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第64話 つべこべ言ってると、取り締まっちゃうぞ

「鯰」鹿島は反射的に池の傍で膝を曲げ、その次の瞬間には自らも池の中に頭から飛び込んでいた。
「鹿島さん!?」恵比寿が叫んで立ち上がる。
 池の径は三メートル程もあるが、深さは人間の身長の半分ほどもない筈だ。そこに頭から飛び込むというのは、無謀な行動に思えた。池の水面は大きく波打っている。
「――」恵比寿は茫然と波打つ水面を見詰めた。
 何も、浮かび上がっては来ない。鹿島も、鯰も。
「――ま、さか」恵比寿は茫然と呟く。
「鹿島さん」
「鹿島さん」
「え、今どこにいるんすか」PCのスピーカから社員たちの叫ぶ声が響く。
 はっと顔を向け、慌てて座り直す。緊急会議チャネルの画面は、大山、住吉、石上、木之花ら社員の焦燥の顔を映すものと、無人のデスク周辺の景色を映すものとに分かれていた。無人の景色は、本来鹿島がそこにいた場所を映すものだ。
「鹿島さん、池に飛び込んじゃったよ」恵比寿は子供がべそをかきそうになった時のような声で皆に教えた。
「池に?」全員が異口同音に訊き返してくる。
「うん」恵比寿は途方に暮れた顔と声で続ける。「鯰、追いかけて」
「鯰を?」全員が再び異口同音に訊き返す。
「でもそこの池って、浅いでしょ」住吉が目を丸くして訊く。「飛び込んだら頭打つんじゃないすか」
「それが」恵比寿は池のを方に首を伸ばし、またPCに向かう。「戻って来ない。浮かんで来ないんだよ」
「池の底に沈んでるとか」伊勢が、画面には映らないが声だけを寄越す。
「ええっ」恵比寿は慌てて立ち上がる。
「いや、大丈夫」鹿島の声が答える。
「鹿島さん」恵比寿も、他の社員も皆、異口同音に叫ぶ。
「鯰がね、いないのよ」鹿島は呑気な声で訴える。「すぐ後に続いたと思ったんだけど」
「どこにいるんすか」大山が訊く。「あの池、どこに続いてるの?」
「わからん」鹿島はあっさりと答えた。「海の中なのは確かだが」
「どこに行くんすか」酒林が、やはり声だけで訊く。
「わからん」鹿島はやはりあっさりと答える。「とにかく、しばらくは探してみるよ。鯰と、新人君たちを」
「依代は?」天津が訊く。「人間の体のままで泳いでるんですか」
「いや」鹿島はあっさりと否定した。「さすがにそれやるときついから、さっき捨てちゃった……ごめんね咲ちゃん」心持ち声を張り上げる。
「大丈夫です」木之花が間髪を入れずに答える。「今は緊急事態ですから」
「心強いよね」大山が溜息混じりに言う。「取締役より頼れるものは経理担当だよね」
「手厳し過ぎだよ」鹿島の声が笑う。
「あ、いや鹿島さんのことじゃなくて、俺っすよ俺」大山が慌ててフォローを入れる。
「儂の事も頼ってくれんか」突如、それまで会議に参加して来なかった別の声が挙がった。
「タゴリヒメ様」木之花が叫ぶ「――じゃなくて、宗像支社長」
「海の警護の担当じゃからの。遅れ馳せながら儂も新人君たちの捜索に加わらせてくれ、鹿島」宗像は機嫌の好さそうな声で加勢を宣言した。
「宗像さん」鹿島も感動の声を挙げる。「お疲れす。ありがとうす」
「支社長は、どこからその海の中まで辿り着いたんすか?」大山が質問する。
「ん」宗像は至極穏やかに答える。「いやあ、元々さっきからあっちこっちの海の中を探し回っておったのじゃが、フィリピン海プレートの海嶺近くで鹿島君の気配がしたんで、近づいて来てみたわけじゃ」
「おお」社員全員が感動の声を挙げる。
「新人さんたちの気配というのは、感じられますか?」天津が質問する。
「ううむ」宗像の声は苦渋を帯びる。「すまん。それだけがいまだ、感知できておらん」
「ああ……」社員全員が落胆の声を挙げる。
「大丈夫」鹿島が皆を元気づける。「我々に任せておいてくれ」
「わかりました」大山が深く頷く。「お願いします。お気をつけて」
「ああ」鹿島も、姿は見えないが頷くように答える。「あの彼にも、もう一度頑張ってもらうように伝えといてくれ」
「あの彼?」社員たちはきょとんとした。「誰すか?」
「あのほら、さっき新人君たちと端末でメッセージやり取りしてくれてた彼。ええと、なんてったっけ? エ、エ、エバラ? 違うな、エ、エビラ?」
「――エビスさんすか?」大山がそっと訊く。
「ああそう、エビス君」鹿島が叫ぶ。「通信途絶えちゃったようだけど、再度探ってみて欲しいと伝えといて。彼の技術に大いに期待してると」
「わ」恵比寿は思わず叫んだ。「わかりました! お任せ下さい、鹿島さん!」
 返事はなかった。
「わ」大山がどこかそわそわしながら返答した。「わかりました、伝えときます」
「うん、頼むね」鹿島が答え、その後二柱の神と社員たちとの通信は途絶えた。
「しかし」鹿島が一人呟く。「皆、なんで俺が鯰を追いかけて飛び込んだってわかったのかな」
 宗像は聞えなかった風体で答えを返さなかった。

