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第43話 海と花火と※梨々Side※

小学5年生の夏。

茹だるような猛暑の8月、梨々はお兄ちゃんと2人でお母さんの地元にある海へ行った。

東北の沿岸部の夏は、都心とは違う雰囲気を感じた。


時折吹く強い風に温かい塩の香りが運ばれて、小さな塵ごと海に流されていく。

そんな力強い波の音が、梨々とお兄ちゃんの耳を通り抜けた。


「梨々、海に入るの怖いのか?」

真っ黒に日焼けした笑顔のお兄ちゃんは、浮き輪をはめて砂浜から動かない梨々に声かけた。


「こわい……波の音がこんなに大きいんだもん…」

「大丈夫だって!梨々は俺の妹だぞ?少し慣れればすぐに泳げるようになるから!」


勇気を出して足を前に運んでも、寄せる波を見るたびに尻込みしてしまう。
そんな梨々を見ながら、お兄ちゃんは困ったように笑っていた。



梨々のお兄ちゃんは梨々の5つ年上で、中学3年生だった。

幼稚園児の時から通っていたスイミングスクールで才能を発見され、中学に上がってからは全国の水泳大会で優勝するのが当たり前になっていた。


一方で梨々は、本当にこのお兄ちゃんの妹なのか怪しくなるくらい水が怖くて、水泳の時間が大嫌いだった。


「お兄ちゃんが手繋いでてあげるから。
もしどうしても怖くなったらしがみついてきていいよ。俺は絶対溺れないからさ」

「うう………」

「梨々も海で泳げるようになりたいって言ったから来たんだよ?少しでもいいから頑張って入ってみような!」

「………うん……絶対梨々の手離さないでね……!」


「離すわけ無いよ!」


優しく差し伸べるお兄ちゃんの大きな手に、梨々は恐る恐る手を重ねて一緒に歩き出した。

お兄ちゃんの言う通り、手を繋いでいれば絶対に溺れないかもしれない…

そう思わせてくれる大きな大きな手だった。



「梨々、大丈夫か?」

カメさんよりもゆっくりペースで梨々とお兄ちゃんは少しずつ海に入った。

「うん…」

梨々は怖かったけど、隣にお兄ちゃんがいるおかげで足の震えが収まってきていた。


「梨々もいつか、俺と一緒にこの広い海で泳げたら最高なのにな!

すっげえ気持ちいいぜ?海の流れに体を任せながら泳ぐのは」



お兄ちゃんは海が大好きな人だった。

晴れた空を眩しそうに眺めながらお兄ちゃんはいつもそんなことを言うのだった。


黒光りするほど焼けた肌は、太陽の贈り物。

茶色く輝く髪の毛は、渚の化身。

真っ白な歯を覗かせる笑顔は、眩しくて大きな日向のよう。


梨々はお兄ちゃんの全てが大好きだった。

昔から甘えん坊で怖がりで泣き虫な梨々を、ずっと近くで優しく見守ってくれて助けてくれた。

引っ込み思案だった梨々も、明るいお兄ちゃんの前では沢山お話できる子になれた。


お兄ちゃんは背が高くてスタイルがよくて、焼けた肌が引き締まった体を強調していた。

茶色い髪はワカメのようにサラサラと伸びていて、普段かけている眼鏡にかかっていた。

そんなお兄ちゃんは学校でも人気者で女の子にもモテモテだった。

大人しい梨々はそんなお兄ちゃんを羨ましく思っていた。


梨々とは性格も見た目も正反対だった。

だけど梨々は、ずっとお兄ちゃんみたいになりたいと思っていた。






その日の夜。

梨々とお兄ちゃんはお母さんの実家……梨々のおばあちゃんの家に戻り、皆でご飯を食べたあとに、家の前で花火をすることにした。

おばあちゃんの家は周りを田んぼに囲まれていて、隣近所のお家から500mくらい離れていたから、梨々たちは毎年夏になるとおばあちゃん家の前で花火をしていた。


「ほら梨々、線香花火だよ」

2人で沢山の花火をやった。

手持ち花火をアスファルトに近づけると、白く文字がかけることを教えてもらって、2人でいろんな落書きをした。

あっという間に最後の一つ、線香花火だけが残っていた。

「梨々、お兄ちゃんと勝負がしたい!

