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禁断の恋、始動 ①

 ――お骨上げまで無事に済み、僕が社用車で絢乃さんたち親子をお宅まで送っていくこととなった。

 その車中で、絢乃さんが会長に就任されてからの送迎を義母・加奈子さんから依頼された(「命じられた」と言ったら義母がお怒りになるのだ)僕は、それを二つ返事で快諾した。

 絢乃さんが通われていた学校は八王子にあり、丸ノ内まで電車で通われるとなると時間もかかるし大変だから、という事情に僕も納得したわけである。交通費の心配はないのだろうが……。

 絢乃さん自身は「大変でも電車通勤する」と固辞され、お義母さまの提案を渋っていたが、それはそこまで甘えてしまっては僕に申し訳ないという彼女の気遣いからだったので、最後には「お願いします」としおらしく折れて下さった。
 僕もその方が安心だった。長距離の電車通勤の途中、もしものことがあったら僕は秘書としても、彼女を想い慕う男としても生きていけなかっただろう。

 彼女の会長就任がかかった緊急取締役会は、その日の二日後に召集されることが決まっていた。
 当日は土曜日だったが、僕は休日出勤をすることにしていた。その時の僕はもう総務課の人間ではなく、秘書室の一員である。まだ事実上ではあったが。そして、彼女の会長就任をもって、僕も正式に秘書室所属となることになっていた。

「――桐島さん、今日は本当にありがとう。じゃあ明後日、またお願いします。お疲れさま」

 社用車を降りた絢乃さんは、優しく僕を(ねぎら)って下さった。骨壺とお義父さまの遺影を抱えたお二人がゲートをくぐるのを見届け、僕は一度会社に戻った。自分の持ち車が会社の地下駐車場に停めたままになっていたのだ。それに、社用車を返却しなくてはならなかった。

「――ただいま……、あれ? 開いてる」

 アパートへ帰り着いた頃には、夕方六時を過ぎていた。玄関ドアのカギを開けようとすると、すでに誰かに開けられていた。
 ひとり暮らしなのに不可解だと思われるだろうが、ウチに限っては日常茶飯事の光景である。何せ、実家の家族全員が合いカギを持っていたのだから。

「おかえりー、貢! お疲れさん」

 ドアを中から開けたのは兄だった。この日はバイトが夕方までのシフトだったので、僕の部屋に上がりこんでいたようだ。その年のわりには屈託のない笑顔に、どこかホッとしている自分がいた。

「ただいま、兄貴。疲れたぁ!」

「あー、待て待て! 家ん中入る前に、後ろ向け後ろ。清めの塩かけてやるから」

「……おう」

 葬儀に参列した後は、体に塩をかけておかないと死者の霊がついて来るらしい。兄はあっけらかんとしているように見えて、冠婚葬祭にはけっこううるさいのだ。なので、この時も律儀にしきたりを守っていた。

 兄は僕の肩にひとつまみの塩をパラパラとかけ、パンパンと払い落としてから、「もう上がってよし!」とまるで飼い犬か何かに言うように言った。

「……兄貴、俺はワンコか」

 僕が半目になってツッコんでも、兄はどこ吹く風という顔でキッチンへとすっ込んでいった。
 まぁ、兄は普段からこういう感じなので、僕は大して気にもせずに黒いジャケットを脱ぎ、ワンルームの中央に鎮座している座卓の前に座った。そういえば、キッチンから何やらいい匂いがしていて、僕の空っぽの胃袋を刺激した。
昼食にと振る舞われた仕出し料理は食べた気がしなかったので、ものすごい空腹だったのだ。 

「お前、腹減ってんだろ? 晩メシ作っといたから、たまには一緒に食おうや」

 黒ネクタイを外して楽になった僕に、兄が気を利かせてそう言ってくれた。

「うん……。メシ、何作ったんだ?」

「今日()みぃし、ビーフシチューとポテトサラダ。あと米も炊いてある」

 兄はエッヘン、と胸を張ってそう答えた。さすがはプロの料理人である。
 彼の作る料理のレパートリーは和食、洋食、中華、インド料理に日本の家庭料理にと幅広い。味も保証付きだ。兄嫁(あね)(しおり)さんは現在、身重で家事が大変らしい。さぞかし助かっていることだろう。

