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怒り

 ようやく目が覚め、検査を受けて異常のなかったアーニャは、明日から学校に登校するべく、退院の準備をしていた。
 荷物を鞄に詰め、学生寮に帰る準備をする。
 その時だった。その病室の扉が軽くノックされた後、静かに開けられたのは。
(ライアン?)
 静かに開けられたという事は、ルーカスではないだろう。彼は扉を静かに開けるという事が出来ないからだ。だとすれば、昨日も見舞いに来てくれていたライアンだろうか。
 しかし、そう思いながら振り返った先にいた人物に、アーニャはキョトンと目を丸くした。
 そこにいたのはライアンではなく、幼馴染であるノアだったからである。
「ノア!」
 もしかして迎えに来てくれたのかと、アーニャは親しい友人の姿に表情を綻ばせた。
 しかし、彼女はすぐに表情を歪める事になる。
 ツカツカと歩み寄って来るノアの表情が、険しく強張っていたからだ。
「ノア? どうしたの?」
 しかしその瞬間であった。
 パアンッと、乾いた音がその場に響き渡ったのは。
「っ!」
 ビリビリと痺れる頬に、アーニャは呆然とする。
 驚いた。いや、一瞬何が起きたのか分からなかった。ライアンが好きで盲目になっていたり、リアを階段から突き落としたと決め付けられていた前世でさえ、ノアが自分に手を上げる事なんて、なかったのだから。
 だから今、ノアに頬を殴られたのだと理解するのに、アーニャは結構な時間を要してしまったのである。
「何してんの?」
 いや、それはこっちの台詞だと言い返せなかったのも、ノアの行動に驚いていたからだろう。そっと視線を彼へと向ければ、声の通りに激怒しているノアと目が合った。
「リアを階段から突き落とそうとして返り討ちに合ったらしいね。どういう事?」
「はあ……っ?」
 その言葉に、アーニャは驚愕に目を見開く。自分がリアを突き落とそうとして返り討ちに合っただって? 何だそれ? まさかリアがそう言いふらしているのか?
「違う! 私はそんな事していない! リアに無理矢理頼まれたのよ、リアを階段から突き落としてくれって! それでそれを断ったら揉み合いになって、私が運悪く落ちちゃったのよ! だから私、リアを突き落とそうとなんかしてないわ!」
「ふうん。今度は嘘吐かないんだ」
「だから、私は嘘なんか吐いて……え?」
 そう否定しようとして、アーニャはキョトンと目を丸くする。今度は嘘吐かない? え? どういう意味?
「お前、オレの事まで騙せるとでも思ってたの?」
「騙すって……何の事?」
「何の事じゃないよ。お前、リアと何か企んでただろ」
「企むって……あ」
 もしかしてノアは、リアからシュラリア国滅亡の理由を聞くために、アーニャがわざとライアンに嫌われるように振る舞っていた事を言っているのだろうか。
「お前がリアの消しゴムを故意的に踏み潰した時、よっぽど頭に来る事があったんだな、と騙されたよ。でも、さすがに剣術の試合の時はおかしいと思ったんだ。だってお前、あの時わざとリアに負けていたもんな」
「……知ってたの?」
「いつから幼馴染やってると思ってんだよ。ルーカスや他のみんなは分からなかったみたいだけど、オレにはすぐに分かったよ。あの時のお前の動き、明らかにいつもと違ったからな。わざと負けて何してんだろうと思ったら、今度はわざと負けたクセに、リアに難癖付けてるし。マジで意味分かんなかった」
 剣術の試合でリアに負け、適当な言い掛かりを付けて彼女に八つ当たりをする。
 それをやっているところをライアンが見れば、ライアンはアーニャに対して良くない印象を受けるだろう……と思ってやった事なのだが、どうやらノアにはバレていたようだ。
「あの汚い弁当だって、アーニャが作ったんだろ?」
「汚い言うな」
 はっきりとしたその言い方に、アーニャは表情を歪ませる。
