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 ユーリは水が運ぶままに身を任せていると、突然眩しくなり、いきなり壁にぶつかってべしゃりと落ちた。



 どうやら人間界に出たらしい。



「ったく、なんでいきなり壁にぶつかんだよ。痛ぇじゃねーか!」



 身体を起こしたユーリはシュワシュワという水音に気付いて、ふと振り返り思わず言葉につまった。



 赤毛の少女が一人、同じように言葉を失ってユーリを凝視していたのだ。



 庭で水まきをしていたらしく、その手にはホースがあり水を噴き出している。



 ヤバい…!はじめての人間界が、いきなり人間と接触しちまったじゃねーか!



 どうもこの状況からして、ユーリは少女が手にしていたホースから出てきたようだ。



 いきなりホースから人型が出てきたら、少女でなくとも驚くに違いない。



 しかも水の加護のおかげで、水から出てきたのに全く水に濡れていないのだ。



 少女がはっとしたように、唇を動かしかけて、ユーリは悲鳴を覚悟した。



「…あなた、妖精か何か?」



 想定に反してそーっと質問されて、ユーリは思わずこけそうになった。

 

 …変な奴…。

 

 仕方なくユーリは胡坐をかいて口を開いた。



「いや、違う」



 反応したのが嬉しいらしく、少女は水を止めると一メートルほど間をおいてユーリの前に座った。



「でも、人間じゃないのは確かでしょ?」



「そりゃ、確かだけど…」



 はっきり言って、予想外の反応に面食らっているのは彼の方だった。



「じゃあなに?ホースから出てきたでしょ?妖精でなかったら、天使?すごい綺麗ね、その瞳の色」



 まくしたてるような質問攻めにげんなりしながら、『その瞳の色』の台詞に、ユーリは自分の立場にはっとする。



 何しに人間界にきたのか、忘れるところだった。



「…俺は龍だ」



「龍?名前?」



「龍神だ、龍神!風を司る風龍だ!」



 吠えるようにユーリが言って、少女は驚く様子もなく、不思議そうに首を傾げた。



「龍って、なんで人間と同じ姿してるの?龍なら角とかあって、身体がもっと爬虫類っぽいんでしょ?」



 ハ、爬虫類…。



 少女のまったくの悪怯れなしの言われように、ユーリは面食らった。



「…龍だって、変化ぐらいできる。これは人型の姿だ。ちょっとわけありで人間界にきたんだが…」



 言ってる途中で、少女の胸元に覗く、ペンダントになっている乳白色の牙が視界に飛び込んできた。



 お、俺の牙がペンダントにっ!



 言葉を失っているユーリに、少女が不思議そうに首を傾げながら問いかけた。



「あの…よかったら、家でお茶飲んでいかない?」



 言った本人は何を考えているのか、にこにこと笑っている。



「…俺は、今は龍神力が使えねーから、おまえの望みも叶えてやることも出来ないが、それでもいいのか?」



「望み?あたしはそんなの叶えてもらうために、誘ったんじゃないもん。龍神さまと出会うなんて、何回生まれ変わっても一生に一度あるかもわからないことじゃない?あたしはただ、あなたと話しがしたいだけよ?」



 どうも自分が知識として知っている人間と違うタイプなので、ユーリは調子が狂いまくっていた。



 そもそも、今時正面きって妖精だ天使だと尋ねること自体、ロマンチックというか、メルヘンチックというか…。



「訳ありなんでしょ?聞かせてよ、ね?」



「え、あ、おい…」



 なにが何だかわからないうちに、ユーリは少女に強引に家の中に連れ込まれた。



「座ってて。何か飲み物持ってくるから。ね、絶対出ていかないでね!」



 ホースから出てきたところを目撃したからだろうか。少女は全くユーリが人でないというのを疑う様子はなかった。



「…変な奴だな、人間じゃない俺を平気で家に入れるなんて…」



 半分感謝しながら、半分呆れて、ユーリは言われた通りリビングのソファに、裾を払ってから腰を降ろした。



 カイルの奴、とんでもないことしてくれたもんだ。いったい俺が何をしたってんだ?



 何しろこのまま見つからなくて色が戻らなかったら、《四龍の集い》に出られないどころではない。ただでさえ嫌味な奴らがいるのに、出られないとなれば、喜び勇んで自分の追い出しにかかるに決まっている。



 もちろん出ないわけにはいかない。今年生れた風龍の数も報告しなければならないし、いい有難迷惑なのだが、神龍様に可愛がられている自分が出ないと、顔を潰すことになる。



 それより鱗が無事でいるかどうかが心配だ。何しろあのカイルだ。実はもう原形を留めていないなんて…ありえそうだから恐い。



「コーラなんだけど、口に合う?」



「…わからんが、人間が飲むんだ。飲めんことはないだろ」



「そう?あたし、アリアっていうの。できればアリアって呼んでほしいな」



 にこっと笑って言う少女――アリアに、ユーリは内心焦った。



 初対面の相手に向かって、名前を明かしていいのか!?



