昔から遊女屋がひしめく所、ここ吉原は年号が『昭和』に変わっても一層賑わっていた。
昭和6年、初夏の夕暮れ時―艶っぽい三味線の音が聞こえてくる。
「いいお湯だったこと――」
夏代さんは、洗い髪を風に梳かしながら、気持ち良さそうに下駄を鳴らす。
「鈴ちゃん、もうすぐ”初見せ”だね。
あんたなら、きっと、いいお客が、つくよ。」
夏代さんは、私の肩をポンと叩いた。
私は、見習いなので、夏代姐さんの部屋に居候しながら”小間使い”をしている。吉
原で暮らして3年近くにもなるけれど、毎日故郷を思い出す。母さんと弟が暮らす田舎に帰りたい…
 でもそれは無理。もうじき“初見せ”で、知らないお客に身体を汚される。 まともな女なら命より大切にしている純潔を、金で売るのは情けない。
大通にぼんぼりが灯る頃、そぞろ歩きの男衆が増えてくる。背広に帽子を被ったハイカ
ラさん。軍人や、袴を着た人もいる。
夏代さんは向かいから歩いて来る軍人達を見て、立ち止まる。
 「キャアー鈴ちゃん、輝(ひかる)だ!」
 「え……輝?」
 輝…姐さん達が噂している人だから、名前だけは知っている。
「わぁ!顔、綺麗」
興奮気味の夏代姐さん。その視線を追う。
あれ?
まさか!
信じられないけど。
やっぱり、アイツ。ひ・か・る!
あの泣き虫“輝“じゃないか。背が高くて白い肌。澄んだ輝く瞳。そして、真面目で、一途な雰囲気は、変わってない。間違ねぇ。
 「夏代さん! あの人、知っています。」
「え?」
「幼なじみ。」
「え?輝と、幼なじみかい?
そいつは、凄いね!あんな、綺麗な幼なじみがいるなんて、うらやましい。それに、吉原で、ばったり出会うなんて。神様が引き合わせてくれたに違いない。行って話しておいで。」
「……行かない。」
ガキ大将だった頃、ケンカで負かしたアイツは…今はやけに立派でくやしかった。
カーキ色の軍服を着た軍人さん達が五、六人。その先頭が輝。軍人さん達は、サーベルや徽章を茜色の夕日に光らせて颯爽と歩いてくる。サーベルが揺れる音や、快活な足音。  
アイツに顔を見られないように下を向く。すれ違って、すぐ横を輝が通りすぎたけれど脚元しか見えない。あっという間に行ってしまった。
 「あら、鈴ちゃん。恥ずかしがって。あんな、いい男めったにいないのに…
ま、あんたの気持ちも分かるけど。でも、くよくよしちゃいけない。あたしら廓の女は人生で、一番大切な物を持っているから。」
 「え?人生で、一番大切な物って?何ですか?それ?お金ならわたし、持ってないです。」
 「はははー ”諦め”だよ。あきらめ。」
 夏代姐さんは、ふわりと長い髪をかき上げた。
 なんだぁ。”あきらめ”って?あぁーなんとかして『婦女画報』に出てくるお嬢様さまのような華やかな人生を送ってみたい―――現実から逃げるため、そんな夢を見るけれど、無理に決まっている。
 「くそっ!」思わずつぶやいた。
「あらら…また、それかい?汚い言葉はおやめ。言うなら廓言葉だよ。」
夏代さんの言う事は、ごもっとも。けれど自分の事を“あちき”なんて言う廓言葉は、大嫌い。『くそっ!』は子供の頃の口癖で。強くなれるおまじない。
 「そんなに浮かない顔して。お客を取るのはいやかい?鈴ちゃんは、まだ十七歳。お国のきまりでお客は取れないけどさ。今度の誕生日から仕事だよ。くよくよしたって、はじまらない。お馴染さんをたくさん作ってうんと稼ぐようにしなくっちゃ。一番大切な事は――」
 夏代さんは、ちょっと、遠い目をしてから話し出した。
 「花魁は、客を好きになっちゃいけない。そのかわり、客には好いてもらう。」       
「あーぁ。現実は厳しい。夏代さん……いい人は?」
「いたけどね。ちゃんとした娘さんと結婚しちまった。そんなもんだよ。世の中は。
……あれ、まぁ――向こうからフラフラ歩いて来るのは――やっぱり若旦那じゃないか。
あたしのお客なだけど、洗い髪じゃ顔を見せられない。こっちの裏道から行くから、ダンナの御機嫌を取っておいてね。鈴ちゃん、ばいばい。」
夏代さんは小走りして逃げるように脇道に消えた。
「あ!夏代姐さん!待って!」