 あの弁当は、本当はトーマスのお祝いをするために、アーニャが部員のみんなで食べようと思って作って来たモノだった。しかしその弁当を見付けたリアに、その弁当を自分が作った事にして、それをアーニャに貶して欲しい、と頼まれたのだ。もちろん自分の料理の腕があまり良くない事を自覚していたアーニャはそれを断ったのだが、「他人が一生懸命作ったモノをバカにするヤツは嫌われるから」と、リアに押し切られてしまい、結局はリアのその作戦に乗るハメになってしまったのだが……でもそんなリアの作戦も、ノアにはバレバレだったようだ。
「お前の手料理は、小さい頃から無理矢理食べさせられていたからよく知っているよ。弁当を包んでいたあのウサギ柄の包みだって、お前のお気に入りだろ? 昔からずっと使ってるもんな」
「……」
「それをリアがライアンに食べさせて、お前が自分でバカにするとか、マジで意味分かんない」
「……」
「まあ、別にオレには意味分かんなくても、お前とリアが同意の上でやっているんなら、オレらがガタガタ言う事じゃない、放っておけばいい、そう思っていたよ。だけど……」
 そこで一度言葉を切ってから。ノアは再度アーニャに厳しい目を向けた。
「お前がこんな怪我をする事になるんなら、放っておくべきじゃなかった」
「ノア……」
 そこでアーニャはようやく気が付いた。ノアはアーニャがリアを突き落とした事に対して怒ったわけではない。アーニャが自ら怪我をしてまで何かをしようとしている事に怒って、アーニャを殴ったのだ、と。
「あのね、ノア。私はわざと階段から落ちたわけじゃないの。さっきも言ったけど、リアと口論の末、揉み合いになって階段から落ちちゃったの。だからこれは事故よ」
「違うね。リアと何やかんやしている事が原因で落ちたんだから。故意的に落ちたのと変わらないよ」
「そ、そんな事……っ」
「ねぇ、そんなにライアンが嫌い?」
「え?」
 アーニャの言い訳を遮ってまでのノアからの質問に、アーニャはキョトンと目を丸くする。
 そんな彼女を呆れたように見つめながら、ノアは更に言葉を続けた。
「どうせライアンが原因なんだろ? リアはライアンに好かれたいし、アーニャはライアンに嫌われたい。利害が一致しているから協力している。違う?」
「ええっと……うん、まあ、そんなところ……」
「やっぱりね。でも一つだけ腑に落ちない事があるんだけど」
「え、何?」
 さすがノア、何でも分かるんだね、と感心していたところにノアがポツリとそう呟く。
 何だろうと首を傾げれば、ノアはじっとアーニャを見つめながら更に言葉を続けた。
「何で、嫌いなヤツと協力なんかしてんの?」
「え?」
「アーニャはリアの事嫌いだろ? 例え利害が一致していたとしても、お前が授業以外で嫌いなヤツと協力するなんて滅多にないじゃん。転入して来た時からライアンの気を引こうとしているリアと協力しているのも、何か今更な気もするし。何? リアに何か弱味でも握られてんの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
 さすがのノアとて、アーニャとリアに前世の記憶があり、リアの持つ記憶の中に、アーニャの知りたい史実があるとは分からないだろう。
 しかし、何か答えなければ解放してくれそうもないノアの瞳に溜め息を吐くと、アーニャは当たり障りなく、その取引内容を説明した。
「私がシュラリア国が滅んだ原因について調べてるって話は、前にしたよね。だけど中々その原因が見付けられなくって……。でもリアは、その原因を知っているの」
「は? リアが?」
 その取引内容に、ノアはキョトンと目を丸くする。
 そんな彼にコクリと頷くと、アーニャは更に話を続けた。
「私がライアンに嫌われるか、リアがライアンと恋仲になる事が出来たら、その原因を教えてくれるって約束したの。だから私はリアと協力する事にして……」
「あのさあ、アーニャ……」