どっちの線香花火が長く持つか!」


「いいね!梨々が負けたら明日は今日よりも長い時間海に入ろうな」

「えーーそれはやだ!梨々絶対勝つ!」

「俺だって梨々と早く一緒に泳ぎたくてずっと待ってるんだよ?だからこの勝負も負けられないね」

「梨々だって負けないもん!」


梨々の言葉にお兄ちゃんは優しく笑って、2人の花火に火をつけた。


パチパチパチパチ……

いろんな虫の音が遠くで聞こえるのに重なって静かな花火の音が響く。

大きく広がって跳ねる火の華は、言いようのない儚さを含んで二人の前で踊っていた。


線香花火の火の勢いは、まるで梨々たち人間の命の姿を表しているようだった。

輝きを増して増して増して最後に散る。

だけど散る瞬間も、とても美しい。

尊い終わりを迎えた火の先は、地面に落ちてからもしばらく炎を小さく主張する。

1度しか来ないこの夏を忘れないで……

そう訴えられているような、そんな気がした。





「お兄ちゃんが勝ったね。ということで

梨々は明日も海に行きます!」


数秒遅く花火が消えたお兄ちゃんが、横で嬉しそうに笑いかける。


「んーもう……!しかたないなあ!」

「仕方ないってなんだよー勝負は勝負だろ?」

「お兄ちゃんのばかっ!」

「いやなんでだよ!俺は悪くない!」

梨々がむくれるとお兄ちゃんがケタケタ笑う。

梨々はそんなお兄ちゃんの笑顔が見たくて、ついいつもこうやってワガママを言っちゃうのだった。



「なあ梨々、お兄ちゃんな、もしかしたら梨々とこんなに長い間夏休み中遊べるのは今年で最後かもしれないんだ」


花火を終えた梨々とお兄ちゃんは、玄関の前に置いてある長椅子に腰掛けて話していた。

そんな時、お兄ちゃんが急にそう言った。


「え…………なんで…?」

「ごめんな。俺、来年から県外の高校に行くことにしたんだ。

その高校は九州にあってさ。

かなり遠いから頻繁に帰省もできないし、できたとしても部活で忙しくなるから数日間しか一緒にいられなくなるんだ。」

「そんな……」

「寂しい思いさせてごめんな、梨々。

お兄ちゃんも本当は梨々とずっと一緒にいたかったんだけど……

俺はもっともっと強くなって、いつかは世界に出てみたいんだ。

オリンピックに出て活躍して、日本中を元気にしたい。

俺は梨々と違って勉強もできないししっかりしてない。

海月みたいにプカプカと水に漂うことしかできない。

けどそれが誰かのためになるなら、俺はそれを極めたいんだ」



お兄ちゃんのことは大好きだけど、
たまにお兄ちゃんが眼鏡の奥でする、遠くを見つめる目は少し嫌いだった。


目の前に梨々がいるのに、全然こっちを見てくれない。

遠くの大きな大きな何かを真っ直ぐに見つめる目。

そこには梨々は映っていない。



「やだ……お兄ちゃんと一緒に住めなくなるなんて、梨々絶対嫌だ!」

「ごめんな、ほんとに。お兄ちゃんだって嫌だよ……」

「嘘つき!嫌じゃないから遠くに行くんでしょ!?梨々のことなんてどうでもいいんだ!」

「んなわけないだろ。俺だってかなり悩んだよ。梨々を一人にするのが心配だから」

「だったら置いていかないでよ……」



梨々は大声で泣いた。

お兄ちゃんのばか!!

何度もそう言った。

梨々のことを置いて遠くに行くなんて…

一緒に泳ぎたいって言ってくれたのも嘘なんだ!

もうお兄ちゃんは、梨々の知らないところでどんどん有名になって忙しくなって、そのうち梨々のことなんて忘れちゃうんだ!

お兄ちゃんなんて大嫌い!



泣きじゃくる梨々にお兄ちゃんはずっと困った顔をしていた。

ひたすら謝っていたけど、いつものように梨々の頭を撫でてくれたりはしなかった。

梨々はそれにも余計に悲しくなって泣いていた。


「梨々、泣き止めよ……俺が高校に入るまではその分いっぱい遊ぶ……」

ピコン


お兄ちゃんの言葉を遮るように大きな音の通知音が鳴った。


お兄ちゃんはちらりと携帯を見たけど何もせずに梨々にまた視線を戻した。


「……っかえさなくていいの?」

「いいよ。後ででも」

短くそう答えて置かれたお兄ちゃんの携帯をふと見ると、女の人と写ったプリクラが貼っていた。


「お兄ちゃん……このひとだれ?」


梨々が見たことのない人だった。

梨々が聞くとお兄ちゃんは焦ってプリクラを隠した。

「この人は…お兄ちゃんの彼女だよ」

少し照れたようにお兄ちゃんが答えた。


彼女……………

その言葉に、梨々の頭が真っ白になった。

だから梨々は、無意識のうちにお兄ちゃんを押して家の中に走っていってた。

「ちょっ……梨々!何すんだよ…」

イテテ、と言いながらお兄ちゃんはズレた眼鏡を直し、梨々を追いかけてくる。


「来ないで!!ほんとにお兄ちゃんは梨々のことどうでもいいんだもん!」


振り返ってお兄ちゃんに向かって言う。

二人が揉めていることを家族にバレたくなかったのか、お兄ちゃんは梨々に向かって小声で話した。

「梨々、俺は本当に何があっても梨々のことが大事だよ。それは遠くに行っても、彼女ができても変わらない。」


このときの梨々には、お兄ちゃんの言葉は全く響かなかった。

それよりも全身を刺すような強いショックが痛くて苦しくて息ができなくなりそうだった。

「……もういいよ。お兄ちゃんのことなんか信じないから!明日もお兄ちゃんと海になんか行かない!」


梨々はそう言ってお母さんのところに行き、抱きついて泣いた。

お母さんはいつもの喧嘩だと思って梨々をよしよしした。

お兄ちゃんは気まずそうに、だけどどこか悲しそうにして借りてた寝室に行った。


あんな悲しい顔をするなんてずるい。
悲しいのは梨々なのに。


そう思って、普段は大好きなお兄ちゃんのことが許せなかった。

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