第45話 水泳大会※梨々Side※
8月30日。
この日はお兄ちゃんが出場するはずだった水泳大会の日だった。
東京の大きな競技場で開かれるこの大会は、全国からトップ選手が集まる、とてもレベルの高いものだった。
お兄ちゃんはその中でも優勝候補として期待されていた。
そんなお兄ちゃんの突然の悲報に、水泳関係者は驚きと悲しみを隠せないでいた。
お兄ちゃんと同じ中学校の水泳部の部員たちは、お兄ちゃんに自分らの勇姿を見てもらうためにと、お兄ちゃんの写真といつも身につけていたゴーグルと眼鏡と帽子、そして水着を持ってきていた。
梨々と両親も、そんなお兄ちゃんの仲間たちの応援をしに来ていた。
観客席の梨々の隣にはお兄ちゃんの写真。
水着姿でピースした、梨々の大好きな笑顔の写真。
ピースする手を見ると、梨々に安心感を与えた大きくて優しくて力強いあの日の温もりを思い出した。
お兄ちゃんは水泳界ではちょっとした有名人だったから、色んな人が梨々の両親に声をかけていた。
梨々の隣にあるお兄ちゃんの写真を見て涙目になる人もいた。
そしてそのお兄ちゃんの隣にいる梨々を見て、「これからはきっとお兄ちゃんに守ってもらえるよ」って言ってくれる人もいた。
梨々はお兄ちゃんの話をされるだけで泣いちゃうくらい、まだお兄ちゃんとの突然の別れを受け入れられていなかった。
だけどこの日は、そんな梨々が少しでも強くなるために、お兄ちゃんが全力を注いで大きな夢を描いていた水泳というものをちゃんと見ようと思って大会に来た。
あの夜、梨々はお兄ちゃんに捨てられたんだと思った。
だけどいろんな選手が泳ぎ競い負けて涙するのを見ると、お兄ちゃんはこんなに厳しい世界で上を目指して登りつめていたんだということを目の当たりにした。
こんなに厳しい世界なら、梨々や家族と離れて本気になって打ち込む環境が必須だったんだということを今更ながら実感した。
お兄ちゃんは、こんなに多くの人の涙の上に立っていたんだ。
背負うものの大きさが梨々には全く想像できなかったけど、大会が進むにつれてお兄ちゃんの凄さに恐れ多くなって震えそうになっていた。
大会が終わり、表彰式が始まった。
お兄ちゃんの学校の後輩が表彰台の一番高いところにいた。
彼はお兄ちゃんがいれば、そこには絶対に誰も立てなかったと言う。
お兄ちゃんが彼の後ろから優しく見守っているような気がした。
女子の部で優勝したお兄ちゃんと同じ学校の3年生の選手は、お兄ちゃんと同じ夢を語っていた。
オリンピックに出て、多くの人に夢と元気を与えること。
そしてそれを共に叶えるはずだった人がいなくなって、これからは一人でその人の分も頑張るということ。
その話を聞いて、梨々とお母さんは思わず涙が出た。
お母さんだけは知っていたみたいだけど、梨々もあの夜、お兄ちゃんの携帯で見たからピンと来ていた。
あの携帯のプリクラに写っていた女の子と、同じ顔だったから。
大会が終わってみんなが会場から出てくるとき、梨々は両親と少しだけはぐれてしまった。
人混みに流されてしまい、つい握っていた手を離してしまった。
梨々は人が少なくなるところまで歩き、そこで少し親を待つことにした。
「そこ、濡れてるから座らないほうがいい」
梨々は待ってる間、低くなっている塀のような部分に座ろうとしていた。
すると横からそんな声が聞こえてきた。
「……ほんとだ、ありがとう…」
声の方を見ると、梨々より少し歳上に見える男の子が立っていた。
その子を見た途端、梨々は言葉を失った。
高い身長にスラリと伸びた手足。
小さな顔は真っ黒に焼けていた。
明るい色の髪の毛はサラサラと風になびいていて、眼鏡の奥の真面目そうな瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
彼は、驚くほど梨々のお兄ちゃんにそっくりだった。
人懐っこいお兄ちゃんに比べ、目の前の彼は冷静でクールな印象だったけど、体や顔のパーツが本当にそっくりだった。
そのせいか、梨々は何故か泣きそうになってしまった。