 龍族は本来非常に誇り高い種族で、天上界でも滅多に初めての相手に名前を名のることもなく、位で呼ぶことが多い。



 おまけに『ユーリ』は中性的な名前なので、ユーリ自身人に呼ばせることも名乗ることもほとんどない。



 …カイルやシェリアは、別だけどさ…。



「…名前、きいてもいい?」



 黙り込んだユーリに、アリアが遠慮がちに尋ねた。



「…どうしても呼びたいのなら、シルヴァ、とでも呼んでくれ。本来の俺の姿に、もっとも近い名だ」



「シルヴァ?銀色、なの?」



 こくり、と頷いた。銀色の髪と瞳。まるっきり、母譲りの色と顔。幼いながら、美しかった母が自慢だった。



 若くして眠るように息を引き取った死顔が、はかなげに綺麗で…すがりついて泣いた。『一人にしないで』と…。



「…シルヴァ?」



「あ、ああ」



 焔龍や地龍がユーリを四龍神から追い出したがっている、というのは母も関係しているのだ。



 父が誰かさえも知らない自分。夫婦になれば生涯連れ添う龍族の民でありながら、母は一人だった。見かけも色も母譲りだったために、父の手がかりは一切ない。



 カイルは時折悪戯してくれるし、今回だって、《四龍の集い》でいったい何を言われるかと思うと…。



 胃が痛くなりそうだ、とユーリは心でぼやいた。



「――でね、人の誕生日も無視して働きづめって、ひどいと思わない?」



 グラスの氷をストローでかき回しながら、アリアが答えを期待する風でもなく話している。



 一瞬、何かが引っ掛かった。何か、とても大事な事のような気がする。



 ――『***には、一緒に飲み明かそうぜ』



 ふと、台詞が頭に浮かぶ。どこかで聞いた台詞だ。



 俺が言ったような…。まてよ?今年の《四龍の集い》って、確か満月の…。



「十七になるんだから、これからは大人の仲間入りだ。だから一緒に飲みに行こう。なんて言っといてさ、出張で帰ってこないんだもん。ママだって昨日出掛けちゃったし」



 アリアの台詞に、何かがユーリの中で弾けた。



 ――『誕生日には、一緒に飲み明かそうぜ!』



「わかった、思い出したぞ!カイル!」



 アリアがびっくりするのも構わず、ユーリはいきなり雄叫びをあげた。



『やーっと思い出したか、大ボケ野郎。で、どうなんだ?まさか、忘れていたからあの話はなかったことにしてくれ、なんてことは言わねえだろーな?』



 待ち構えたように降ってきたのは、紛れもなくカイルの声だ。



「馬鹿野郎!いくら忘れてたからって、思い出したのにチャラにするはずねえだろ!《四龍の集い》抜け出してでも行く!」



『どーだか。何しろおまえは馬鹿で阿呆で、物忘れのひどい若造だからな』



 まだ気が済まないらしいカイルの嫌味の攻撃に、ユーリは諦めて怒鳴り返した。



「あああ!俺は馬鹿で阿呆で、物忘れのひどい若造だよ!俺が悪かった!何でもいいから、俺の鱗、返してくれ!今すぐおまえんとこ行きてぇんだよ、謝りにっ!」



 天に向かって叫んだ直後、きらり、と何かが光ってふわりと降りてきた。両手で受け止めると、それはユーリの銀色の鱗だった。



『その心がけに免じて、返してやる。牙は見てのとーりだ。どうにかして返してもらうんだな。さっさと帰ってくるんだぜ、大ボケ野郎』



 言うだけ言って、ぷつりと消えた声に、ユーリは大きく溜め息を吐いた。



 いくら俺が誕生日に飲み明かそうと約束してのを忘れていたからって、ここまでするのって無茶苦茶だよな、あいつ…。



 ユーリはちゃんとわかっている。自分が《四龍の集い》のことばかりを気にして、カイルの誕生日を忘れていたことにカイルが腹を立てていることも、カイルなりに《四龍の集い》から抜け出さしてやろうと考えていることも。

 

 ただ、やり方が唐突で無茶苦茶すぎて、時々何がやりたいのか理解に苦しむことが多いだけで…。



 ははっとユーリが苦笑した。自分はいい友を持ったのか、悪い友を持ったのかわからない、とでも言いたげに。



「…シルヴァ?今の声、何?」



 ただ呆然としてやりとりを聞いていたアリアが、おずおずとユーリに尋ねた。



「ああ、悪かったな、驚かせて。今の声の主が、諸悪の根源なんだ。ま、怒らせちまったのは俺だけど」



 カイルが怒鳴り返してこないうちに、ユーリは自分の非を付け足した。



「で、俺が人間界に来た訳ってのは、この鱗ともう一つ、牙を探しに来たんだ。どっちも俺の本当の姿の一部だ」



 掌に銀色に光る鱗を見せて、ユーリが言った。



「…牙って、もしかして、これのこと?」



 アリアが胸元のペンダントに姿を変えた乳白色の牙を指した。



「そう、それが俺の牙だ。それがないと俺は天上界に帰れないし、龍神力も使えない。返してくれるか?」



 自分でも驚くほど優しく語りかけたユーリに、アリアは残念そうにペンダントに手をやった。



「これ、今朝庭に落ちてたのよね。綺麗だから気に入ってたんだけど…仕方ないか」



 掌に置かれたペンダント。これですべて揃った。後は天上界に帰って、カイルに色を返してもらうだけだ。



「…俺は天上界に帰る。その前に、おまえの願いを叶えてやろう。俺の牙を、大事に預かってくれていたお礼だ」



「じゃあ、本当の姿、見せてくれる?」



 迷うことなく金とも名声とも俗物的な事を言わないアリアに、ユーリは自分ですら忘れていた本当の笑みを向けた。



「庭に出てくれ。おまえにだけ見えるようにしてやる」



 一旦龍に戻らないと、龍神力も戻らないんだけど…それじゃちょっと、な…。

 

 ユーリは頬をかきながら考えて、シェリアの龍神力を借りて囁くように呪を唱えた後、最後に付け加えた。



「我が友、アリアに風の加護を永遠に。我は風を司る風龍、ユーリ…」



 突然の口接けに目を丸くしているアリア。



 そして、ユーリは姿を変える。



 風を纏ながら、一枚だけ銀色の鱗が混ざった紫銀色の龍は空に向かって飛翔した。



しおり