 再びアーニャの言葉を遮って、ノアが深い溜め息を零す。
 そして頭を抱えながら、彼は呆れた眼差しを彼女へと向けた。
「キミ、騙されているよ」
「え?」
「え、じゃないよ」
 まさかの意見に、アーニャはパチパチと目を瞬かせる。
 そんな彼女に大きな溜め息を吐いてから。ノアは改めて呆れた眼差しをアーニャへと向け直した。
「普通に考えたら分かるだろ。トーマス先輩はおろか、ファルシー先生だってご存じなかった事なんだろ? それなのにオレ達と同級生であるリアが知っているだって? 特に専門的な勉強もしていないのに? いくらリアの成績が優秀だといっても、それはあり得ないだろ」
「で、でも、それは……っ」
 それはリアに前世の記憶があるからだ。だから彼女は専門的な勉強をしていなくても、先輩や先生が知らないその事実を知っているのだ……が、前世の記憶がないノアにそれを伝えたところで、果たして彼は納得してくれるだろうか。
「とにかくお前が怪我をした以上、放っておくわけにもいかないよ。リアとくだらない事をするのはもう止めるんだ。体を張ってまでする事じゃない」
「で、でも……」
「でも、じゃない。お前、何したか分かってんの? 階段から落ちたんだぞ。下手をしたら死んでいたんだ。例えリアが真実を知っていたとしても、死んでまで手に入れるような情報じゃないだろ。そんな事をするくらいなら、ライアンと付き合った方がまだマシだよ」
「……」
 ギロリと睨み付けられ、アーニャはしゅんとして下を向く。
 ノアが自分を心配してくれているのは分かっている。でも……。
「どうしても知りたいの、シュラリア国が滅亡してしまった理由。だってそれは……」
 それは、自分達が命と引き換えにして守った国。そしてその後、他の騎士達がピートヴァール国を滅ぼし、平和な未来が待っているハズだった国。それなのにどうして、その国が滅びの道を辿らなければならなかったのか。その理由をどうしても知りたい。
「何でそんなにまで知りたいのかは知らないけれど。だけどまた同じような事が起きたらどうするつもりなんだ? 今度は死ぬかもしれないんだぞ。それなのに放っておけっていうのか? 冗談じゃないよ、また勝手に死なれるのは御免だよ」
「え……?」
 その一言に、アーニャはハッとして目を見開く。
 また勝手に死なれたら、だって? それって、まさか……。
(前世での事を言っているの……?)
 前世で死を迎えなければならなかった時の事を思い出す。
 あの日、アーニャはライアンに殴られた後、ノアやセレナ、特に仲の良かった仲間にも会いに行っていた。
 けれどもアーニャが受けたのは極秘任務。これから死地に向かう事を誰にも言えず、誰にも覚られずにしなければならなかった。
(ノアにも、前世の記憶があるのかな?)
『あれ、アーニャ今日休み? はあ? マジかよ、このクソ忙しい日に何でそんな許可下りてんだよ……』
『まあ、精鋭部隊って大変そうだもんな。オレらが知らないところで結構危険な目に合ってるって聞くし』
『ピートヴァール戦では頼りにしてるよ。戦場は違うと思うけど、一緒に頑張ろうな』
 ニッコリと笑って手を振ってくれたのが、前世でノアに会った最後の記憶。ノアの笑顔とは逆に、零れそうになった涙を必死に堪えたのを覚えている。
「ねぇ、ノア、変な事聞くよ。変な事聞くけど……ノアって、前世の記憶ある?」
「……分からない」
 肯定するでも否定するでもなくて。ノアは困ったような表情で、フルフルと首を横に振った。
「前世の記憶があるのかどうかと聞かれたら、そんなのあるわけないよ。でも何の理由もなく、ただ何となく感じる事はあるんだ。何故かは知らないけれど、オレは生まれ育ったこの国を、守りたいとは思えない。ライアンは良いヤツなんだけど、何故かアーニャに好意を寄せている事は気に入らない。お前が死んだ事なんてないハズなのに、お前が階段から落ちて意識がないって聞いた時、またお前が死んだらどうしようって、言い知れぬ不安に襲われた。何でそんな事を思うのか、その理由はオレにもよく分からないけれど。でも、それはお前の言う通り、前世の記憶が関係しているのかもしれないな」