     ◇◆◇

「労災」結城が時中の横顔を見ながら繰り返す。
「何のお仕事だったんですか」本原が質問する。
「営業だ」時中はなおも上方を見上げたまま答える。「外回りの車で事故を起こして、亡くなった」
「まじか」結城も上方を見上げる。「啓太さん、聞えますか」
 啓太の声は返答しない。
「仕事の事で、大分追い詰められていた」時中は顔をゆっくりと俯かせながら言葉を続けた。「あれは事故だったという事になっているが、本当のところは」
「事故ではないのですか」本原が確認する。
「――」時中は少しの間無言だったが、また上方に顔を上げ「啓太」と呼んだ。
 啓太は答えない。
「あれは本当に事故だったのか」時中は質問した。
「啓太さん」結城も続けて呼ぶ。「啓太くん」
「勝手だよな」不意に、それまでとは別の方向から声が聞えた。

     ◇◆◇

「岩っちー」鯰は引きずり込まれながらも必死で呼び続けた。「聞えるー? いるー?」
「鯰くん?」地球が答える。
「ああ、いた」鯰はひどく安心したような声で叫ぶ。「よかった」
「今、妙な声が聞えてきてたんだけど」地球は訊ねる。「君にも聞えた?」
「妙な声?」鯰が訊き返すと同時に、その髭を引っ張る力がふっと消えた。「どんな?」
「うん、何かぶつぶつ言う声」地球は答える。
「勝手も甚だしい話だ」その時、その声が聞えた。
「え?」鯰がきょろきょろと首を巡らせる。
「ほら、この声」地球が教える。「けどこれ、さっき聞えたのとは違う声だ」
「どういう事?」鯰が首を傾げる。
「そもそも己れ自身は諸刃の剣で」声は続いた。

     ◇◆◇

「聞えるか」宗像が、鹿島に問う。「この声が」
「ええ」鹿島も頷く。「出現物の声ですかね」
「うむ……しかし姿は見えんの」宗像は辺りを探る。
「誰も手を触れずとも勝手にぶんぶん振り回って」姿の見えない出現物の声らしきものは、語り続けた。「他者を傷つけ再起不能に陥らせさえする」

     ◇◆◇

「何? この声」磯田社長がエレベータの中をきょろきょろと見回し、伊勢の方に近寄る。「やだわ、ちょっと」
「何なんすかね」伊勢もエレベータの上方を見上げながら、静かに言う。そうしながら、会議チャネルで社の者に報告と相談をする。
「そのくせ、その当人自体が傷つきやすくできている」突如聞え始めた声は、そう続いた。

     ◇◆◇

「聞えてるすか?」伊勢は社員たちに確認する。
「うん」大山が真剣な顔で、伊勢から送られてくる声に耳を澄ませる。
 他の者たちも同じく神経を尖らせていた。
「そんな話、誰が聞いても呆れて物が言えないというのだ」正体不明の声は、続いた。
「目の前にあるものを見ようともせず、そこにないものだけを求めるようにできているんだ、お前の目は」
「また、別の声だ」天津が呟く。
「うん」酒林が慎重に答える。「これは……」
「まあいいさ」また別の声が、別の方向から聞え始めた。
「また来た」天津が声を殺し囁く。「何なんだ一体」
「出現物……にしても」酒林が戸惑いを隠さずに問う。「こんな、いちどきに大量発生なんてしたことないよな」

     ◇◆◇

「どちらにしろ差し向き言えることはな、お前」謎の声は続く。
「誰?」磯田社長が問う。「誰に話してんの?」だが返答はない。
「もし蛇にそそのかされても」語りだけは続く。「決して善悪の区別のつく果実は喰わない事だ」
 ――お前……じゃ、ないよな。
 伊勢はそっと心の中で呼びかけてみる。
 ――こんな形で、目覚めたとかいうんじゃ、ないよな。
「善悪の区別がつくようになると、多分お前は自殺するからな」
 ――違うよな。うん。
 伊勢は目を伏せ、そっと首を振る。
 ――これはお前じゃなくて、他の一般的な、出現物だ。だってお前は、こんな……

     ◇◆◇

 鹿島のPCから、メッセージの着信音が流れた。
「あ?」恵比寿は反射的に立ち上がり、その机に近づいた。数秒躊躇はしたが、意を決してメッセージを開く。「え?」叫んだ。

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