「うん。腹減ってるし、食うよ」

 僕がそう言うと、兄はそうかそうかと嬉しそうに頷き、二人分の食事の用意を始めた。
 
「オレはビール飲むけど、お前はサイダーでいいか。下戸だもんな」

「……うっさいわ」

 どうやら、飲み物も持ち込んだらしい。が、頼むから弟の部屋で晩酌するのはやめてもらいたい。
 ちなみに兄は、篠沢家でもそれをやるつもりのようだ。ただし、この家でアルコールを(たしな)むのは義母だけなので(絢乃さんは未成年だし、僕は言わずもがなだ)、必然的に義母が相手をすることになるのだろう。

「……っていうか、何が悲しくて野郎二人でメシ食わなきゃいけねえんだよ。父さんと母さんは知ってんの? 兄貴がここに来てること」

 兄の作ってくれた料理を堪能しながら、僕がボヤいた。

「知ってる。っつうか、オレもお袋に頼まれたんだっつうの。貢が腹すかして帰ってくるだろうから、メシ作ってやってくれって」

「ふぅん?」

「つうかぁ、いいじゃんかよたまにはぁ。お前、彼女いねぇし。こんな日にひとりでメシ食うのもなんか味気ねぇじゃん?」

「やかましいわっ!」

 僕は痛いところを衝かれ、思わず吠えた。余計なお世話である。……確かに、兄と向かい合わせで食事するより、可愛い彼女に見つめられながら食べた方が気分はいいだろうが。

「――そういやお前、あのコのことはこれからどうすんのよ? ほら、例のお嬢さま」

「…………どう、って」

 兄は何が言いたかったのか、僕はリアクションに困った。

「だからさぁ、絢乃ちゃんはこの先、お前のボスになるワケじゃん? んで、お前は絢乃ちゃんに惚れてんだろ? だから秘書として、ボスに惚れてるっつうのは仕事に私情持ち込むことになるワケじゃん?」

 ドゥーユーアンダスタン? と人を小バカにしたように訊いてくる兄に、僕はカチンときた。

「……そんなことないって。つうか、なんでそこだけ外国人風なんだよ」

「そこで茶々入れんな。話脱線するだろが。――んまぁ、お前がそう言うんなら大丈夫だろうけど。お前カタブツだかんなぁ……。自分の気持ちが彼女を苦しめることになる、とか余計なこと考えてんじゃねぇかって兄としては心配なワケよ、オレは」

「…………」

 またも痛いところを衝かれ、僕はたじろいだ。まったく、変なところで鋭い兄である。
 僕が絢乃さんに恋をしていたことに、当時の彼女自身はまったく気づいていなかったらしい。確かに、仕事に私情を持ち込むのはよくない、ましてや上司と部下の関係ならなおさらだと僕は思っていた。
 だからといって、始まったばかりの恋を諦める気にもなれず、僕自身もさてどうしたものかと悩んでいるところだったのだ。

「そんなに悩まねぇで、もっと気楽に考えててもいいんじゃねぇの? 絢乃ちゃんだって、お前のこと迷惑だとは思ってねぇみたいだし」

「……それは……まぁ」

 確かにそうだ。僕に連絡先の交換を提案したのは彼女の方だった。それからも、彼女は僕からの連絡に返事をくれる時にはいつも嬉しそうで、こんな僕に弱音も吐いてくれた。迷惑に思っている相手に、そんな反応をするだろうか。
 だからといって、まさか彼女の方も僕に恋をしていたなんて思ってもみなかったが。僕はそこまでうぬぼれてはいなかったのだ。

「だろ? だったらさぁ、お前がただ想ってる分には彼女も迷惑じゃないんじゃねぇの? とりあえず、しばらくの間は」

「……だな」

 その頃は、本当にそのつもりでいたのだ。秘書として側にいながら、彼女のことを守っていようと。気持ちを表に出すことなく、ひっそりと思い続けていられたらそれだけで満足だと思っていた。
 だから、その約三ヶ月後に、まさか自分があんな暴挙に出るなんて考えもしなかった。

「――んじゃまぁ、オレはボチボチ帰るわ。また何かあったら連絡しろよ」

 食後の後片付けまでキチンと済ませてから、兄はアパートから実家へ引き揚げていった。
 僕はその後ひとりでコーヒーを淹れ、それを飲みながら絢乃さんとの関係について真剣に考えていたのだった。

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