「じゃ、じゃあ……っ!」
 それならと、アーニャはノアに詰め寄る。
 前世でアーニャより長く生きたノア。ならばシュラリア国滅亡の原因を、彼は知っているのではないだろうか。
「ノアは知ってる? シュラリア国の王家が滅んでしまった理由を!」
「アーニャ?」
「あのね、私は前世の記憶があるの。前世で私はシュラリア国の王国騎士団、その精鋭部隊だった。けれども私は、第六回ピートヴァール戦で、シュラリア国を守るために死んだの。そして私達が死ねば、国は平和になるハズだったの。だけど、私が死んだその十年後に、シュラリア国は王家の滅亡が原因で、国自体が滅んでしまったの! だから私は、その王家が滅亡してしまった原因が知りたいの!」
「……」
「リアも私と同じように、前世の記憶がある。そして彼女は私より長く生きた。だからシュラリア国が滅ぶ原因となった、王家滅亡の理由も知っているの。ねぇ、ノアは知らない? シュラリア国の王家滅亡の理由! ねぇ!」
「知らない方がいい」
「え?」
 ポツリと、ノアはそう呟く。
 そうしてから、彼は悲しそうに揺れる瞳で、アーニャをじっと見つめた。
「ごめんね、アーニャ。お前やリアに前世の記憶があるとか、オレにはまだ半信半疑なんだけど。でも、それは知らない方がいいんだと思う。オレには前世の記憶がはっきりとあるわけじゃないけれど。でも、オレの第六感が告げるんだ。今を生きるお前に、それを知る必要はないって」
「な、何で? 何でそんな事言うの……?」
「アーニャ?」
 震える声で、アーニャはそう呟く。
 そうしてから、彼女は潤んだ瞳で、ノアをキッと睨み付けた。
「私が……私がどんな気持ちで死んだか分かる? 全部よ! 全部諦めなければならなかったの! それでも大好きな人達が生きるこの国を守れるならって、誰にも何も言えずに死んだの! 好きだった男子には、私なんかいない方が良かったって言われて殴られたのよ。そしてそれが彼との最期の別れだった。彼には私の想いなんて少しも伝わらず、仲直りすら出来なかったんだ!」
「アーニャ、落ち着いて! アーニャ!」
「好きだったの、さよならくらい言いたかった! でも命と引き換えに彼が幸せになれるならって、私は死んだ! でも、結果的にその国は滅んでしまった! 滅んでしまった事はもう仕方のない事だけれど……でも、その理由を知ろうとする事の何がいけないの? それを知るくらい、別にいいじゃないのよ!」
「ごめん、アーニャ、オレが悪かったから! だから落ち着いて!」
「階段から落ちたのは私の不注意よ! それでノアが心配してくれるのは嬉しいけどっ! でも、そのくらいで止めろなんて言われたくな……っ」
「アーニャ!」
 それを言い切る前に、ノアがアーニャの体を引き寄せる。
 そして彼女の体を、彼は強く抱き締めた。
「ごめん、でも分かってよ。オレだって、お前がまたいなくなるのは怖いんだ」
「……っ」
「現世ではオレより先に死なないでよ。頼むから」
「う、うう……っ!」
 真実を求める自身の気持ちと、痛いほどに伝わって来るノアの気持ち。それらが胸の中でグチャグチャになって、アーニャの瞳からポロポロと零れ落ちる。
「……」
 ノアの腕の中で泣くアーニャ。そんな彼女らの姿を、病室の外からこっそりと見守る影があった。
 今日も今日とてお見舞いに来た、ルーカスとライアンである。
「何の話かはよく分かんねぇんだけど……。でもどうするんだ、ライアン?」
「オレは――」
 迷いなくはっきりと。ライアンが口にしたその決意。
 それを聞いたルーカスは、フッと満足そうに微笑んだ。

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