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廊下の奥に見知った顔

その日、検査が終わった生徒は速やかに帰宅するように言われ、真也は教室に戻る。その道中、他の教室を覗けば、ほとんどのクラスメイトたちが楽しそうにしている中、彼の視界に映るのは浮かれた雰囲気とは対照的な、まるで葬式の翌日のような重々しい生徒たちの姿だった。
(みんな……不安なんだ)
自分が知らない間に『未知の病気』にかかり、しかもその治療法すら分かっていない状態では当たり前の反応だった。むしろ真也の浮かれ具合の方が異常なほどなのだ。
真也が自分のクラスへと戻る途中、廊下の奥に見知った顔を見つける。まひるが数人の女子に囲まれていた。真也は反射的に踵を返そうとするがそれよりも先に、まひるが真也に気づいた。まひるのその表情は、何かを決意したかのようなものだった。
真也も逃げるようにその場を去ろうとするが腕を掴まれる。振り向くと、そこには先程見かけたまひるがいた。その視線はまっすぐに真也に向けられており、逃げられないことを真也は理解した。
「待ってくださいお兄ちゃん」
その言葉は、周囲の耳には『お兄ちゃん』と呼ばれたことにしか聞こえなかった。だが、真也には別の意味に聞こえる。
「離して」
短く拒絶する真也に対し、まひるは首を振る。その動作によって、真也の手を握っているのとは別でもう片手に握られている紙袋が小さく音を立てた。
「話があるんです」
「……」
真也は無言を貫く。しかし、彼の意思など関係ないとばかりに彼女は口を開き続ける。
「お願いです、話だけでも聞いてください」
彼女は頭を下げるとそのまま続けた。
「お兄ちゃんは私が嫌いかもしれないけど……でも私はお兄ちゃんのことが好きです」
周りの生徒たちはその光景に驚くものの、声をかけられるような度胸はなかった。
まひるのその行動は真也が今まで聞いたことのないもので、彼女の言葉に秘められた熱量は周囲に伝わっていた。
それは、『妹』から発される『好意』というよりも、『恋する少女』そのものの声であり姿であったのだ。それはつまり、彼女が本当にまひるであるという証拠であるとも取れるだろう。
周りからの注目を浴びていることに彼女は気づくと慌てて言葉を続ける。
「いや!あの!違うんですよ!? そういう意味じゃなくてですね! えっと!……わ、私とデートしてほしいなって!」
そう言い切ったあと彼女は自分の顔から湯気が立っているのではと思うくらい顔を赤くしていた。
だが真也の顔はそれとは対照的に白く、その瞳からは光が失われていたように感じた。
「……わかった」
そうして、間宮まひるとの決別の時間はやってきた。
その日の夜遅く。シンヤの部屋のインターホンが鳴る。
こんな時間に誰が?と思ったシンヤがドアスコープを除くと、そこには今最も会いたくない人間の一人、まひるの姿があった。
(まひる……どうしてここに?)
シンヤはすぐに扉の鍵を開けるべきかどうか悩みながらもう一度まひるの方を見る。しかしまひるが動く素ぶりは無くただそこに立ち尽くしているだけだ。
(ここで対応を間違えたらダメだ)とシンヤは覚悟を決めるとチェーンをかけたまま玄関の扉を開いた。
「こんばんは、まひる」
「……入ってもいいですか?」
まひるの質問に、しかしシンヤは「駄目だよ」と答えるしかなかった。
「まひるは勘違いをしている」
「どういう意味ですか?」
「俺はまひるのことを好きじゃない」
「……嘘ですよね?」
「なんでそう思うの?」
まひるの表情が変わる。
その瞳に涙がたまり始めており、それを見た瞬間、罪悪感に苛まれた。しかしその事実だけは隠し通さなければならないという思いが強く真也の心を押し留めた。
「私、分かります。だって、私の事ずっと好きだったお兄ちゃんが急に別の人を好きでいるなんて無理だから……」
真也は何も言い返せなかった。真也が黙っているのを見て、それを同意と捉えたまひるはさらに言葉を紡ぐ。「私のことが嫌になったのは仕方ないと思います。でも、私とお姉ちゃんのために頑張ってくれる約束は守ってほしいです」
(ああ、やっぱりこの子は俺の妹だ)
そうして彼女はポケットから鍵を取り出す。
「これは私たちが元の体に戻れる可能性を示すキーカードなんです」
「なっ……そんなものがあるのか」
驚きの声をあげる真也を見てまひるの頬が上がる。
「はい。それで、明日私と一緒に来てください。そしたら、全部思い出させてあげますから。そうしたら……」
真也の目を見ながら彼女は言葉を続けようとするが、真也はそれを遮った。
「それは断るよ」
きっぱりと告げられた拒否の言葉を聞いてまひるが息を飲む。その目尻にはまた新たな雫が浮かび上がっており、真也も苦しくなるが言わなければならなかった。
「……ど、どうすれば来て貰えるんですか……!」
「どうしても。俺にとって、まひるもソフィアさんも大切で、絶対に死なせちゃいけないんだ。……それに」
「なんですか……!」
「今の俺は、君のお兄ちゃんじゃないからさ。それなのにこれ以上踏み込むのは、なんか違う気がするんだよね」
そう言って微笑む彼に、まひるの涙腺は完全に崩壊した。「……ごめんな。お兄ちゃん、帰るから」
真也がその場を離れようとしたその時、まひるが叫んだ。その叫びが耳に入ると同時、真也は背後からまひるに抱きしめられていた。
真也はまひるの腕を剥がそうと手を掛けるが、それよりも早く真也の口を何かが塞いだ。その柔らかさは真也の記憶を呼び起こす。
(まひる……まさか、このキスは)
真也の唇に触れているのはまひるの唇であり、その温かさは夢の中で何度も味わったものとまったく同じだった。数秒間の後、まひるは真也を解放すると自分の口元を袖で拭う。真也はその姿を見て、初めて彼女と『妹』ではない『異性交遊』をしてしまった事に気がついた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい……お兄ちゃんの気持も考えずに」
まひるの瞳は真っ直ぐに真也を見据えていたが、その奥底にある悲しみに気がつくことはできた。しかし真也はその悲痛さに、かける言葉が見つからなかった。真也は静かに玄関から離れ自室に戻るが、すぐに部屋のチャイムがなる。再び玄関を覗けばまひるの姿があり、真也は観念して部屋に入れた。
「お邪魔します」と言いながらまひるが真也の家に上がると、彼女は真也のベッドへと腰掛けた。真也も何も言えないままテーブル前の床に座り込むと、そのすぐ隣に真也の使っていた座布団が敷かれる。
真也は何となく正座をするが、まひるは膝を抱え体育座りのような格好をした。その姿は真也に、夢の中との違いを感じさせるものだった。
そうして2人は、ただお互いを視界に捉えていた。先に沈黙を破ったのは、やはり真也だった。その声色は硬く震えており、「……聞いてくれるかな」と続いた。
真也のその問いに返事はなく、「ん?」と聞き返しただけだった。だが、それが何よりも彼女の答えであった。
真也は語り始める。
「まず初めに、この世界の人たちは全員病気なんだ」
真也の声は、いつも通りではなかった。それは、普段の真也なら発しないであろう『殻獣』についての知識を話している時特有のものに近い声だったからだ。

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