着流しの若い男がこっちへ来る。裕福な呉服問屋の若旦那風で、吉原に何日も居続けしている感じ。酔っているのか足取りはおぼつかない。いやだな。ご機嫌なんてとるものか。顔をそむけてすれ違う。
 「おい!」
 ギクッ!呼び止められた。
「は?」
「夏代はどこだ?さっきまで君と一緒にいただろう?」
 若旦那はニヤニヤしながら接近してくる。
 「若いなぁ……あんた…初見せは、まだなの?」
 言いながら若旦那はいきなり私の帯をグイと引っぱって引き寄せた。
うっ!
動けない。酒臭い息が気持ちわりい。
「おっ!体は大人だね。」
 きゃ!襟元から男の手がスッーと入ってきた。
 風呂上りで、浴衣一枚なのに!
「止めて下さい。」
「ほら、いい子だから…じっとして…」
「くそっ!」
思いきり脚元をすくってやった。
ドドドド、ドッテーン。
ソイツは地面に倒れる。手足をバタバタさせているが、酔っているから立ちあがれない。
 ふふふ
この快感は、久ぶり。
吉原じゃ、女らしくと、きつく言われていたし、喧嘩相手もいなかった。でも、腕は鈍ってない。ははは。あ―すっきりした。さっさと帰ろう。
 ……と。
「待てよ!てめぇ、どこの子だ?え?どこで、働いる?
恥かかしてくれたな。ただじゃすまねぇぞ。」
追いかけてきたソイツにグイと肩を掴まれた。店の名前出したら叱られる。それだけなら、まだがまん出来るけど、罰とし借金が増やされたらたまらない。
「鈴っ!鈴!」
キリリと張った少年の声にソイツの手が止まった。振り向くとジュンがいる。
 育ち盛りのスラリとした体つき。整った顔には気品があって十代の少年とは思えないほどの気迫に満ちている。ジュンは、若旦那を精一杯恐い顔をして睨んでいる。こんなに小さくても私を守ろうとしてくれている。
「なんだ!この小僧は?」
若旦那は不機嫌そうに私から離れた。
「紫出原大臣の息子さん。小僧なんて言ったら、失礼ですよ。」
「はっ?!あの外務大臣の?紫出原伯爵の子供?華族様なら、子供でも勝ち目はないわな。お坊ちゃま、失礼しました。」
ソイツは、そう言うとフラフラと歩きながら行ってしまった。
よかった。ジュンが声をかけてくれたから助かった。でもジュンに変な所を見られて何
故か、悲しかった。この子は大人の世界をどのくらい解っているのだろう。
ジュンは故郷の弟と同じくらいの歳頃で私になついている。
「お坊ちゃま、ありがとうございます。おかげで助かりました。」
「ああ。鈴は僕が守るから。」
誇らしげにニッコリ笑って大きくうなずいた。仕立てのいい上着と半ズボンが可愛らしい。
「お父様といらしたの?」
ジュンは、育ちがいい。だから弟と話すようにはいかない。女将さんから丁寧に話すよう注意されている。
「お父様と二人で浅草のお汁粉食べて、それからお猿さんの芝居を見たの。」
「お猿の芝居?」
「猿が服を着て犬を引っ張って歩いたの。凄いでしょう。」
伯爵様は恐妻家なので、ジュンを浅草で遊ばせるという口実で吉原に来る。伯爵様が
遊んでいる間、ジュンの相手をするのは、私の仕事になっている。
「今度は、鈴も一緒に行こうよ。」
「ええ、そうね…」と返事はしたけれど、この吉原からは、許可がなければ、一歩も外には出られない。借金が五百円 もあるから。この体で稼いで、そのお金を返すまでは、囚われの身。
「お父さんが、鈴と遊んでおいでって…」
ジュンは少し困ったようにうつむいた。もう、学習院初等科6年生だから、大人の世界
が、うすうすわかるのだろう。
「お手玉、やってよ。」
ジュンはズボンのポケットから大切そうにお手玉を2個取り出した。それは、私が着物
の端切れで作ったもの。贅沢に育ったジュンが、粗末なお手玉を宝物みたいに持っていたのでうれしかった。 
ジュンは「アソコに行こうよ――」と、甘えるように私の着物の袖を引っ張った。
両側に二階建ての茶屋が並んでいる大通り。その入り口には植え込みがあり、春は桜、秋は菊人形と植木職人さんが季節の花で飾っていた。ジュンと、その植え込みに潜りこむ。青竹の柵と植木の陰になって、仲之町大通りを歩く人達から見えにくい。
ジュンは軍人さんの歌が好きだから、小さい頃故郷で母さんから習った歌を小声で歌いながら、お手玉を夕暮れ空へ抛りだす。