嬉しいようなビックリしているような悲しいような寂しいような……
グチャグチャな感情をコントロールすることはできず、ついにそのこの前で涙を零してしまった。
「どうしたんだ?」
その子は怪訝そうに梨々の顔を覗き込む。
「………ううんっ………なんでもない…」
梨々は涙を手で抑えながら、何とかそう答えた。
梨々は本当に弱いな………
今日だって、お兄ちゃんが本気になっていたものに触れることで強くなろうと決めていたのに。
ちっとも強くなってない。
みんなはお兄ちゃんのことを受け入れて前に向かっているのに、梨々だけいつまでもメソメソしている。
お兄ちゃんとの差は開くばっかりだ…
「……両親とはぐれたなら、あそこでアナウンスしてもらうといい。一緒についてきて」
梨々がずっと泣いているのを見て、目の前の男の子は梨々が両親とはぐれて泣いているんだと思ったみたいだった。
梨々の手を引いて人混みの中を掻き分けて大会運営者たちのいるブースみたいなところへ連れて行ってくれた。
「……………泣きたいときは無理しなくてもいいと思う。悲しみが消えないのに無理して消そうとしなくてもいいと思う。今君が何で泣いてるのかは分からんが、つい泣いてしまう自分を責めてしまえば、そんな自分を誰が見守ってくれるんだ?
涙が止まらないほど追い詰められているなら、そんな自分を見守り受け入れられるのは自分しかいないんじゃないか?」
ブースに向かって歩いている時、手を繋いで前を歩く彼がそう言った。
彼の手はお兄ちゃんにそっくりで大きくて厚くて暖かかった。
そしてその彼から出てくる言葉も、梨々の心の鉛を溶かして温かくした。
「……っっ……そうだね……」
梨々は精一杯、そんなことしか言えなかった。
だけど彼はそのクールな目からは想像できないくらい、優しく………まるでお兄ちゃんの生き写しのようにそっくりな雰囲気で…微笑んでくれた。
彼のおかげで梨々は迷子のアナウンスをしてもらい、両親を待つことにした。
その間、彼はずっと梨々の隣にいてくれた。
「帰らなくても大丈夫なの?」
「ああ。俺も今姉貴を待っているから」
「お姉さんいるんだね。今日出てたの?」
「出てた。俺は泳ぐのは苦手だから、ここにいる選手全員を尊敬するよ」
彼が泳げないのはかなり意外だった。
お兄ちゃんに似てるから、勝手に泳げると思っていた。
「あ!いたいた優!帰るよ!」
人混みの中、遠くから女の人の声が聞こえた。
「姉貴が来たようだ。君の両親が来るまで一緒にいてもらうか?」
「えっ!いや!それはさすがに申し訳ない……お姉さん来たなら帰ってもいいよ!ここには本部の人たちもいるから、大丈夫!」
「そうか。では、気をつけて」
そう言って彼は、すぐに人混みに姿を消してしまった。
そういえばちゃんとお礼言ってない……
あまりにもあっという間にいなくなってしまったので、彼を追いかけようにも、もう人混みに紛れて姿すら見えなくなっていた。
名前だけ、一瞬聞き取れた。
優くん………
何歳なんだろう。梨々と同じかそれより上に見えたけど、お姉さんが中学生なら、やっぱり梨々と同じくらいなのかな。
というか、さっき優くんを呼んだ女の人…………
梨々の見間違えじゃなければ……
お兄ちゃんのプリクラに一緒に写っていた人だ。
今日の表彰台のトップに登って、お兄ちゃんと同じ夢を語っていた人だ。
優くんは、お兄ちゃんの彼女さんの弟だったのかな………
お兄ちゃんにそっくりな彼のことが、その時から頭を離れなかった。
だけど名前も名乗りあってない梨々たちは、お互いのことを何も知らなかった。
一緒にいたのはたったの数分間だから当然ではあるが、あの数分間が梨々にとっては強烈な思い出になった。
お兄ちゃんをなくしてから約2週間。
お兄ちゃんはいつものように梨々の近くで梨々を守ってくれているような気がしていた。
そしてさっき彼を見たとき………
お兄ちゃんが本当に目の前に現れたのかと思った。
彼が梨々のことを助けてくれたことも、そう思ってしまうのに拍車をかけた。
もしかしたらお兄ちゃんが彼になって梨々のことを守ってくれたのかな…?