いちー
一列談判(らんぱん)破裂して~♪
にー
日露戦争始まった~♪
さっさと逃げるはロシアの兵~♪

「鈴っ! 僕にもお手玉やらせて。」
「はいはい。さあ、どうぞ。」
お手玉を渡すとジュンはうれしそうに遊びはじめた。
「♪~達者で戦争なされよと♪万歳万歳万々歳 」
「歌もお上手ね。」
「勇ましい歌だね。僕も、大きくなったら軍人さんになろうかな。」
 え?
 なんだか悲しい。
 軍人さんは偉いし男らしいけど。ジュンが戦争に行くなんて可愛そう。
「ジュン!お願い!軍人さんにならないで!」
「え?どうして?」
「……ジュンが、殺したり、殺されたり……そんなの、悲しい。」
「うん。わかった!鈴を悲しませることは絶対しない。だって、僕は、鈴が大好きだから。」
 笑った顔が凄く優しい。私もジュンは大好き。

「鈴子?鈴子、どこ?
旦那様がお帰りですよ。純一郎様をお部屋へおつれして。」
引き手茶屋のお女将さんが呼んでいる。
「ジュン!帰りましょう」
ジュンの手を引っ張って植え込みから這い出した。茶屋の前まで来ると、ジュンは又お手玉の練習を始めた。
「おい純一朗。帰るぞ。」
茶屋の軒先に下がっている花暖簾(のれん)をかきわけて男の人が現れた。ジュンのお父様だ。鼻の下に、左右にピンと張った立派な口髭があって、思わず低く頭を下げる。姐さん達の噂では貧乏な生い立ちをバネにして実力で政界の上部にのし上がり、伯爵家
に婿に入ったらしい。四十歳ぐらいだろうか。
「お父様、もう少し鈴と遊んでいたいな。」
「もう、日も暮れてしまった。車も待たせている。」
「…はい。」
ジュンは仕方なさそうに「又、来るよ」と言って走り去った。

伯爵さまかぁ…
フロックコートと山高帽子が似合っていた。貧乏して死んでしまった父さんとは月とスッポンだわ。
お店に帰ろうとした時…チャランコ チャランコと金棒引きの音が聞こえてきた。花魁道中が始まるらしく通りに人々が集まってくる。私も人の流れにつられて沿道に並んだ。 
今日の花魁はどんな打掛だろう…髪飾りはべっ甲かしら、銀かしら…
 箱提灯を持った若い男の人が先に立ち、振袖を着た少女が二人並んで歩いてくる。続いて花魁が高下駄でしずしずと進んで来た。べっ甲の簪を幾本もさし、緋色の打掛けは三枚重ね。銀の帯をだらりと前に垂らしている。
 沿道にはどんどん人が集まってくる。
 美しく着飾った花魁は高下駄をはいてゆっくり一歩、一歩八文字をなぞって進んでいく。
 これほど豪華な”花魁道中”を歩くのは、売れっ子の太夫に違いない。
 「や、上玉だな。」
 「吸いつけタバコなんて、たまんねぇぞ。」
 「無理、無理。花魁は、大名道具って言うじゃねえか。」
 若い男の人達が騒いでいる。声の方を見ると、さっきの軍人さん達だ。
 輝もいるかな?
 そっと見回す。
 あ!いた。
 同じ列、一人挟んで隣にいる。
 すごい!こんなに近くにいるなんて。さっきすれ違った時は、はっきり見ていない。今は少し後ろに身を引いて輝を盗み見る。視線は後ろからでも感じるというけれど。こうして、じっと見ていたら気づくかな?
 だめだぁー輝は花魁に見とれている。こっち向け。顔見せろ。
 ゛トン゛゛トン゛と下駄で土を蹴る。
 え!?
 輝が振り返ってこっちを見た!目が会ってあわてて、逸らす。びっくりした。気づいたかな。
 輝はこっちを見て……
 「お~ぉ!」
 と、声を上げ、嬉しそうに笑った。
 「鈴!鈴でねぇか?!」
 手を振って駈けよって来た。
 「お!近くで見てもやっぱり鈴だ。大人になって、見違えたべ。」
「輝も!デカクなったなぁ。
昔はヒョロヒョロしてたけんど。もう投げ飛ばせねぇや。」
「ははは。鈴は強かったな。俺はよく、泣かされた。」
あぁ……懐かしい。ふと、小さかった頃、みんなで駆け回った草原が蘇ってきた。
……あそこには…ウサギが走っていた……

しおり