そんな都合の良いことを考えてしまうくらい、梨々はあの彼のことが気になっていた。
それからその日は無事に両親と再会して家に帰り、月日は流れて梨々は中学生になった。
お兄ちゃんをなくした後に梨々はテニスを始めた。
本当は水泳をやってみたかったけど、梨々は泳ぐのが苦手だったし、お兄ちゃんが本気で取り組んでいたものを梨々は何となくできなかった。
あの夜、お兄ちゃんの水泳への気持ちを受け入れられなかったから。理解できなかったから。
梨々に水泳をやる資格はないと勝手に思っていた。
だけど梨々は、お兄ちゃんのあの真っ黒な肌と日に焼けた髪が大好きだった。
それで梨々は、外でできるテニスというスポーツを選んだ。
競技も何もかも違うのに、日に焼けた顔を見る度に勝手にお兄ちゃんと重ね合わせて喜んでいた。
そして梨々も、小学校を卒業する頃にはテニスに本気で打ち込むようになっていた。
その頃になってやっと、お兄ちゃんの気持ちが少しだけ分かったような気がした。
中学校は、地元から少し離れた部活の名門校を選んだ。
梨々はここでお兄ちゃんみたいに全国制覇を目指して全力で部活をすることにした。
そう、ここはお兄ちゃんが通っていた中学校でもある。
全国から部活で活躍する選手が集まる学校だ。テニスや水泳に限らず、いろんな競技が盛んだ。
梨々はここでもお兄ちゃんの面影を追ってテニスをしていくんだ……
そう思っていた。
入学式の、あの日までは。
入学式の日、教室に入り隣の席にいた男の子の隣に立っていた彼の姿を見た。
あの水泳大会の日、梨々を助けてくれた彼だった。
「冷泉優だ。よろしく。」
やっぱり、優くんだ。
あの日、お兄ちゃんの彼女さんに呼ばれていた優くんだ!
梨々はこの瞬間、いろんな感情が込み上げそうになった。
ふと気を抜くと泣いてしまいそうだったから、必死に笑顔を作って元気に振る舞った。
それでも緊張と驚きは抜けず、梨々はつい敬語で話してしまっていた。
彼は自己紹介をするとどこかへ行ってしまった。
彼の友達を残して。
優くんは、梨々のことを覚えていないようだった。
優しい彼にとっては、あの日梨々を助けたことなんてきっと日常茶飯事すぎて記憶にも残らないんだろう。
だけど梨々は嬉しかった。
また彼に会えたことが。
彼が変わらずお兄ちゃんそっくりだったことが。
そして彼への気持ちが恋だと言うことを、はっきりと自覚できたことが。
「梨々って好きな人いるの?」
後ろの席に座る小春に聞かれたこの言葉。
思い浮かんだのは優くんの顔だった。
そのことで、梨々は優くんを好きなんだと自覚した。
梨々は、優くんに恋してるんだ……
なんだかそれが、とても嬉しかった。
この学校で優くんと再び巡り合わせてくれたこと。
そしてここで優くんに恋できたこと。
きっとこの学校で全力で生きていたお兄ちゃんが、梨々に起こしてくれた奇跡なんだろうと思った。